第6話 CHAPTER 2: Looking down from the bottom PART 2

 高速を出て、低い建物が並ぶ街並をしばらく走ると、目的地を記した標識が見えて来た。

 駐車場で車を降りると、龍子は村井に感謝の言葉と、帰りはタクシーと電車で帰る旨を伝えた。しかし村井は用事が終わったら連絡するよう、その後は一緒に食事をして、話を聞かせて欲しい、と答えた。龍子は皮肉を交えた言葉で了承した。皮肉の内容は、村井が時間にもお金にも余裕を持った恵まれた境遇である事、そしてそれらは彼自身が独力で築き上げた物でない事を指したものだ。村井にとってはこの手の皮肉には慣れていて、とうに開き直っている。龍子だけでなく、多くの自分を取り囲む人間に言われ続けているからだ。ふん、と鼻を鳴らして、余裕の笑みすら浮かべた。

 龍子は、彼に対してはこれまで色々と助けてもらっていて、深い感謝の気持ちを抱いているのだが、やはり生まれもっての経済力の格差と言うものには、養護施設出身者としては不公平を感じないわけにはいかない。あまりに卑屈な事はみっともないと思うが、どうにか洒落た、かつ小憎たらしい言葉を探して言ってやりたくなるのだ。村井の開き直った態度を見ると、余計にその感情が湧き立つ。次はそんな笑顔ができないような皮肉を考えておこう、そう思った。

 留置所の玄関口に来ると、ライトグレーのスーツ姿の男が龍子に近づいてきた。

氷川ひかわ龍子さんですか?」との男の問いに「はい」と答えると、男は手にしていた名刺入れから一枚抜き出した。「弁護士の徳山とくやまです」そういって名刺を差し出すと、龍子を改めて見て、「お美しい方だと聞いておりましたが、いや、ホントに」と笑顔で言った。

 龍子はヒールをはいているため、少し自分より背が低く、五十は越えているように見える白髪頭で、肥えた男に微笑んだ。「まあ、うれしい」ずいぶんと愛想の良いおっちゃんだ、と龍子は好感を覚えた。

「こんな美人になら、少しは彼も心を開いてくれるかもしれませんな」

「それでは、先日お電話で伺って以降も?」

「ええ、依然黙秘を続けております」

「詳しい事を直接相談させて頂いた上で、と思っておりましたが、予定の時間がもうすぐですので、まず会って頂けますか?」

「わたしがお役に立てるのかどうか」

「お電話でも申し上げましたが、浅田あさださんのお話をしてくださると、なんらかの反応を示すかもしれません。彼が唯一心を開いていた方だと聞きました」

 はあ、と答えて、徳山に促されて後をついて歩き始めた。

 龍子が十八歳まで過ごした児童擁護施設の元施設長である浅田渉香しょうかの葬儀の後、斎場で杉原すぎはら英梨佳えりかに頼まれた内容がこの事だ。浅田が生前懇意にしていた同業の、つまり養護施設の出身者である一人の少年が、ある傷害事件を起こしてしまい、警察に出頭したのだが、取り調べに対して一切の黙秘を続けている。少年はつい二ヶ月前に施設を出たばかりで、施設にいた頃には色々と問題があったのだが、ここ一年は大人しく真面目に過ごし、職にも就いていた。その職先の経営者が浅田の古くからの友人であり、少年の後見人にもなっていたため弁護人を雇ってくれたのだが、彼は自分がやったという事以外、動機も何も話さない。そこで少年の面倒を良く見ていた浅田を頼ろうとしていたのだが、彼女は急逝してしまった。今は留置所に勾留されているという状況だった。浅田の代わりを務められるとすれば、本来は杉原が適当だろうが、彼女は施設の引き継ぎや業務に加えて、浅田の遺族との遺産配分の相談で、とても時間が取れそうにない。そこで杉原が言うには、浅田の本当の娘のような存在だった、という龍子に代役がまわって来たのだった。

