第5話 CHAPTER 2: Looking down from the bottom PART 1

 男との会話を録音したボイスレコーダーの音声ファイルが、証拠として受理される事はなかった。それどころか、龍子りゅうこたちが警察署に訪れた事自体、無かった事になった。一切の調書を取らなかったためである。龍子の話を聞いた限りでは、決して男は山梨県大月市での女子大生殺害事件を自供しているわけではない。また彼女の説明による特殊な状況下での会話自体に、信憑性が認められる事はないだろう、と天童てんどうは言った。殺し屋のスカウトをしていると装った女に、人を殺した経験があるかと問われて、その条件に合致していると答えている・・・信憑性以前に、下手をすると悪質なイタズラと受け取られてしまう話だと言うのだ。男を参考人とするくらいの情報ではあるが、それは男がキャバクラで話した様子によるものであり、それには当の、男に応対して殺人を仄めかしていた言葉を直接聞いたキャバクラ嬢の証言が必要だ。

 また柏市警察にとっては、男が住んでいるとはいっても事件は管轄外であり、千葉県警と山梨県警への通達が必要になる。その時の材料が、龍子が先に話した内容というのでは、どうにも困り果てるものであった。署長の高坂こうさかは天童に恵比寿顔を何度も向けて、直接山梨県警に持ち込んだほうが良いとの趣旨を、しきりに会話に織り交ぜて話していた。要はこんなややこしい話は他所へ持って行ってほしいという事だ。

 この事が、龍子が埼玉県警の天童の名前を出したところ、すぐに彼にコンタクトを取った理由であろう。天童はその事を来る前から察知していた。この件に関しては全てを引き受けます、という応対をした彼に、高坂は心からの感謝を示した。

 天童は高坂に言って相談室を借りて、そこで龍子、喬史たかふみと改めて話す事にした。龍子達が警察署を訪れてから、およそ五時間が経過していた。

 龍子は、あ~疲れた、と言いながらパイプ椅子に座って、深く溜息をついた。

 天童が向かいに座った。「それで、なぜ直接俺に連絡をくれなかったんだい?」

 龍子は笑顔になって、「結局頼っちゃったね」と言った。「天童さんにはなるべく迷惑かけない様にしようって思ってたんだけどな。やっぱり無理だったか」

「黙って連絡先を変えてから一年以上も経って、三百万の報奨金のために俺に再び連絡を寄こすってのも、良く解らないな」

「不自然かな」

「龍子ちゃんのやる事は予想つかないからな。まあ、そこが一番の魅力だがね」

 十秒程の沈黙の後、龍子が言った。「捜査される事はないのかな?」

「さっきも言ったけれど、参考人にするくらいはできるよ。その龍子ちゃんの友達の、キャバクラ嬢を連れて来てくれればね。でも何せ十年も前の事件だから、確固たる証拠が出て来なければ調書を取るくらいしかできないんじゃないかな。もっともそれをするのは山梨県警だけどね」

 龍子は元々の情報源である、知り合いのキャバクラ嬢を連れてくる事については固辞していた。彼女は自分の証言が原因になった事が男に伝わる、もしくはそう推察されて、後に報復される可能性を心配している、と話した。彼女の了解なしでは、名前すら言う事はできない。また、男の名前も明かさなかった。逮捕しないならば情報を渡す事はしない、と強弁した。調書を取らない事にした警察にとっては、そう言われると無理強いはできない。被害届が出された訳ではないのだ。

「本当に録音は少しも材料にならないの?」

「聞かせてみてよ」

「嫌よ、調書もとらないくせに」

「じゃあ無かった事だ」

 くそっ、と龍子は顔をしかめ、それから机の上に伏せた。明るい茶色の髪が机上に広がった。「そうかあ、やっぱり考えが足らなかったかな~」

 喬史が腕を組んで言った。「もっと時間かけて調べてからにしようって言ったのに」

 龍子は伏せたまま「こいつ、ダメ出しばっかり」 それから顔を上げて怒った様に言った。「これからもっとお金が必要になるって話したでしょう、だから急いだんじゃない」

「何もかもは無理だよ」

「詳しく聞かせてもらえないかな」天童は龍子にまっすぐ目を向けた。「さっき話した事が全てじゃないだろう? 俺だって力になれると思うんだが……ずっと心配してたんだよ」優しく、誠実さが感じられる口調だ。

