第4話 CHAPTER 1: Straight to hell PART 3
以下、龍子が話している
男は自らの心に常在する怒りの取り扱いに疲れていた。仕事をしている時は当然で、テレビを見ている時も、電車に乗っている時も、食事をしている時も、酒を飲んでいる時も、何かにつけて苛立ちがすぐに湧き上がってくる。唯一解放される時は寝ている時くらいのものだ。睡眠欲が満たされてしまうと、あとは怒りが生活の中にわずかに点在する喜びを全て塗りつぶしてしまう。どうしてなのか、それは決まっている。月並みと言われようが、社会が悪いのだ。理不尽で埋め尽くされた資本支配の世の中。自分達だけに都合の良いシステムをつくり続ける資本家ども、その召使いの嘘つき政治家共、分不相応な待遇を受け続ける恥知らずな公民共、搾取され続けても愚痴を言うだけの愚民共、何もかもが醜悪で理解不能だ。不公平がうずまくこの世界で、不感症でいられる奴らが信じられない。
今日は平日だが休みだ。契約社員は実働がない日を休みにされる。その分工期が厳しくなった時は問答無用で残業や休日出勤を命じられる。もちろん拒否権も手当もない。スケジュール管理が適当だから、急に休みを決められる事が多い。今日もいつも通り予定のない休日を過ごすことになる。男は昼前に目覚めて、すぐに苛立ちを感じ始めていた。
男は休日の昼食は、決まって外食している。住んでいる賃貸アパートから十五分程歩くと、古ぼけた喫茶店が一軒ある。そこからさらに少し歩いて国道に出ると、大衆向けの中華料理店とチェーンの牛丼店がある。駅前までいけば他にも色々と食べられるところはあるが、徒歩だと三十分はかかる。大抵は中華料理店でランチを食べる。混雑している時には牛丼屋で済ますのが定番だ。
乗用車一台分程しかない道幅の入り組んだ通りを歩いて、砂利敷きの駐車場を通って、並んだ廃工場の間にある狭い道を抜けるとショートカットできる。男はいつもその道を通る。駐車場には無断で捨てられた車が数台あって、とてもまともに管理されているとは思えない。人の気配もほとんど感じられないようなところだ。
ひとりの若い男が向かって、駐車場を歩いてきた。二十代で生意気そうな、気に入らない表情。眉間に皺を寄せて目を細め、こちらに向けた視線を外さないままだ。正午をとうに過ぎて、空腹感に苛立ちを感じていた男は、さらに血流の勢いを増した。狭い道幅ですれ違うまで、お互い睨み合った。高い確率で揉め事が起こる、男はすぐに覚悟を決めた。男にとっては何度も経験ある事なのだ。すれ違ってすぐに若い男がおい、と男を呼び止めた。何だ、と男は振り向きざまに距離を縮める。けんかは何よりも先手が肝心だ、攻撃もはったりも先手を取る事が有利に働く。男は暴力にまみれた青春時代で得た経験を、今も誇らしく思っているような男なのだ。手を伸ばして若い男のTシャツの襟首を掴み、引っ張る。その時の抵抗の具合で相手の力量がわかる。若い男は何の抵抗も示せずに、なすがままに身体を前後に揺すられた。手を離すと後方によろけた。男はダメ押しで腹を押し倒すように蹴って、尻餅をつかせた。「なめてんのか、この野郎」と見下ろして言うと、若い男は立ち上がって、走って逃げて行った。完勝だ。相手が弱かった? いや、自分が強いのだ。興奮がさらに血流を活発化させる。だがこれは苛立ちのせいではない、久々に目覚めた自尊心、湧き上がった高揚感が原因だった。
ランチにはお祝いにビールをつけよう、男はそう思って、足取りが軽くなった。狭い道を抜けて国道に出ると、すぐ目の前にシルバーのスポーツカーが一台停まっていた。シボレーコルベットC5型、男は肉眼では見た事すらない高級車だ。歩道に向いた左運転席側のドアが開いた。ついさっきの出来事と相まって、現実感を失いかけていた男の前にさらに追い打ちをかけるような光景が現れた。空前絶後の光彩放つ、楚々紅裙の登場だった。
女は車を降りて、男の名前を言って呼びかけた。その後男の生年月日、年齢、出身地、出身校を言い当てて、女は「車に乗ってちょうだい、今日仕事が休みになった事、ついさっきの悶着、今わたしに出会った事は、全て偶然ではないわ。今日があなたの人生において、運命の日なのよ」と不敵な笑みを浮かべて語った。男は全身の血流を感じた。
男に誘いを断わる理由はなかった。彼の人生において、目もくらむような美女の運転する車に乗るような機会は今後ない、と瞬時に確信したからだ。予想していたろくでもない自分の未来に、ついに転機が訪れたのだ。この後騙されるかもしれない、痛い目に遭うかもしれないという危惧ももちろんあった。しかしそれでも、恐ろしいほどまでに美しい女と係りをもつ何かに、価値を見出したのだ。そりゃあ無理もないわ。