 本当の娘・・・自分としては嬉しく思う光栄な事だけれど、果たしてそう思ってくれていただろうか。おかあさんは児童だけでなく、職員にも施設長や園長等と呼ばれることはなく、おかあさんと呼ばれて応えていた。しかしそういった温かい家庭的雰囲気を施設内で作り上げていたわけではなく、皆を、幼児に対しても〝さん〟付けで呼称し、ほとんどの場合、口調を丁寧語で揃えていた。時にはその接し方に余所余所しさを感じる事もあった。しかし自分にはそれが心地よかった。おかあさんは常に自分が本当の母親ではない事を児童たちに意識させていたのだ。いずれ施設を出た後には、ほとんどの者がバックアップを得られない、厳しく、孤独な自活を強いられる事になるのだ。それに向けての耐性をゆっくり付けていかなければならない。また、複数の年代、血のつながらない未熟な男女の共生とは、テレビが描くような〝六男四女ワケあり、それでも仲良し大家族生活゛のようなものではない。ワケありのレベルが違うのだ。傷害事件を起こした男の子、程度は違えども、そんな奴は何人もいた。

 面会の手続きをするために、龍子は自分の名前と住所を申請書に書いて、身分証明として免許証を出した。免許証に記載されている住所からはとうの昔に引っ越している。有効期限は今年いっぱい、ICカードをチェックされても問題はないだろうが、出来ればやってほしくない。係員は免許証に目を通し、申請書に書かれた名前と住所に間違いがないか確認し、免許証番号を記録しただけで、龍子に押印を求めた。龍子は三文判を取り出した。

 面会室は向かい合わせにパイプ椅子が置かれた、真ん中をアクリル板で仕切られた机が部屋を二分した、四畳半くらいの一室だった。真っ白い壁に囲まれていて照明は明るく、窮屈な感じはしない。龍子は昔見た面会室はもっと狭かったな、とだけ思った。

 一緒に入ってきた男性の警察官が、入口側の隅に置かれたパイプ椅子に黙ったまま座った。龍子も徳山に促されて座る。配置されていた二脚の位置が近すぎて、龍子と徳山の膝が少し触れ合った。徳山は焦った様子で「失礼」と小さく言って腰をおろしたまま、椅子の位置を少しずらした。

 やがて部屋の反対側の扉が開いて、少年が留置担当官に連れられて入ってきた。身長は百七十五センチくらいか、やや痩せ型で、髪は黒く、長めのスポーツ刈り、薄いブルーのTシャツに深緑色のワークパンツという地味な格好のせいか、十八歳にしては落ち着いた印象だ。龍子の姿を見るやいなや、口を噤んだ。くっきりとした二重瞼、顎が四角く唇が厚くて男っぽい顔、男前と言えない事はないな。龍子はそう思った。過去に色々と問題行動があったと聞いているが、そう性根が悪そうには見えない。少年は無言のまま軽く会釈して、向かいに座った。こちら側と同様に、担当官が隅にあるパイプ椅子に座った。


 徳山が、軽く咳払いをしてから話し始めた。

高藤たかとう有紀哉ゆきや君」徳山は龍子に紹介する意味をこめて、フルネームで呼びかけた。「どうだい? 体調を崩したりしていないかい?」

 少年は返事せず、ただ俯いた。

 徳山はまた彼が、自分は何も語らない、という意を示したと感じた。少年との面会はもう四度目だ。事件と関係ない事、例えば今年の夏は暑くなりそうだよ、という言葉にすら相槌ひとつ打たない。かといって横柄な態度で、あからさまな悪意を示すわけでもなく、ただうなだれたている少年に対して、匙を投げる事もできないでいる。

