第29話 CHAPTER 9「Out of sight PART 1」
午前中でも店内は薄暗いままで、一見したところでは営業しているのかどうか解らない。たとえ入店したとしても、客はいないし、「いらっしゃいませ」の一言もないため、果たして喫茶店なのかどうか解らないだろう。
真っ黒なホットコーヒーの味は、百円程度のコンビニやファストフード店のものと比べても味が落ちるが、
二人は十分に注意をはらい、別々に店に入った。尾行は再開されている可能性がある。特に村井は、神経質なまでに頻繁に着衣や移動手段、移動ルートを変えて生活していた。
お互い
「俺のせいかも知れん」と村井は言った。
「掛井に怪しまれたのかも知れない。それで、俺がつけられた。レーネには何度も行っていたから。くそっ、なんて間抜けなんだ」
落ち着いた口調だが、普段のひねた、上から目線の態度に比べると、随分素直に落ち込んでいる様子が良く解った。
「まあ、無事だったからいい。それは別にして、そろそろ詳しく話してほしい、龍子ちゃんに何があったのか。 本人に聞け、なんて言わんでくれ。龍子ちゃんは多分、自分で言いたくないんだ」
「俺から話すなんて、あいつはもっと嫌がる」
「そうかも知れん。なら、俺が話す事について、肯定か否定かだけしてくれないか?」
村井は無言のまま了承した。
天童は過去にあった龍子と掛井
それから天童は、その自殺未遂が虚偽である事を断言した。天童と村井の間で、わざわざ理由を説明するまでもない。龍子が自殺などするはずがないのだ。
龍子が病院に搬送された事、緊急手術を受けた事、そして龍子の自殺未遂事件はそれぞれ記録されている。ならば龍子が負傷した本当の理由は、隠さなければならなかった理由とは・・・掛井暁以外にない。奴が龍子を傷つけたのだ、殺しかけたのだ。
退院後、掛井暁に裏切られた事と、事件が自身の自殺未遂とされた事に強いショックを受けた龍子は、警察官を辞職して、姿を消していた。しかし掛井武人が汚職の疑いで糾弾されつつあり、また暁が国政進出を謀っている今、彼女は復讐を決意したのではないか。
少し事実と違うが、それを説明すると随分ややこしくなるし、第一自分も良く知らない。村井は目を瞑って、眉間に皺をよせた。
「村井さん、どうだい」
「ほぼ肯定だ」
「ほぼ?」
「俺が知らない部分もある。連絡は取り合っていたが、俺は龍子が関東にいない間、何をやっていたかはほとんど知らない。 聞いても教えてくれない」
「岡山のキャバクラで働いていたんじゃないのか?」
「そういう時もあったが、ずっと岡山にいた訳じゃない。これだけは説明しておこう。龍子は現在、行方不明者として扱われている。五年前、入院中に身の危険を感じていたあいつは、病院から逃げ出したんだ」
「逃げた? どういう意味だ」
「言葉通りだ。入院中に病室から、勝手に抜け出したんだ」
「そんな馬鹿な、一体どこへ逃げたって言うんだ」
「教えてくんねえんだよ。俺が事件を知ったのだって、あいつの口からだ。当然だろ、事件は外部に漏れないよう徹底されていたんだ。入院していたなんて当然知る由もない。腹の傷跡を見せられるまで、到底信じられなかった」
「いつ知ったんだ?」
「病院を抜け出してから五日経ったと言っていた。場所は言えんが、片田舎の古い病院に呼び出されて会いに行った。あいつはまだ満足に歩ける状態じゃなく、車椅子に座っていた。その時からだ、
「それで村井さん、それ以降、あんたは龍子ちゃんの復讐に協力しているって事か?」
村井は答えなかった。
「マスコミのあんたなら、他に手があるんじゃないのか? それこそ事件を調べ上げて、掛井の犯行を明るみにする方法を考えるべきだ」
「国会議員と警察、もしかしたら検察も、それらを相手に正面切って挑めと言うのか? 警官のあんたがそれを言うか?」
「俺に相談してくれてたら、力になった」