《コホン、と軽く咳払いを入れて》
車に乗った男は、ほとんど黙ったままだった。女が何者なのか、どういった要件なのか問う事もなく、車や女の容姿を褒めるような愛想も示さなかった。動じない肝の太さを演出しているようで、その実極度に緊張している様子が窺い知れた。
車は三十分程走って、海沿いにある一軒のレストランに着いた。海の景色が見える窓からの光だけで店内が照らされている。他に客はいない。スタッフも二、三人要るだけの様子だった。男が座った席のテーブルには、すぐに料理が運ばれてきた。エビのオリーブ炒めや、バルサミコソースがかかった牛肉などが並べられて、赤ワインがグラスに注がれた。向かいに座った女には、炭酸水がグラスに注がれただけだ。女に促されて男は食事を始めた。お腹がすいているはずだったのに、どうにもすんなり喉を通って行かない様子だった。男は料理よりも、ひんぱんにワインを口に運んだ。
十分弱、男に食事する時間を与えてから、女は語り始めた。「さっきは見事だったわ。瞬時に相手を制圧する動きというのは、そう身に付く事じゃない」
男は「ただのケンカだ」と静かに答えた。
「そうね、でも咄嗟にケンカをする覚悟を決められる事、覚悟を決めたらすぐに身体を機能させる事ができるというのは、才能のひとつよ。格闘技を身につけていても、試合開始の合図がなければ能力をふるえない、そういう人は多くいるのよ」
「だろうな、ケンカにはリングもなければ、レフェリーもいないからな」笑みを浮かべてそう答えた男の思考回路は、すでにまともではない。美女に褒め称えられて完全に浮かれていたのだ。
しばらく、女は男の武勇伝、つまりくだらない元ヤンキーの〝昔悪かった話〟の聞き手に徹した。男は嬉しそうに饒舌に話していた。リアリティに欠けた、疑わしい話も随分あったわ。
男は上機嫌だったが、やはり緊張している様子だった。初対面の美女が自分の素性を知っている事に対しての懸念は常に抱いていたようだった。そこまで馬鹿じゃないようね。
男がある程度食事を済ませていた事を確認して、女は話し始めた。
「経済の中心っていうのは様々な才能を持った人々で構成されているわね。勉強ができる人がものをつくる。また、法や制度をつくる。運動ができる人は娯楽と感動を生み出して尊敬される。知識や運動能力、技術力というはっきりした価値観を素直に認めたくない人々は、アートという評価基準があやふやな分野で慰め合う。あなたは学生時代、何か得意なものがあった?」
「何が言いたい」と言って男は眉間に皺を寄せて女を睨んだ。もうノリノリだ。男は異常な状況に酔いしれているかのようだった。
「勉強やスポーツはある程度は努力で成果が得られるものよね。芸術というカテゴリーに入っているようで、楽器が弾ける、歌が上手、絵が上手、といったものも考えてみればそれは技術的要素が多くあって、修練によってはっきりした成果が得られる。それは突出したものでなくても、ある程度の社会的価値は認められる、つまりお金を稼げるって事よ。
だからみんな勉強する、訓練する、でも学校でも労働でも、そう自由に修練を積むことができない能力ってあるわよね、特に日本みたいな国では」
男は、女が何の話をしているか解らない様子だった。
女は続けた。「それは警察や自衛隊でも、そうは得られない能力。それがあなたにはある」
「ケンカって事か?」と男は答えた。
バカね、と女は笑った。「ケンカの腕なんて何の役に立つっていうの、どこの誰が必要とするのよ。サラリーマン金太郎か、っての」この時は演技を忘れたわ。
「そんなもの、あなたより強い奴はその辺にいくらでもいるわ」
男は腹を立てた表情になった。ついさっきまでケンカの腕を褒められていたのに、急に貶されたのだから無理もないわね。でもこれは女の手だった。ケンカに勝って、美女と出会い酒を飲む、褒められる、バカにされる。男の感情はずっとトップギアに入ったまま。
「腕っ節の強さを誇りたいならばプロの格闘家になれば良いし、バイクや車の運転のテクニックを誇りたいならばレーサーを目指せば良い、競争社会に挑む根性がなかった元ヤンの世迷いごとはもう充分、そんなことも解っていない程度の男ならばとんだ見込み違いね、用はないわ」
「一体なんだってんだ」焦ったように男は言った。
「そんな中途半端なものじゃないわよ、解るでしょ? ケンカ、暴力の行き着くところよ」
何?と、男は声を潜めた。周りには誰もいないのに。
「俺に殺しを頼むとでも言うのか?」
「あら、そんな事言ってないわよ、ただ尋ねているの。あなたに人を殺す能力があるか」
おい、と男はさらに険しい表情を見せた。笑ってしまいそうだったわ。