「ほら、先日伝えた通り、今日はお客さんをお連れしたんだ。氷川龍子さん、君がずっとお世話になっていた浅田さんと親しくしていた人だ」

「よろしく」と龍子は笑顔で言った。有紀哉は少し龍子を見たが、すぐにまた俯いた。

「氷川さんもまた、養護施設を出ておられる。浅田さんの施設にいらっしゃったんだ。今は接客業をされていらっしゃるとか」徳山はそれ以上の事は知らない。

「ええ、三年ばかりですけれど」

「いやあ、高藤君、きれいな方だよね」

「もう、嫌ですわ」と、龍子は照れたふりをした。

「失礼ですが、ご結婚はされていらっしゃる?」

「いえ、まだご縁がなくて」

「本当ですか? こんな美人を放っておくだなんて、そりゃ少子化も進むはずですな! でも、やはり氷川さんみたいな方なら、余程でないとお眼鏡に適わないのでしょうな」

「いえそんな、性格さえ合えば」

「ちなみに、どんな方がお好みなんですか?」

「そうですね、なんでも正直に話してくれる人、ですかね!」

 ・・・言ってしまった。別に徳山と打ち合わせしていた訳ではない。何故か初対面のおっさんと見事な呼吸で言葉を交わし、導かれたように答えてしまった。直前に言ってはいけない、という自制も確かにあったというのに。有紀哉は押し黙ったままだが、若干戸惑っている様子も伺えた。寒そうに腕をさすっている。徳山は小さな声で笑った後、会話をやめてしまった。この後は龍子に任せるとばかりに手を龍子の前に差出し、それから促すように手先を有紀哉に向けている。このおっさん、なんと無責任な。好感は殺意へと変わった。

 龍子は少し冷ややかな表情で徳山に一瞥してから、落ち着いた口調で話し始めた。

「ごめんなさい、変な事言って。それで・・・浅田さんですけれど、彼女は生前、あなたが犯したと言う事件について、違和感を持っていらしたと聞いています」

 有紀哉は少し反応したように顔を上げた。しかし目線は逸らしている。

「あなたと被害者の方とは過去に一切面識がなく、動機はあなたが最初の取り調べで話した、むしゃくしゃしていた、誰でも良かったという理由、この事が信じられないとおっしゃっていました」(と、杉原から聞いたのだが、まあいい、より親しかったという印象を加えるため、わたしが直接聞いたと思わせておこう)

「中高生時代にいろいろとやんちゃをしていたようだけれど、相手はいつも、所謂不良だったようで、相手かまわず暴力をふるっていた訳じゃない。施設内で暴力をふるったのは、指導員に対して一度のみ、それは指導員にも問題があったと聞いているわ。これだけ聞くと、一本筋が通った人間じゃないかという印象ね。それと、嘘やごまかしが嫌いな子だった、って話していたわ」

「君の職場の柴田しばた社長も、君の事について、同じような事を話していたよ」と徳山が口を挟んだ。「まだ三カ月足らずしか経っていないが、真面目で仕事熱心だって、だから、何か特別な事情があったんじゃないかって」

 三十秒ほど沈黙を経て、龍子が言った。「言いにくい事なのかもしれないけれど、その社長さんや、浅田さんに対して説明する責任はあると思わない? そりゃもう浅田さんは亡くなってしまったのだけれども、せめて墓前で説明してあげたいと思っているの。あなた、随分とお世話になったんでしょう?」

 それから、また沈黙が続いた。龍子は言うべきことはもう言ってしまった。

 何の事はない、求められていた事はたったこれだけだ。浅田渉香の代人とは言っても、傷害事件を起こした理由をどのように聞き出そうか、どう話せば少年の心を解きほぐし、口を開かせる事ができるのか、そんなところまで考えを巡らすのは無理な話だ。おそらく今話した内容は、とうに何度も徳山が少年に訴えたことだろう。だがそれは本人、浅田渉香自身が語らなければ説得力はない。徳山は龍子と有紀哉の関係は、ともすれば義姉弟みたいなものになりえないだろうか、と思っていたのかもしれないが、それは不合理なものだろう。こんな面倒事を引き受けてしまったのは、もちろんおかあさんの遺志をついであげよう、そして杉原さんの負担を少しでも減らしてあげよう、と思ったのが原因だけれど、予想通り何の役にも立たず終わってしまうのだろう。ただ約束事を守ったという弁解を得るだけだ。

 そう思うと、龍子はなんだか苛立ちを感じ始めた。前を見ると変わらず口を噤んだままの高藤有紀哉が無表情でいる。完全にコミュニケーションを拒絶している。横を向くと落胆した表情で何度も、聞こえる程度の小さな溜息をつく徳山がいる。

 なんと失礼な男達だ。色々と忙しい最中、なんとか時間をつくってわざわざ訪れたこの美女に対して、無視と落胆だと? おまけにさっきはわたしがすべった感じにしやがって、この外道共め。

 わたしは他に考えなくちゃならない事が山ほどあるのよ、まさかの偶然で自分の存在をばらしてしまった。しかも警察署なんかで。もうすでに、再び捜索が行われているかも知れない。こんな事をやっている場合じゃない。どうにも思っていたように計画が進まない。喬史たかふみ君が言うように、わたしは考えが足らないのかしら、馬鹿なのかしら。こうして留置所なんかに来ているのも、良く考えなくても危険だし。

