第14話 CHAPTER 5「Crawler PART 1」
飛び交う怒号は、ほぼ意味を為していなかった。視覚、聴覚を全て覆い隠すような雨と強風、暗闇、天地を入れ替えるかのような波のうねりと轟音が、冷静な思考を組み立てる事を大きく阻害していた。
明確な指示が出されているのか、正確に把握、確認する事はできないまま、隊員は慌ただしくも行動した。それは日頃の訓練の賜物ではあったが、それ以上に切迫した状況が理由にあった。隊員たちが乗船していた練習艦に、民間漁船一隻が接触したのだ。詳しい経緯は解らない。寄港間近の太平洋側日本近海で、夜間、急変した悪天候の中、近づいてくる不明の全長二十メートル程の中型漁船は、再三の勧告と続く警告に従わずにとうとう接触し、破損した模様だ。漁船の乗員は甲板に姿を現さず、いないのか、動けずに船内に取り残されているのか解らない。また接触事故による負傷の可能性もあった。海上保安庁の到着を待つ余裕はない。直ちに救助活動が行われる事になった。
内火救難艇に乗り込んだのは、ヘルメットを被り、黒いウェットスーツの上に装備品が詰まったジャケットを着用して、ボンベを背負った男性救難隊員四名。船体にぶつからないよう、慎重に降下が行われたが、艇は何度も大きく強風に揺られ、隊員達は爪竿と、お互いの身体にしがみついた。海面に着水した時には、漁船との距離が五十メートル以上開いていて、さらに離れて行った。漁船は浸水し、沈没しそうな様子ではなかったが、完全にコントロールを失い、ただ波に流されているように見える。
救難艇はもう一隻降下するはずだが、それまで待機する余裕はない。着水後直ちに艇内配置についた隊員たちは、艇を漁船に向けた。練習艦からの投光を頼りに、暗闇を突き進む。秋口の冷たい風が、顔面を刻むように吹いた。
漁船に近づくと、艇長が拡声器で呼びかける。「こちらは海上自衛隊です! 救助を行います。応答してください!」
応答はないが、漁船のエンジン音が聞こえる。全ての灯りが消されていた。事故によって故障したのか、その前から消したままだったのかは知らなかった。
「エンジンを止めて下さい! 誰か応答を、ロープを受け取れる方、いませんか!」
暴風雨は三~四分の間に時折、数十秒の勢いを落としたインターバルを挟むローテーションを組み立てていた。そのインターバルの間に、隊員達は大声を出し合って手はずを確認しあった。艇長、機関長を残して、二名の若い隊員が漁船に乗り込む事となった。自分と、もう一人という事だ。
なんとか漁船の左舷側に並行しつつ、ロープの束を背負って、もう一人の隊員と固く手を繋いで船首近くで体勢を固める。何度か船体同士の接触があって、その度に緊張感が極限に近づいて行った。練習艦との距離は、さっきよりも離れていた。
幸いな事に、接触寸前まで近づいた時にインターバルが訪れた。勢いよく立ち上がって、漁船の舷縁を両手でつかみ、それからすばやく身体を引き上げてフロントデッキへと転がり込んだ。そしてすぐに立ち上がって、キャビンのある船体中央の位置に備えられた、左舷側のステンレス製の手すりにロープを結ぶと、内火艇の位置を確認して、ロープの束を投げた。
船首部で待ち構えていたもう一人の隊員が、それを胸で受けた。そこまではうまくいった。しかしそこでインターバルは終わってしまった。再び吹き荒れた波風は漁船、内火艇共に大きく揺り動かし、二艇は激しく互いの舷を打ち合わせた。互いを弾いたように二艇は離れた。内火艇が大きく舵を切ったのだ。
まだロープを抱いて立ったままだった隊員はバランスを失い、落水した。反射的に束を離して両手でロープを強く握った隊員は、二メートル程のもとを間に、漁船に引っぱられる状況となった。隊員は力強くロープを上って、手すりに腕をかけた。先に乗り込んだ隊員は、すぐさまその腕を掴んで引き寄せた。
その時、雨音でほとんど消されてしまったが、分厚い本を床板に落とした時のような音が二回、いや二発聞こえた。甲板に乗り込むため、上体を前に折り曲げようとしていた隊員は、途端に全身の力を失い、吹き飛ばされたかのように、海へ消えて行った。
音は続けてもう二回鳴った。銃声だと理解したのは、ようやくその時だった。すばやく反対側へ走って、フロント側のキャビンのかげに身を隠した。
すでに激しく鼓動していた心臓が、張り裂けるかのように動きを増し、全身を熱くした。
かげから見た、拳銃を構えたひとつの人影が、嵐に揺られて頼りない足取りでいる様子を見て、身体は自動的に戦闘態勢に入った。ヘルメットに取り付けてあるライトの灯を消して、ゴーグルとボンベを静かに外した。身体を低くして、暗いながらも足場を確認する。
それまでしばらく外れていた投光器の光が、わずかにリアデッキの方向から照らされた。拳銃を持った人影が光に気づいて後ろを向いた形になると、隊員は咄嗟に駆け出した。
