第18話 CHAPTER 6「Your reach PART 1」
議員宿舎に入った後、グレーのスラックスと半袖の白いポロシャツに着替えて、報道陣が完全にいなくなるまで待ってから車に乗ったため、東京郊外にある料亭に着いた時、時刻は午後十時を過ぎていた。個室で一旦遅い夕食を取り、しばらく経ってから、秘書の
共にスーツ姿の二人は足音もたてないように静かに部屋に入ると、すぐに並んで正座して、頭を下げた。
「どうも、本日はお忙しいところをお呼び立てして、まことに申し訳ございません」と、背の高い方の男が言った。
「ま、いいから、そっちへお坐りなさい」と
二人はそれぞれ「はい」と返事して立ち上がり、座椅子に慎重に座った。
着物を着た仲居がお茶を配膳し終えると、掛井は築島に部屋を離れるよう命じた。築島が部屋を出て行ってから、もったいぶるようにゆっくりとお茶をすすって、掛井は低いトーンで話し始めた。「久しぶりだな、
「はい、ご無沙汰しております」と戸谷が恐縮した様子で答えた。
「うん、それで、話と言うのは?」
「はい、電話でお話しするのは問題が生じる内容と考えましたので、こうして、お人払いの上での相談を、ええ、お願い致しましたわけで…」
「だから、今そうしているじゃないか、早く話せ」
「は、はい」
恐縮しすぎてもたついた話し方に、掛井は苛立ちを募らせた。予想通り、この警視庁の刑事二人が話した内容はあの忌々しい女、
「それで、女の居所は解らぬまま、もう二週間も時間が経っているという事かね」
きつい口調で言われて、真壁はしぼんだように無言になった。
行方不明になっていた氷川が現れたことに、さほど驚いた様子がない事を不思議に思いながら、戸谷が代わって話した。「しかし、まだ本当に氷川龍子だったという確証はございません。また、例えそうだったとしても、これまでもその、何もなかったわけでございますので、特にご心配なさる状況ではないかと」
「馬鹿を言え!」掛井は大声を張り上げた。
戸谷と真壁は硬直したように押し黙った。
「すまん」と、掛井は一言低い声で詫びてから続けた。「だが、君達の楽観的な観測に反して、事態はずっと深刻になっているんだ。氷川龍子は今現在、日本にいる、我々に対して敵対行動を取る意向である、これは事実だ」
「あの、なぜそう言い切れるんですか?」と戸谷が遠慮がちに言った。
「君達は、テレビを見ておらんのかね」
はっ、と二人は気づいた。ここ二日ほど、掛井議員の収賄疑惑を報じるニュースやワイドショーで、幾度か映し出された録画映像を思い出した。まさかあの、変換された甲高い声で話す頭の悪そうな女が、氷川龍子なのか? あの女がどういう性格をしているのかは知らない。だが元警察官であり、恋人に腹を刺されたあげくに職を奪われ、逃亡生活を強いられた女のイメージを、あのボカシ処理された女と繋げる事はできなかった。
「もしかして、氷川がご自宅に現れたのですか?」戸谷が言った。
「そうだ」
「一体、何を話したのですか」
「脅しだよ。我々を脅しに来たのだ」
〝我々〟と、強調しているように戸谷は感じた。(冗談じゃない)
「氷川は何を要求しているんですか」
「我々が、全てを世間に公表する事だ」
「公表…ですか」
「そうだ、状況が解ったか。一刻も早くあの女の居所を突き止めて、早々に処理しなければならない」
(処理しなければならない、だと?)あの時も、この男はそう言った。処理とは何だ? 殺す事だろう。この老人は他人に女を殺させようとする時に、使命感を抱かせようとしている。正義の戦争でもしているかのような口ぶりだ。どこまで傲慢で、残虐なのだろうか。
