第29話 CHAPTER 9「Out of sight PART 1」

 午前中でも店内は薄暗いままで、一見したところでは営業しているのかどうか解らない。たとえ入店したとしても、客はいないし、「いらっしゃいませ」の一言もないため、果たして喫茶店なのかどうか解らないだろう。

 真っ黒なホットコーヒーの味は、百円程度のコンビニやファストフード店のものと比べても味が落ちるが、天童てんどうにとってはそう不満を抱くものではない。自分の馴染みの店の方がまだマシかな、と少し思う程度だ。カウンターからじっとこちらを見つめている老女に少し愛想笑いしたが、反応はなかった。

 村井むらいは瓶ビールを注文していた。大衆中華の店に置いてあるような、ビールの銘柄がプリントされただけのガラスコップに注いで、半分ほど飲んだ。

 二人は十分に注意をはらい、別々に店に入った。尾行は再開されている可能性がある。特に村井は、神経質なまでに頻繁に着衣や移動手段、移動ルートを変えて生活していた。

 お互い龍子りゅうこの現状について確かめ合った後、天童は本庁の刑事と、村井は掛井かけい武人たけひととそれぞれコンタクトがあった事を説明した。

「俺のせいかも知れん」と村井は言った。

「掛井に怪しまれたのかも知れない。それで、俺がつけられた。レーネには何度も行っていたから。くそっ、なんて間抜けなんだ」

 落ち着いた口調だが、普段のひねた、上から目線の態度に比べると、随分素直に落ち込んでいる様子が良く解った。

「まあ、無事だったからいい。それは別にして、そろそろ詳しく話してほしい、龍子ちゃんに何があったのか。 本人に聞け、なんて言わんでくれ。龍子ちゃんは多分、自分で言いたくないんだ」

「俺から話すなんて、あいつはもっと嫌がる」

「そうかも知れん。なら、俺が話す事について、肯定か否定かだけしてくれないか?」

 村井は無言のまま了承した。

 天童は過去にあった龍子と掛井あきらの関係から始めて、五年前に二人の間の痴情のもつれから、龍子が自殺未遂事件を起こした事。その理由は事件の半年後に、掛井暁が別の女性と結婚した事から推察されるものである事。そして事件に掛井武人と本庁の刑事が係わって、マスコミに漏れないよう隠蔽した事を整然と話した。

 それから天童は、その自殺未遂が虚偽である事を断言した。天童と村井の間で、わざわざ理由を説明するまでもない。龍子が自殺などするはずがないのだ。

 龍子が病院に搬送された事、緊急手術を受けた事、そして龍子の自殺未遂事件はそれぞれ記録されている。ならば龍子が負傷した本当の理由は、隠さなければならなかった理由とは・・・掛井暁以外にない。奴が龍子を傷つけたのだ、殺しかけたのだ。

 退院後、掛井暁に裏切られた事と、事件が自身の自殺未遂とされた事に強いショックを受けた龍子は、警察官を辞職して、姿を消していた。しかし掛井武人が汚職の疑いで糾弾されつつあり、また暁が国政進出を謀っている今、彼女は復讐を決意したのではないか。

 少し事実と違うが、それを説明すると随分ややこしくなるし、第一自分も良く知らない。村井は目を瞑って、眉間に皺をよせた。

「村井さん、どうだい」

「ほぼ肯定だ」

「ほぼ?」

「俺が知らない部分もある。連絡は取り合っていたが、俺は龍子が関東にいない間、何をやっていたかはほとんど知らない。 聞いても教えてくれない」

「岡山のキャバクラで働いていたんじゃないのか?」

「そういう時もあったが、ずっと岡山にいた訳じゃない。これだけは説明しておこう。龍子は現在、行方不明者として扱われている。五年前、入院中に身の危険を感じていたあいつは、病院から逃げ出したんだ」

「逃げた? どういう意味だ」

「言葉通りだ。入院中に病室から、勝手に抜け出したんだ」

「そんな馬鹿な、一体どこへ逃げたって言うんだ」

「教えてくんねえんだよ。俺が事件を知ったのだって、あいつの口からだ。当然だろ、事件は外部に漏れないよう徹底されていたんだ。入院していたなんて当然知る由もない。腹の傷跡を見せられるまで、到底信じられなかった」

「いつ知ったんだ?」

「病院を抜け出してから五日経ったと言っていた。場所は言えんが、片田舎の古い病院に呼び出されて会いに行った。あいつはまだ満足に歩ける状態じゃなく、車椅子に座っていた。その時からだ、喬史たかふみがいたのは」