両手をついて、ほぼ四足歩行で這うように近づいた隊員に、振り向いた人影は、すぐには気づけなかった。光はやや上向きだったため、床面にはほとんど光が当たっていなかったのと、物音を覆い隠す雨と風の音、何より隊員の素早い動きが理由だった。
下半身を掴んで引き倒すと、すぐさま覆いかぶさり、拳銃を持つ右手を左手で押さえつけ、右手で顔面を殴りつけた。繰り返し二度、三度と殴るが、まだ抵抗する力を感じたため、喉を殴った。男は(接触した瞬間に男とわかった)拳銃を手放すと、うめき声をあげて、左手で顔を覆ってむせび泣き出した。
隊員は拳銃を手に取って確認した。黒く短い銃身、茶色のグリップに星のマーク、シンプルなストレートブローバックの中口径小型拳銃、おそらくマカロフと思われる。男は痩せていて、上下に黒っぽい合羽を着ている事がわかった。何者か問うために銃口を男の顔に向けながら、上体を引きおこしたところで、また激しい波が大きく足場を揺らした。尻餅をついて後方へ倒れ込むと、わずかに人の気配を後方に感じた。振り返ると、今度は光に照らされた、拳銃を構えた背の低い男の姿が視界に入った。隊員はすぐさま半身で銃を構えた。ほぼ同時に発砲されたが、銃弾が身体に当ったのは、背の低い男の方だけだった。男の身体は後ろに仰向けに倒れて、それからすぐ後に甲板に大きく被さってきた波にさらわれていった。
隊員はまだロープが結ばれたままの手すりにしがみついた。先に倒した男の姿がなくなっていた。船外に投げ出されたのか、それとも逃げたのか。隊員は光にむかって手を振ったが、練習艦の位置はまだ遠い。また、内火艇も離れてしまっていた。どうやら、この漁船は逃走しようとしている様子だ。拳銃で襲ってきたくらいなのだから、当たり前だ。
隊員は携帯無線機を手にして通信を試みようとしたが、その暇はなかった。嵐の中でも気配を感じるくらいに、キャビンからリアデッキに複数人が出て来た様子がわかった。さっきまで暗くしていた操舵室に、いつの間にか灯りが点っていた。全員が銃を携帯している可能性がある。さっきの男が逃げたのだとしたら、こちらは自分一人だけという事も知られている。隊員は無線機の電源を切った。
フロントデッキへと移動して、再び操舵室のかげにしゃがんで身を隠した。拳銃のマガジンを抜いて残弾数を確かめる、残りは三発だ。それから、弾帯ベルトに装備していた刃渡り十五センチ程の多目的ナイフを抜いて確かめた。
とんでもない事態になった。海上自衛隊に一般曹候補生として入隊してから、まだ三年だ。訓練以外の戦闘などもちろん経験していないし、したいと思った事もない、が、つい先ほど初めて人に向けて銃を発砲し、おそらく射殺してしまった。
深呼吸をすると、闇に目が慣れてきた事と、投光器からの不安定な光や、キャビンから漏れた灯りのおかげもあるのだろう、甲板の様子が見えてきた。ずいぶんと古くて汚い船体に思えた。船首部付近には、さっき撃ち殺した(であろう)短躯の身体が横たわっているのが見えた。流されて、船の上をくるっと回ってきたのだろうか、やがてそれは、次に来た大きな波にさらわれて再び消えた。今度こそ海に落ちたようだ。
思わずぷっ、と吹き出してしまった。どうにも変な気分だ。心臓は今も飛び出しそうな勢いで鼓動を続けているが、なぜかそのリズムに慣れてきているように思えた。落ち着いて、覚悟を決めよう・・・幼いころからずっとそうだった、助けはいない、自分一人の力で生き残らなければならないのだ。全員殺してしまったって、しようがないだろう。
雨音に混じってはっきりしないが、呼び掛けあう声が聞こえた。日本語ではない、さっきの男たちの顔は皆アジア系、黄色人種に見えた。中国か、朝鮮か、なぜ太平洋側の海上にいるのか、なぜ武器を携帯しているのか・・・いや、今はそんな事どうでもいい。どうやら両舷から挟み撃ちしようとしている。ナイフを再びジャケットのホルダーにしまった。
風が少しおさまってきて、かわりに雨が勢いを増した。投光器の光が完全に逸れて、一時、ほとんどが雨の降る音と、甲板を打ちつける音だけの世界になった。その間に動いた。
フロントデッキに二人、先の男と同様の合羽を着た男達の姿がうっすらと見えた。おそらく二人共に拳銃を手にしているだろう。身を隠したこちらを見つけられないでいる。一人がしびれを切らした様子で、大声を出すと、デッキの灯りが点いた。
するとすぐに、逸れてしまっていた投光器からの光が、船体を捕えた。
もう一人の男が怒鳴った。二人の男は激しく罵り合っているように見えた。灯りは再び消されたが、投光器の光はまだ失われていない。すでに捕えた相手の動きを、目でトレースできるくらいの情報は得られた。