俺達が自分の配下であり、それも命令で殺人を犯すまでの忠誠心を持っているなどと、本気で思っているのだろうか。俺達はこの男の息子、掛井
その要求に応じるつもりはなかった。ただ氷川が入院する病院を時折訪れて、監視しているふりをしてやり過ごし、時間を稼ごうとした。彼女が回復したならば、時間をかけて説得するか、掛井との間を取り持って、金銭で決着をつける考えでいた。もしも容体が悪くなって死亡すればそれまで、また自分たち以外の手で殺されたならば、それもそれまでの事と考えた。
しかし彼女は病院から逃亡するという、予想外の行動を起こした。とてもまだ歩ける状態にない、と医者から聞いていたのに・・・。
しばらくの間、重い沈黙が続いた。掛井は処理しろ、という要求についての返事を待っているようで、真壁は思考を止めているように見えた。
「天童警視を調べてみるしかないですね」と小さな声で戸谷は言った。
掛井はその返答には不満気な様子だった。
「まだ調べていないというのが信じられんよ。そんな呑気で課長が務まるのかね?」
戸谷は表情を険しくした。「彼は埼玉県警の刑事であり、しかもキャリアです。呼びつけて取り調べでもしろ、って言うんですか」
(だいたい、あんただって自宅にまで来られておきながら、その後居所を突き止められずにいるって、どういう事なんだ!)と、続けて口から溢れ出そうになった。
掛井は少し驚いた様子で、唾を飲みこみ、こらえるように押し黙った。重い沈黙の後、掛井は鼻息をひとつ鳴らして、落ち着いた口調で話し始めた。
「私の息子は間違いを犯した。それは恥ずべきことであり、本来断罪されなければならない。それは私も十分解っている。しかしな、戸谷さん、真壁さん、私は政治家であり、また息子は、当時は君たちと同じ警察官であり、現在は私と同じ政治家の道を歩み始めているんだ。政治家というものはな、汚いものなんだ、それは政治家自身自覚しているものなんだ。皆がそうだ。全国、世界中の国の政治家、皆そうなんだ。口では美辞麗句を、青臭い事をのたまう者も多くいる。しかし本音では常に他者を落とし入れ、自分だけ出し抜く事ばかりを考えているんだ。裏切り、謀略、それと暴力の世界だ。それは君達だって知っている事だろう。しかしな、そんな世界に果敢に飛び込んでいける人間がどれだけいると思う。君たちは政治家になりたいと思った事があるか? 政治に文句を言っている者が、じゃあ自分が政治家になれるならやると言うのか? ほとんどのものが否定するはずだ。君たちの学生時代に、生徒会長や学級委員選挙に自ら手を挙げて立候補する者はどれだけいた? 四十から五十人いるクラスで、せいぜい一人か二人だったんじゃないか? 進んでリーダーになろうとする者は、嫌われ者になる覚悟を持つ者だ。政治家は学級委員や部活のキャプテン、会社の管理職や役員などとはレベルが違うぞ。責任の大きさ、重圧、多くの敵。国内だけではない、世界中が相手だ。海外の政治家の中には、犯罪者や大量虐殺者だっているんだ。そんな奴らと渡り合わなければならない政治家が、その辺の、たった一人の女に振り回されてどうする。どんな手を使ってでも、そんなものは蹴散らして行かなければならないのだ。覇道を歩むためには、非情でなければならないのだよ」
…一体、この老人は何の話をしているんだ。話のすり替えにも程がある。これで自分と息子を正当化しているつもりなのだろうか。腐臭を放つ政治の世界で生き抜くためには、痴情のもつれなんかで、女を刺せるほどにならなければならないのか、その行為をひた隠しにするために、あれこれと画策できなければならないのか。ならば自分達、政治家達だけでやればいいだろう。非情だって? 卑劣と間違っているんじゃないのか?