「あんた美人だからってなあ、あんまりふざけた事を言ってからかってやがると、ぶち殺すぞ」と男は威嚇した。
「わたしの問いについて、肯定しているという意味かしら」
「つきあってられねえ」男はそう言ったけれど席を立たなかった。男はこんな状況をどこかで夢想していた事があったのかもしれない。
「わたしはヘッドハンターなの。 知識や技術、才能、将来性を持った人材を見つけて、よりその能力を有効に発揮できる場を紹介するお仕事。 この案件はむずかしいのよね、
人を殺す才能って言っても、狂った快楽殺人鬼なんてお門違い、いくら才能があってもマニアや変態ってクライアントは避けるわ、扱いようがないもの。社会性がきちんとあって、かつ確かな仕事ができる人。どんな能力でもそれが一番大切な部分なのよね」
男は黙って女を凝視した。
「あなたは、少し年を取りすぎているけれど、荒事に対して腹が据わっていて素養がある、もっとも今後徹底的に鍛える必要はあるけれどね。 また社会に順応し、地味な生活を送る事を許容している、ここはポイント高いのよ。そして最後に何より重要なこと、・・・経験がある、でしょう?」
男は「経験だって?」と、とぼけた。
「あなた、人を殺したでしょう」
男は無言だった。
「約十年前、山梨で二十歳の女性が殺された、物取りでも強姦目的でもなく、ただ殺した。これって、あなたじゃない? わたしはあなたの事をいろいろと調べた上で、今こうやってお話しているのよ」
さっき話した通り、本当は大して調べちゃいないけれどね。
男は少し間を空けて、それから笑い始めた。「あんた、もしかして警察か? それで俺を逮捕するって言うのか?」と下品な口調で、バカにするように笑い声を挟みながら言った。面白くて笑ったのではない、男は自分を演出していたわ。
わたしは、・・・いや女は座ったままワンピースドレスの裾をまくり、隠していた太腿のガンベルトから拳銃を抜いて発砲した。男の背後にあったテーブル上の花瓶が粉々に砕け散った。女はゆっくりと銃をしまって言った。「いいわ、じゃあ食事を済ませたら帰って、いつもの退屈な休日を過ごして頂戴」
もちろん発火式のモデルガンよ、花瓶には仕掛けがしてあっただけ。
男は笑うのをやめた。
女は炭酸水を一口飲んで続けた。「わたしの見立ては間違っているのかしら、直接あなたに確かめているのよ。勉強もできない、スポーツもできない、ろくに技術ももっていない、何も取柄がない、ケンカの腕なんてクソ同然、あなたはどこにでもいる普通の無能な男の一人なのか、それとも汚く濁ったぬるま湯のような日本の社会では、得がたい希少な才能を持っている男なのか」
男は唾をのみ込んでから、女に問うた。「さっき、鍛えるって言ったよな」
女は答えた。「ええ、言ったわ。あなたに対しての場合、ヘッドハントと言うよりもスカウトね。今はまだまだ使い物にならないわ、でも素質はある」
素質があるなんて、男にとっては生まれて初めて言われたに違いないわ。
「人を殺した経験がある、証拠を残していない、つまり逮捕歴はない、家族や友人との交流がない、それと変態じゃない、これらが重要なファクターよ」
男は額に汗をいっぱいにかき、「ああ、俺は条件に合致してるぜ」と言った。
「そう、どうする? このままこそこそ隠れて地味な生活を送り続けるか、同じく隠れながらも、金と色欲と熱気にまみれて命いっぱい駆け抜けるか。どっちを選択したって、どうせ地獄へまっしぐらの人生でしょう」
「・・・どうすればいい?」男の興奮は頂点付近まで来ている様子だった。
女は男を一旦落ち着かせるように美しい笑顔を見せて、穏やかな口調で言った。「連絡を待って、また会いましょう」女は席を立った。一度振り返って、「それから、今後は酔っぱらって人を殺したなんて、吹聴してまわるのはやめて頂戴ね。粗暴にふるまって目立つのもダメ。プロになってそんな事をすれば、すぐに消されるわよ。 今日の事を他人に話したりしてもね」
男は喉を詰まらせたようになって、ただ頷いた。
どう? と龍子は嬉しそうな表情を天童に向けた。話の中で、最後に男に向けた表情と同じものなのだろう。
「お解りでしょうけれど、話の中の女はわたし、男は言わずもがな、わたしの隣に座っているこのイケメンは、レストランの厨房に引っ込んでいた店員役よ」と喬史を指差した。
(え、そっち?)天童は男と駐車場でケンカした若者役だと思っていた。(その役必要か?)
「レストランでの男との会話はすべて録音してあるのよ。自白しているわよね、有罪確定って事で、三百万円は頂けるかしら?」
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