一人がほんの二メートルほどの距離まで近づいて来た。身をかがめながら、首を振って辺りを窺っているため、至近距離から注がれる視線に気づかなかった。例えどんなに激しい揺れにさらされた状態・・・強く打ちつける波を背に、船首部の舷縁に片腕と両足をひっかけて、しがみついているような態勢であっても、この距離で外す事はない。
振り返って背を見せた瞬間、銃を握った右腕を伸ばして、ためらわずに引き金を引いた。背の中心を撃たれた男は、後ろから強く押されたように前のめりに倒れた。外国人を、例え武器を手にしていたといえども、背後から銃殺する事の重大さについて、何ら思慮する事はなかった。
もう一人の男が喚きながら、四方に発砲を繰り返した。まるでこちらの位置を把握していなかった。
おさまっていた強風と波が吹き荒れはじめた。大きく横に揺れた船体に、咄嗟に両腕でしがみついてしまった。むろん拳銃は海に落ちた。
男は倒れたもう一人に近づく事なく、尻をついて右舷側の手すりにしがみつきながら、辺りに銃口を向けていた。ひどく焦っている様子がわかる。船の規模から考えて、まだ数名が操舵室にいる可能性が高い。今の内にもう一人片付けておこう。ゆっくりと両手で身体をひきあげて、寝そべった態勢でデッキ上に身体を滑り入れた。四つん這いのまま、ナイフを抜いた。
男は投光器の光から逃れるように身体をよじらせているが、揺れる足場に、立ち上がれないままでいた。こちらに気づいた様子で、一発発砲したが、どこにも着弾しなかった。五~六メートル程度の距離しかないが、この状況と男の様子では、当たる確率は低い。
身を低くして、甲板上に固定された道具箱や、小型のウインチのかげに隠れながら近づくと、男は怒鳴り声を上げてもう一発発砲したが、またどこにも着弾しない。スライドがホールドオープンして、男は弾切れに気づくと、絶望した表情になった。
低い姿勢のまま、隊員は男に接近していった。
男は弾を失ったままの拳銃を未だ向けたまま、すがるような表情で何度も引金を引いた。
突き抜くような勢いで、正面から身体をぶつけた。胴体にナイフを深く刺し込む感触が、命を奪う確かな実感を与えた。ナイフを引き抜くと、疑いようなく男は死体になった。
隊員は手すりを握って立ち上がり、死体を見下ろした。腹部から溢れ出てくる多量の血と、ナイフについた血が、雨で洗い流されていく光景を見て、急に息苦しくなった。相当な興奮状態にある事を自覚して、ナイフをホルダーにしまい、片手でヘルメットを脱いだ。冷たいシャワーを浴びるように顔を上に向けて、鯉のように口を何度も開けて、心臓の鼓動に合わせるような呼吸を繰り返した。少しだけ興奮は収まった。
二つの死体を確かめた。やはり黄色人種だ。一人は背後から撃ち殺し、もう一人は弾切れで戦意を失っていたが、正面から刺殺した。自分では正当防衛のつもりだが、どう受け取られるのだろうか。中国人か北朝鮮か、犯罪者なのか、それとも軍人なのか、相手の正体にもよるのだろうが、いずれにせよ、ただでは済まないだろう。助けるために命がけで乗り込んだというのに、どうしてこうなるんだ。何も悪い事をした覚えがないのに、どうして自分の人生は苦難だらけなのか。
殺された方が良かったのだろうか、生まれて来ない方が良かったのだろうか・・・
そんな事をほんの十数秒の間であったが、ぼうっと考えてしまっていた。まだ少しも油断できる状況ではなかった。少なくとももう一人敵が残っている事を思い出したのは、その一人が背後から奇声をあげながら、防災用の手斧を手に襲い掛かってきた時だった。
反射的に身を引いて躱したが、斧はジャケットの一部を切り裂いた。ジャケットは防弾、身体の損傷はないと瞬時に判断した。隊員は次の一振りの軌道を読んで確実に躱すと、ヘルメットを投げつけた。顔面に当たって怯んだ隙に、一気に距離をつめて、斧を持つ右手首と左上腕をそれぞれ掴んで、動きを封じた。間近に寄った顔を見ると、最初に制圧した男だった。顔面が腫れあがり、血を流していた。斧を手にした右腕の抵抗力から、明らかに自分の腕力との差を感じた。劣勢を自覚して涙ぐむ男の顔を見て、なんだか憐れに思った。おそらく他に仲間はもういないのだ。何者であろうと、こういう事態になった事で、もうこの男に未来はないのだろう。
上半身を封じられて、足で抵抗を試みた男は、バランスを失って後ろに倒れそうになった。船が大きく揺れて、隊員は踏ん張る事ができずに、男に身体を引っ張られた。
大波が漁船に覆い被さり、隊員と男の身体は抵抗を許されず、激流に飲み込まれた。
ピンボールの球のように甲板上の各所に身体を打ちつけながら、二人の男と二つの死体が、海へと流れ落ちて行った。
雨も風も勢いを増した。数分経って、船は転覆の後、沈没した。
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