 龍子は改めて、俯いたままの有紀哉を見つめた。さらに憤懣が増した。

 自分が世界で一番不幸を背負っているのだ、とでも思っているかのようね。俯いていても目に力が入っている様子が、眉間に寄った皺から見てとれる。どうせアクリル板の向こうにいる二人とは世界が違う、話したって解ってもらえる訳がないと。自分が底辺にいると思いこみながら、上を睨みつけ、実のところ見下して生きているのだ。施設出身者にありがちな事だ。わたし自身、そういう気持ちを常に抱いている。だから、不幸自慢なんてみっともないと思ってはいるけれど、同じく施設出身者に同情ならばまだしも、なめられるのは我慢ならないわ。

 そんな風に龍子が考えている間も、ずっと沈黙が続いていた。徳山がこれまた聞こえる程度の小さな声で、「駄目か」と呟いただけだ。

「こうしているのは時間の無駄ね」と龍子が言った。徳山がこれまでか、と諦めの表情を表したのを無視して龍子は続けた。「でも面会時間はあと十五分程残っているわね。せっかくだから何かわたしがお話しようかしら、別に事件に関係ない話をしても良いんでしょ?」

「ええ、まあ」と徳山が答えた。後ろにいる警察官は無言のまま。

「ある児童養護施設出身者のお話よ。つまりは高藤君の先輩みたいなものね。 その人がどういう人生を歩んでいるか、一部を手短に纏めてお話しましょう」

 有紀哉が顔を上げた。徳山が言ったように美人、としか表現できない女が、まっすぐ自分に顔を向けている。なぜか自信に満ち溢れているような笑みを浮かべている。有紀哉は苦手意識を自覚した。

「その人・・・女性よ。いいえ、勿体ぶった言い方は鬱陶しいわよね、わたしの事よ。わたしは、物心ついた時から施設にいたの。生後半年から八か月くらいで神社の前に捨てられていたらしいわ。その後一度も里子に出されるような事はなく、十八まで施設暮らしを送ったわ。高藤君だって思い当たる事でしょうけれど、やっぱり辛い事のほうがはるかに多い生活だったわね。まず逃れられない前提として貧困があるから、それによって差別があるわよね。小中学校では、まだ周りも成長していないから、よく苛められた、死にたくなるほどの思いもしたわ。学校だけじゃなく、施設だってみんな仲良く暮らしている訳じゃない。揉め事はしょっちゅうで、気の休まる時はほとんどなかった。指導員だって良い人ばかりじゃないからね、暴力を振るわれたことだってあったわ。(まあそいつは後で破滅させてやったけれども) でもね、おかあさん・・・私は浅田さんの事をおかあさんと呼んでいたの、彼女はとても優しくて、それでいて決して甘くない、しっかり怒ってくれる人だったのよね。その言動に矛盾の少ない人だったから、子供たちも大人たちも、彼女の下で、なんとかまとまっていたのよね」

 有紀哉が面を上げたままでいる。目線は龍子からそらし、下に向けているが。耳を塞いではいない様子だ。

 徳山は、浅田の話が出てきた事だし、もしかしたら龍子が準備してくれていたものなのかも、と少し期待した。ここまでは・・・。

「中学生の終わりくらいからかしらね、いけしゃあしゃあと申し上げますが、わたし、すっごく美人になっていったのよね。というか周りがその事実を認め始めたのよね。それまでだって十分かわいかったはずなのにね。高校生になってからは、お金がないなりに、うまく身だしなみを整えていたの。顔はほとんど化粧要らずだったから、髪のケアだけは気を付けていたわ。洗面所を占領するから、よくおかあさんに怒られたわね。友達とはほとんど学校で会うだけだったから、制服だけは汚れないように気を付けて着ていたわ。あとはある程度マシな成績をとっていたら、男の子も女の子も群がるように寄って来たの。親がいない、施設暮らしと言うのは却ってプラスに働いたわ。背景に悲劇性を感じられるじゃない? あの世代の子達、男女ともに、基本的にカッコつけだから、守ってあげる、なんて言って口説いてくるのよね。ただの高校生のくせに何からどう守るって言うのよ、お小遣い全部くれるのかよ、なんて内心思っていたわ」龍子は照れ笑いを浮かべた。