「それで村井さん、それ以降、あんたは龍子ちゃんの復讐に協力しているって事か?」

 村井は答えなかった。

「マスコミのあんたなら、他に手があるんじゃないのか? それこそ事件を調べ上げて、掛井の犯行を明るみにする方法を考えるべきだ」

「国会議員と警察、もしかしたら検察も、それらを相手に正面切って挑めと言うのか? 警官のあんたがそれを言うか?」

「俺に相談してくれてたら、力になった」

「俺とあんたはそう仲が良かったわけじゃない。今もそうだろ?」

「龍子のためなら…」

「本当にそうか? 転勤が理由だとあんたは言うだろうが、あんたは龍子の傍にいなかった。親しい付き合いは無くなっていたろう? あんたはもう龍子の事を諦めていたはずだ。もしかしたら、自分から願って遠くに離れたんじゃないのか? キャリアが署長か何かになるわけでもなく、他県警に転勤なんてするのか? それを龍子は気にしていて、あんたを引き込むことを躊躇ためらっていたんじゃないのか?」

 今度は天童が返答せず、ただ表情を曇らせた。

「それにな、仮に疑惑を明るみにしたとしても勝てる保証があるか? 仮に立件できたとして、長い裁判の間に何を失う? 警察官を続けられたと思うか? 職だけじゃない、金や時間、まともな生活だって奪われていたさ、どうせ同じ事ってわけだ。後ろ指差されないだけマシってもんだよ。天童さん、あんた普段は飄々というか、どうにもすかしていやがるが、根っこのところが良く言えば実直、悪く言えば頑固だ。あんたの言うような杓子定規な手段で、本気であいつを助けられると思っているのか」

 村井は天童が普段と違う、悲しそうな表情をしている事に気づいて、口調を弱めた。

「…俺は、龍子との付き合いはあんたより少し長いが、実際関係があったのはほんの一時、いや、一夜だけの事だ。お互い遊びのつもりだったんだが、俺の方が本気でまいっちまった。あんたと龍子が付き合ってた時も、掛井暁の時も、嫉妬でおかしくなりそうだった。表面上は平静を保っていたつもりだったがな、まったくみっともねえ。そりゃ俺だって他に女は何人も作ったさ。でもダメだ、どうしてもダメだ。俺はただ諦め切れねえから、ずっとあいつに付き纏っているだけだ。なんの助けにもなっていない。だから・・・さっき言った事はただの俺のやっかみだ。気にするな」

「いや、すまん。俺の方こそ、ただの嫉妬だ」

 二人はお互い落ち着きを取り戻すために、それぞれコーヒーを、ビールを一口飲んだ。共にひどく苦みを感じた。

「それに第一、龍子はそんなタマじゃないぞ」

「おい、女性だぞ」

「警察や裁判所なんかに任せていられるものか。必ず自分で落とし前をつける奴だ。お前さんだって知っているだろう。そこがあいつの一番いい所だ」

「確かにそうだが、あんたと俺とでは、ちょっと捉え方が違うんだろうな。俺にとっては可憐で、かよわい存在だ」

「可憐? かよわいだって? よく言うぜ」

「何も解っていないな」

「なんだと?」

 ベン! と、弦をはじく音がひとつ鳴った。

 二人共に鳴った方向に顔を向けると、カウンターの老女がいつのまにか三味線を持っていた。親指の腹を三本の弦に這わせ、音を奏でた。左手は三本の糸巻きを鮮やかに扱い、巧みに形を変えて弦を押さえた。右手はバチをもたずに、指でひとつひとつ弦を弾いて、単音だけを数回鳴らせた。それだけでも、彼女が巧者だと思わせるものだった。

「まったく、大の男二人が女の事でぎゃあぎゃあ鬱陶しい、聞いちゃいられないね」

 柔和そうな丸顔に似つかわしくない濁声と、乱暴な口調。

「あの子は魔性の女って奴さ、生粋のね。悪い事は言わないよ、今すぐ手を切るんだね」

「それができねえから揉めてんだよ」と、村井が親しげな口調で言った。

「もう取り憑かれちまってんだろうよ。だったらこんな所でぐだってねえで、破滅するまであの子に付き合ってやったらいいだろう。いい歳いて、覚悟が足りねえんだよ」

「龍子ちゃんの事、ご存知なんですか?」と丁寧な口調で天童が問うた。

「知ってるも何も、あの子にはひどい目に合わされてばかりだよ。あたしはもう面倒見きれないよ、早く行って、どうにかしてやってくれ」

「彼女の居場所を?」まっすぐに老女の顔を見つめて、天童がたずねた。

 老女は音を鳴らして肯定を示した。

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