「俺とあんたはそう仲が良かったわけじゃない。今もそうだろ?」
「龍子のためなら…」
「本当にそうか? 転勤が理由だとあんたは言うだろうが、あんたは龍子の傍にいなかった。親しい付き合いは無くなっていたろう? あんたはもう龍子の事を諦めていたはずだ。もしかしたら、自分から願って遠くに離れたんじゃないのか? キャリアが署長か何かになるわけでもなく、他県警に転勤なんてするのか? それを龍子は気にしていて、あんたを引き込むことを
今度は天童が返答せず、ただ表情を曇らせた。
「それにな、仮に疑惑を明るみにしたとしても勝てる保証があるか? 仮に立件できたとして、長い裁判の間に何を失う? 警察官を続けられたと思うか? 職だけじゃない、金や時間、まともな生活だって奪われていたさ、どうせ同じ事ってわけだ。後ろ指差されないだけマシってもんだよ。天童さん、あんた普段は飄々というか、どうにもすかしていやがるが、根っこのところが良く言えば実直、悪く言えば頑固だ。あんたの言うような杓子定規な手段で、本気であいつを助けられると思っているのか」
村井は天童が普段と違う、悲しそうな表情をしている事に気づいて、口調を弱めた。
「…俺は、龍子との付き合いはあんたより少し長いが、実際関係があったのはほんの一時、いや、一夜だけの事だ。お互い遊びのつもりだったんだが、俺の方が本気でまいっちまった。あんたと龍子が付き合ってた時も、掛井暁の時も、嫉妬でおかしくなりそうだった。表面上は平静を保っていたつもりだったがな、まったくみっともねえ。そりゃ俺だって他に女は何人も作ったさ。でもダメだ、どうしてもダメだ。俺はただ諦め切れねえから、ずっとあいつに付き纏っているだけだ。なんの助けにもなっていない。だから・・・さっき言った事はただの俺のやっかみだ。気にするな」
「いや、すまん。俺の方こそ、ただの嫉妬だ」
二人はお互い落ち着きを取り戻すために、それぞれコーヒーを、ビールを一口飲んだ。共にひどく苦みを感じた。
「それに第一、龍子はそんなタマじゃないぞ」
「おい、女性だぞ」
「警察や裁判所なんかに任せていられるものか。必ず自分で落とし前をつける奴だ。お前さんだって知っているだろう。そこがあいつの一番いい所だ」
「確かにそうだが、あんたと俺とでは、ちょっと捉え方が違うんだろうな。俺にとっては可憐で、かよわい存在だ」
「可憐? かよわいだって? よく言うぜ」
「何も解っていないな」
「なんだと?」
ベン! と、弦をはじく音がひとつ鳴った。
二人共に鳴った方向に顔を向けると、カウンターの老女がいつのまにか三味線を持っていた。親指の腹を三本の弦に這わせ、音を奏でた。左手は三本の糸巻きを鮮やかに扱い、巧みに形を変えて弦を押さえた。右手はバチをもたずに、指でひとつひとつ弦を弾いて、単音だけを数回鳴らせた。それだけでも、彼女が巧者だと思わせるものだった。
「まったく、大の男二人が女の事でぎゃあぎゃあ鬱陶しい、聞いちゃいられないね」
柔和そうな丸顔に似つかわしくない濁声と、乱暴な口調。
「あの子は魔性の女って奴さ、生粋のね。悪い事は言わないよ、今すぐ手を切るんだね」
「それができねえから揉めてんだよ」と、村井が親しげな口調で言った。
「もう取り憑かれちまってんだろうよ。だったらこんな所でぐだってねえで、破滅するまであの子に付き合ってやったらいいだろう。いい歳
「龍子ちゃんの事、ご存知なんですか?」と丁寧な口調で天童が問うた。
「知ってるも何も、あの子にはひどい目に合わされてばかりだよ。あたしはもう面倒見きれないよ、早く行って、どうにかしてやってくれ」
「彼女の居場所を?」まっすぐに老女の顔を見つめて、天童がたずねた。
老女は音を鳴らして肯定を示した。
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