 徳山もなぜか照れた笑みを浮かべた。まるで彼自身の学生時代、カッコつけ時代に思い当たる節があるようだ。

「私が施設を出た時の話をしましょうか、丁度あなたと同じ年頃の話よ。高校卒業後、わたしは警察官になったの」

 有紀哉と徳山、それからそれぞれ後ろに控えている2人の警察官も、龍子に注視した。

「さっき接客業をしていると紹介して頂いたわね、そうよ、今は飲食店で働いているわ。警察は五年前に退職しました」

 徳山が何か言いたげな表情をした。構わず龍子は続けた。

「警察学校でも、配属された警察署でもわたしは目立って、しょっちゅう口説かれたわ。あの時の自分が、今まで生きてきた中で一番バカだったわね、いい気になって、次から次へと付き合う男を変えていた。二股、三股していた時もあったわね」

 龍子は椅子に浅く座って背にもたれ、両足を揃えて前に投げ出す姿勢を取った。両手は重ねてしっかり閉じた太腿の上に置いたままで、足首だけを組んだ。

 有紀哉の顔と龍子の顔との間が少し離れた。有紀哉はまるで値踏みされているかのような気持ちになって、さらに居心地の悪さを感じた。

 龍子はもう有紀哉と徳山に対して、繕うような真似をする気は失せていた。親しくなったつもりではなく、ただ遠慮した態度で接していては、事態が少しも進まないであろう事を予測して・・・いや、単に面倒くさくなったのだ。やや人を見下したような、性的な意味で挑発的な表情になっていった。声も幾分か高く、そして甘い。

「自分に自信があって、上昇志向も強かった時期だったわね。でも所詮ただの地方公務員、ノンキャリってやつだし、警察社会って典型的な男社会だから、仕事をがんばったって昇進はたかが知れているのよね。だから男を利用する事に決めていたの。キャリア組で警視、父親は政治家って奴がいたのよね。その男はもうわたしにぞっこんだった。ぞっこんって底に根っこ、って書くのよ。だから〝そっこん〟とも言うらしいの、聞いたことないけれど。でも、そっこんの方がなんかいいと思わないかしら」

 ・・・・・・・・・・・・・・・

「そっこんの方がいいと思わないかしら」龍子はもう一度言った。

 徳山は龍子の方を向いて、気づいたように「ええ、いいですね。そっこん・・・」

「わたしはその男に狙いを定めて、身辺の整理をしたの。結婚して、お金もステイタスも手に入れよう、美貌以外何も持っていなかった自分が、全てを手に入れてやるわ、って思っていたの。ところが・・・」

 穏やかで、起伏の少ない調子で龍子は話し続けた。笑みを浮かべながら。

「物言いがついたのよ。その政治家の親からね。家柄の悪い、高卒の女と結婚などとんでもない、ってね。悪いも何も家柄そのものがないのだけれど。実際そこまでその親が言ったのかどうかは解らない。私とは会う事すら拒否されたの。そんな下手べたな、安っぽいドラマのような展開になるとは思っていなかったのよ。政治家っていうのなら、天涯孤独のかわいそうな美女が嫁に来る、って言う事は美談になるって、むしろ歓迎されるんじゃないかって思っていたのよね。でも男から聞いたところによると、親はすでに息子の相手を選んでいたの。家柄の良い、それに付随する資産も立派な相手をね。それを聞いているうちに、段々と腹立ちを通り越して、バカバカしくなってきたのよね。だって今言った理由をいちいち丁寧に私に説明するのよ、その男。お前自身がどうしたいのかって問題じゃない? 別れたいなら別れてあげるわよ、って気持ちになっちゃうわよ」

〝わよ〟の声が跳ね上がったようにさらに高く、甘く発音された。

「だから最後に他の人を探すわ、お幸せに、バイバイ、って言ってあげたのよ。男のマンションでね、もちろんさせてあげなかった。それにちょっと、いやちょっとじゃなかったわね、男を揶揄する発言を色々としてしまったの。そしたらすごく怒って、それでわたし、その男に刺されちゃったの」