「何をしようとしているんだ?」

 龍子はまた笑顔になった。ころころと表情が変わる。

「天童さん、もういい人がいるんじゃないの?」

「女がいるかって事か? いいや、まだ君に惚れたままだからな」

 喬史は天童の顔を見た。

「じゃあもう少し時間を頂戴。真剣に考えるから」龍子は立ち上がった。「また連絡します」

「もう行っちゃうの? 連絡先くらい教えてよ~」と、天童が泣きそうな顔をした。


「あのおっさんを呼んだのかよ」村井むらいは天童の名前が出てから怪訝な表情をしていた。おっさんとは言っても、自分だってそう年齢は変わらない。

「仕方ないじゃない、らち・・が開かなかったんだもの」

「どっちにしろ無駄だったんだろ、どうするんだ」

「どうもこうも、やるだけやるわよ。後戻りする気なんかないわ」

 村井の運転するシルバーのコルベットが、大きなエンジン音をたてて湾岸の高速道路を走っていた。昼間で少し混んでいるため、アクセルを思う様に踏み込めない状況に、村井はもどかしい気持ちだった。

「で、男の方はどうするんだ?」

「男って?」

仁村にむら岳人たけひとの事だよ」

「ああ、そうね、忘れてたわ。待ってなさいって言っておいたのだから、まだ待つでしょう。今頃、殺しの自主トレでもしているんじゃないかしら」

「おいおい、そんなの放っておいてどうするんだよ」

「今、もっと考えなくちゃならない事があるのよ。どうするどうするって、できない男の代表セリフを連発するもんじゃないわ。顔の皺が増えるわよ」

 村井は舌打ちして押し黙った。腹の立つ女だ、と会う度に思うのだが、時間があるなら車で送ってくれないか、と頼まれればホイホイ迎えにまで来てしまう。決して暇ではないというのに・・・自分が情けない。しょっちゅう口論をしては言い負かされて後悔する事がある。相手は十以上年下の女なんだ、もっと心に余裕を持って接しようといつも思っているのに、うまくいかない。きっと性格が合わないのだろう、もしも結婚したとしても、十中八九失敗するだろう。解っているのに、彼女との係わりを断つ事ができないまま、もう十年の付き合いになった。十年間も同じ女を想って結婚しないままでいるって、現実にある話だったとは。しかも自分の事だとは。

 龍子は今さっき村井に話した警察署での顛末の、そのすぐ後の事に頭を悩ませていた。天童と別れた後の警察署の正面出入口での出来事。思い通りの展開にならず、予想以上の時間を費やされて外はすっかり陽が落ちてしまっていて、バイトの時間まで休む暇はなくなった。苛立ちが募っていたのだ。出入口に三人のスーツ姿の男達が入って来た時に、避けるスペースは十分にあったというのに、わざと邪魔だと言わんばかりの間隔で男達とすれ違い、睨みつけてしまった。

 真ん中に立つ四十代と思われる男の顔に見覚えがあった。そしてここが警察署である事と頭の中で関連づけると、瞬時に記憶が蘇った。

 男の方も彼女の顔に見覚えがあった。その美貌に刺激されて記憶が呼び起こされる。自分が過去に実際に出会った、関わった事のある美女のリストが頭の中で瞬時にアップされて、どれかにヒットしたのだ。しかし、まだ確実な情報が引き出されていない。

「おい、ちょっと」と最初は小さな声で振り返って言った。女と後に付いた若い男が無反応で外へ出て行くと、「おい、待て!」と声を大きくした。男の両側に立つ二人が色めきたつ。

 龍子は背を向けたまま走り出した。男は「待つんだ! そこの女」と、さらに声を大きくして指差した。両側の男二人が合図を受けた様に駆け出した。龍子の後ろに付いていた喬史は立ち止まって、両側から追い抜こうとする男達の一人の足を振り向き様に右足で払い、もう一人には回した身体を、肩から男の胴体にぶつけた。一人は前のめりに、もう一人は尻餅をついて倒れた男達に、喬史の顔を認識する余裕はなかった。

 あっ! と驚いて外に出た四十代の男の視界には、もう龍子と喬史の姿はなくなっていた。手をついて立ち上がった男達は共に警察官だが、年齢は上司である四十代の男よりも上であり、訳も分からず動いたため、すぐに追いかけるまでの動きに移行する発想も、体力も持っていなかった。何者なんですか? 手配しますか? との呑気な二人の問いに対して、男は溜息をついて、「いや、いいんだ」と答えるだけだった。

 龍子は肩を押さえているシートベルトを意味も無く弄りながら、偶然って、嫌な事は度々起きるのよね。警察なんて五年余り寄り付く事すらしていなかったのに、と考えていた。

 彼女はストライプのシャツにネイビーのスーツ、スカートを着ている。髪は束ねて、化粧も控えめにしていた。柏市警察署での姿とは打って変わった姿だ。また警察に行かなきゃならないなんて、なんか面倒くさくなって来たな~、そう思っていた。

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