戸谷は怒りを通り越して呆れ果てた。そして、こんな事に巻き込まれてしまった自分を心底情けなく思い、悔いた。なぜ隠蔽に手を貸してしまったのだろう。その事と引き換えに得たものは何だろうか。確かに自分と真壁は共に昇進し、捜査第三課の課長と係長職を得た。それは掛井の働きかけによるものだったろう。しかし、とても釣りあったものとは思えない。三、四年程昇進が早まっただけのものだ。真面目に仕事をしていたならば、今と変わらぬ地位にいるだろう。もしかしたら、捜査一課のままでいられたのかも知れない。
「どうにか、手を貸してくれんかね」と、さっきとは打って変った態度で、乞うように掛井が言った。
少し沈黙をおいてから、はい、と戸谷は答えた。なぜ隠蔽に手を貸したのか? 解っている。自分がどうしようもなく臆病だからだ。今更自分の罪を暴露して、償うことなどできはしない。この醜悪な老人と同じなのだ。
「しかし、具体的にどうすればいいのか、天童の身辺を調査するとしても、我々もそう自由に動ける立場ではありません。下手に手を広げてしまうと、取り返しのつかない事態になるかもしれないですし」
「君達は本庁の刑事だろう、女一人見つけるくらいの事ができないのか」
「ですから、犯罪者でもない、単なる行方不明の女一人に、本庁が捜査を行う訳にはいきませんよ。手順をすっぽかしては、何もできません」
ふん、と鼻を鳴らして、掛井はまた憮然とした表情と態度に戻った。
「ある男を、君達の元に寄越す」
「え?」
「私が目をかけている者だ。ただしそいつはこの件を詳しくは知らない。本人も知ろうとしないよう、言い含めておく。その男と共に、氷川龍子の居所を突き止める事だけを考えるんだ。いいか、そう時間はないんだぞ」
言われるがままに従う事を、戸谷はまた選択してしまった。選択したのではない、流されているだけなのだ。
真壁は何も言わなかった。
二人の警察官が支払いをして料亭を出て行く姿を陰から見送った男は、口の両端を上げた。ブラウンのスーツを着てノーネクタイ、サングラスは外していて、代わりにアメリカ某ブランド製の、太い黒フレームの眼鏡をかけている。レンズに度は入っていない。
「
築島の背に向けて、町田は語りかけた。「築島さん、あんたはどこまで知っているんだい?」
「何をです?」
「とぼけんなよ」にやけながら、町田はからかうような口ぶりで言った。「掛井さんのここ最近のいろんな、いざこざについてだよ」
「何も話して頂いておりませんので」
「掛井さんもそう言っていたがね、身の回りの世話をしているなら、多少気づく事もあるでしょう」
「何も考えるな、と言われています」
「そういう訳にはいかないだろう、人間なんだから、なあ」
ずけずけと気安く話しかけてくる、とても堅気には見えない男の言葉を、無関心を装う事で防ぎながら、築島は歩みを早めた。
「築島です。町田さんをお連れしました」と、障子戸に向かって呼びかけると、中から「入れ」と掛井の声がした。
町田だけが部屋に入り、築島は掛井に命じられる前に戸を閉じて、離れて行った。
座椅子に腰かけたままの掛井が、「どう思った?」と町田に語りかけた。
「さっきの刑事達の事ですか? ダメでしょう、頼りないな」と笑顔で言いながら、町田は無遠慮に掛井の傍らに腰かけた。
「そうだな、まったく、最近の警察はやわだ。頼りにならん」
「やっぱり、私の方でも動きましょうか。高くつきますけれどね」
「ふん、そうしてくれ」と、掛井は苦笑した。「どうだ、飲むかね、 飯は食ったのか?」
「いいえ、結構です」(・・・やれやれ、わざわざこんな所で飲み食いしながらでないと、悪巧みのひとつもできないのかね、政治家ってのは)
「それでその女、氷川龍子の事ですが、この前改めて写真を見せて頂きましたが、なかなかの美人ですね。五年経って三十歳ですか、どうなんです? 五年間も隠れていたんでしょう、人相や体型が変わっていたりしましたか?」
「いや、派手な格好をしていたが…」
「それじゃあ、美人のままですか」
「見かけだけの、バカ女だ」
「あれ? 掛井さん、昔はもっとその、漁色家ってヤツじゃなかったですか、さすがにお年ですか?」
掛井は無言のまま、皺に縁取られたギョロ目で、町田を睨みつけた。
しかし町田は露も怯む様子はなく、「失礼致しました」と言って、にやついた表情を崩さなかった。「それで、この事は息子さんにはお話しされるんですか?」