 徳山がええっ、と擦れた声を出した。内緒話をしているかのような声だ。今更そんな声を出しても、龍子の話声は、後ろにいる担当官にしっかり届いている。

「お腹を刺されたの、火が付いたように熱くなって、それから表現できない程の痛みに襲われて、やがて気を失ったわ。気が付いた時には病院のベッドの上で、救命器具に繋がれていた。それから何日も動けず、お腹の痛みはもちろんの他、意識が朦朧としていて、ずっと悪夢の中にいるようだった。吐き気が常にあって、お腹だけじゃなく頭から足先まで、全身が苦痛で満たされていた。いっそ死にたいと思う程だったわ。幸い内臓に損傷はほとんどなかったらしいの。果物ナイフが深く刺さったのだけれど、抜かずに運ばれたことも幸いしたらしいわ」

 ええ~! と今度はしっかり声に出して、それから「はて、そんな事件がありましたかな」と徳山が言った。

「警察の上級幹部で政治家の息子よ、想像できるでしょう?」

「そんな・・・」

「信じてもらえなくてもいいですわ」

 有紀哉の視界にわずかに入っていただけの女の顔が、今は中心に据えられていた。明るめの茶髪が後ろで束ねられていて、顔がとても小さく見える、実際小さいのだろう。目鼻立ちが整った、とても綺麗な女だ。芸能人やモデルの様に見える。しかし、まさか実際の留置所内で、素人ドッキリのテレビ番組の撮影なんかを行うとは思えない。現実感がなく、さっきの話も信じられない。ただ有得ない、と思う事しかできなかった。

「ただもう痛くて辛い入院生活を過ごして、その後は警察を辞める事になった。それまで男を食い物にしてきた罰だなんて思うかしら? わたし自身はとてもそういう風に思えないわ。女にふられた程度の精神的被害と、お腹を刺された肉体的被害、それに失職が釣り合うなんて到底思えない。わたしはベッドの上で動けずに、苦痛と汚物にまみれていたあの頃を思い返すと、今でも寒気がするの。泣き出してしまう事だってある。 身体だけでなく、心にもその傷跡は残っているの。おそらく一生消える事はないでしょう」

 龍子は上体を曲げて、アクリル板に顔を近づけた。

 通声穴から龍子の髪、シャンプーの匂いが有紀哉に届く。ライチの香りと、少し時間をおいてバラと他の花の香りがした。有紀哉は思わず顔を近づけてしまった。

「被害者の女の子、肋骨を二本、歯を四本も折って今も入院しているって、メンタル面でも障害を発症しているらしいわよ。後ろから髪を掴まれて何度も殴られて蹴られたってね。どんな理由があるにしろ、ひどい話だと思うわ。とても本人は納得できないでしょう。殴られたその時だけ痛いわけじゃないのよ。治療が終わった後何日も、場合によっては何ヵ月も、何年も、もしかしたら一生被害者は苦しむの。女の子は突然の事で、あまりの恐怖で相手の顔を見ていないって言っているらしいけれど、本当にあなたがやったというのなら、女の子にその被害に見合う責任があったと説明できる理由を考えなさい。ただ苛ついていた、誰でも良かったですって? 大抵女子供とか、年寄りとかしか狙わなかった奴が、お決まりのようにそれを言うのよね、ごまかしているだけ、カッコつけているだけよ、本当はもっとみっともない理由があるくせに。あなたも、そんなしようもない男なのかしら?」

 そこまで言って、龍子は立ち上がった。「次に会うまでに、何かもっとマシな動機を考えておいて頂戴ね、嘘でもいいから」

 徳山も慌てて立ち上がった。丁度面会時間が終わるところだった。

「じゃあ高藤君、また連絡するよ」

「俺が」と有紀哉が発した。絞り出したような声。「俺がやったんです、すみません」

 後方のドアに向かっていた龍子は振り向いた。有紀哉はまた俯いていた。すぐに向き直すと、立ち上がった警察官がドアを開いてくれた。龍子は彼に笑顔を向けて、「またね」と、有紀哉に聞こえるように言った。

 龍子と、後を追うように徳山が面会室を出て行った。

 〝次っていつですか?〟 と思わず問いかけそうになったが、警察官は踏みとどまった。

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