「馬鹿な、あいつは今修行中の身だ。些末な事に捕らわれている暇などない」
「確か、党内のどちらかで、政治秘書をされているんでしたね」
「そうだ、今年一年は政治の勉強に費やさせる」
「いきなり国政に打って出るお考えですかね」
「そんな事は話せんよ」
(たった一年、それもお客さん扱いの秘書勤めなんかで修行だなんて、よく言えるものだ)
町田は掛井に向ける表情(侮蔑を込めたにやけ顔)を変える事ができなかった。警察官の身でありながら、一時の激情で女を刺し殺そうとした愚か過ぎる息子を、政治家にしようとしている事に迷いはないのだろうか? 親とはこういうものか。自分の息子に対しては犯罪を隠蔽してやるまでに過保護で、他人の子、親すらいない者に対しては、その存在を消そうとするほどまでに残酷になる。政治家ならば、むしろ逆にするべきだろう。
「掛井さん、建設会社との件については、なにか私がお助けできる事はありませんか?」
「何も問題はない」
「水臭いな。お互いに百鬼夜行を歩む仲じゃないですか」町田はにやけた顔を近づけた。
「ふん、下っ端がほざいているだけだ」
「それだけで、こんな騒ぎになりますか?」
「私は嫌われ者だからな。だが実際、詳しい証言があるのは一年前の一件だけだ。それ以前の事は単なる伝聞、推察に過ぎない。他には確かな証言も、証拠もないんだ」
「すると、今のところは一度の献金疑惑についての疑い、ってわけですか?」
「どうにでもなる。起訴どころか、取り調べすら行われんよ」
掛井はぬるくなった茶をすすって、顔をしかめた。
「なぜそんな事が解るんです?」
「私が誰かちゃんと解っているのかね? 警察だろうが検察だろうが、日本で私の手が届かないところはないよ」
「失礼しました」町田は上体を引いて、掛井との距離をとった。
さあ、本当にこの老いた男にそれほどの力がまだあるのだろうか。疑惑を抱えた七十歳の政治家に、今後日本の未来を託そうとする支援者が、どれくらいいるものなのか。次の選挙は遠くない、自身の不出馬、そして政界引退を考えていない事はないだろう。ならば、自分の威光が少しでも残っている今の内に、自身と息子の鬼胎を掃うためには、多少無茶な事もするのではないか。
実際、五年前にも同様に、氷川龍子の事について相談を受けた。その時氷川は入院治療中であって、掛井がはっきりと言葉にせず求めていたことは、彼女を始末する事だった。準備を進めていた途中に、氷川が病院から逃走したと聞いた時は、チャンスだと思った。自分で病院を抜け出してくれたなら、捕まえさえすれば、始末はずっとやりやすくなる。しかしその知らせを受けたのは、逃走してから二日が経った後で、足取りを追うにはもう遅かった。掛井も、おそらく息子の暁も覚悟が足らなかった。女を殺す決意ができていなかったのだ。だから対応が遅れたのだ。もしかしたら、女がこのまま姿を消して、二度と現われない事を期待したのかもしれない。五年経って、ようやく間違いだったと気づいた。次は殺すのだろう、殺させるのだろう。俺を使うならば、安くはないぞ。
しかし、なぜ五年もの間動かなかったのか。掛井が献金疑惑をかけられた今を狙ったのだろうか? という事は、五年間も待っていたのだ、相当の準備を整えながら・・・。
「それじゃあ私はそろそろ帰って、今後の作戦でも練る事としましょう」
「ああ、しかし、…実はこの後もう一人呼び付けているんだが、そいつの顔も見ておいてくれないか?」
「誰です?」
「五年前に氷川龍子が逃げた跡を追わせた奴だ。そいつが、氷川は海外に逃げて行方不明になった、と言っていたんだ」
「へえ、探偵か何かですか?」
「いや、ジャーナリストと言っていたがな、実際は三流雑誌の記者だ。今は編集長だったかな」
「なぜそんな奴を?」
「氷川龍子と面識があったと聞いていたんだ。また、そいつも私の友人の息子でな、不肖の息子だと言っていたが、全く、同情するよ」
「はあ、そりゃいい」と、町田は噴き出した。掛井のさらに苦々しくなった顔を見て、「ああ、失礼しました」と真顔に戻して、表面だけ謝罪した。
「それで、そいつは事の次第を知っているんですか?」
「いや、あくまでも自殺未遂をして、その後病院から逃げ出した、暁の元交際相手の行方を探させただけだ」
「なるほど」(なんだそれ、不自然だよ)
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