第28話 CHAPTER 8「She never dies PART 3」

 RC構造だが、築年数はもう五十年を超えていて、コンクリートの外壁はところどころひび割れしている。通路の照明は全て取り外されており、夜中は街灯からこぼれる光を頼りにして注意深く歩き、鍵穴を探さなくてはならない。

 二年前よりこの二階建てのマンションのオーナーが変わり、賃貸を止めていた。いずれ全面リフォームを行うか、建て直しをする考えだが、それまでの間、龍子が一室を貸してもらう事になった。正式な賃貸契約手続きは行われず、建前上、知り合いにただで貸してもらっているという状況だ。実際のところ、龍子は水道光熱費込みの家賃を支払っているが、それはオーナーの収入には記録されない。つまり脱税(オーナーは堅気じゃない)という事だ。 だが、水道光熱費を除く家賃の部分はほんの二万円で、それは龍子に対するオーナーの厚意以外の何物でもない。

 他に誰も住んでいない、灯もなければ、当然監視カメラなどあるはずもない。若い女が一人暮らしをするのに、危険極まりない場所と言える。そんな好条件に不自然さを感じなかったのか、単に調べる手間を省略したのだろうか、余りにも強引な手段で、敵は襲いかかってきた。

 階段のかげに隠れていた黒づくめの巨躯の男が、二階に上がった龍子を全速力で追った。猛烈な勢いで近づく気配に、片手に握ったままでいた催涙スプレーを向ける龍子だったが、ゴーグルをつけていた襲撃犯に何の効力もなく、腕を払われ、腹を殴られた。彼女の身体が前のめりになると、嗚咽の声をふせぐため、大きな手が彼女の口を顔ごと覆った。

 汚れた皮手袋のひどい臭いと打撃による腹痛で、龍子は内臓が全て腐り始めたような思いになった。掛井暁に刺され、溢れ出る悲鳴と涙を強引に手で塞がれた時の記憶が、鮮明に思い起こされた。あの時と同じ…恐怖と痛みで体が言う事を聞かない。呼吸がうまくできない。何も考える事ができない。たったパンチ一発で・・・こんなにも、自分が弱いままだったとは思っていなかった。

 後ろから胴体に腕を回し、顔をつかんで、男は強引に龍子をドアの前まで引き摺って行った。

「鍵を出せ、出さないと今この場で殺す」

 息を荒くし、口を塞いだ手を少しだけ緩めた男に、龍子は声を絞り出す。

「バッグの、…中」

「自分で出すんだ。ゆっくりと」

 腕ごと胴体を掴んだ力も少し緩んだが、龍子にここで抵抗する気力はなく、またそれをしても意味がない腕力の差を認識していた。バッグの中から鍵を取り出し、男に手渡した。

 ドアを静かに開けて、靴を脱ぐよう男は言った。中に入っても尚、龍子の身体は引き摺られて行って、部屋の奥に置いてあるシングルベッドの上に放り投げられた。男はすぐに上に覆いかぶさり、また口をおさえた。両腕を膝で押さえつけられ、龍子は抵抗をやめた。男はゆっくりと白い布を上着のポケットから出して、龍子の口に押し込んだ。さらに大きめの黒い布を出して、口を覆い、頭を起こさせて後頭部の位置で結んだ。

 息苦しい、臭い、痛い、暑い。そして何より、気が狂いそうになるほど恐ろしい。それでもどうにかして意識を失わないよう、龍子は目を見開いていた。

 男はベッドサイドに接したベランダ窓のカーテンを閉じて、龍子の上から退いた。板張りの床に膝をついて、それから龍子の顔をじっと見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。彼女の両手両足は一切拘束されていないが、少しでも動かすと、巨体が再びのしかかってくる事は明白だった。男は少しだけ彼女から視線を外すと、吊り下がった電灯の紐を引っ張って部屋を明るくした。それから耐えられなくなったのか、リモコンを手に取って、エアコンをつけた。

 男の姿はスキーヤーのように黒のフェイスマスクとゴーグルで顔を隠し、黒いウェットスーツの上にメッシュの上着を着ていた。龍子は心の中でド変態、と呼んだ。

 男は再びベッドの横で膝をついて、背負っていた黒いリュックの中から、筆箱大のケースを取り出した。その中身を見て、龍子の理性はほとんど失われた。

 男は龍子の胸元に太い腕を押し付けて、目の前に注射器の針を近づけた。

「眠るだけだ。殺されるとしても、痛い目には合わなくてすむだろ」

 まただ、また私は殺される。泥と雨にまみれながら泣きじゃくり、恋人に刺されて血を吹き出し、病室で身動きが取れないまま脅えた。全てが甦った。

 龍子は思考を止めたように動かなくなり、なすがまま、腕に注射を打たれた。

 注射の後、男は龍子の身体を横に向かせて、腕を後ろ手に、それから両足首をまとめて紐で縛ってから、部屋を見渡した。

 六畳半の狭い一室にはテレビもパソコンもない。家電は玄関口すぐにある狭いキッチンに備えられた小さな冷蔵庫と、安物とわかる電子レンジくらいしか見当たらない。冷蔵庫の中身は水とマーガリン、豆腐のパックがひとつとドレッシングがひと瓶。収納棚にかかっている服はフレアスカートとブラウス、Tシャツの3つだけ。小さなカラーボックスの中にはタオルと下着類が少し入っていた。ユニットバスにはシャンプーと粗末な櫛、歯ブラシだけが置いてあって、小物の一つも、雑誌の一冊もない。生活感の希薄な部屋だった。

 朦朧とする龍子の様子を確認しながら、男は床に落ちていたハンドバッグを手に取り、中身を探った。それから、彼女の身体を衣服の上からまさぐるように触ってから、軽く頬を叩いた。

「おい、携帯はどこだ?」

「持って、ない」

「嘘をつくな」

「じゃあ、好きに探して」龍子は少し笑ったような顔をして、意識を失った。

 男はキッチンに戻ると、備え付けの小さな棚に置かれたわずかな食器の中から、グラスをひとつ取って、部屋の中央に置いてある小さな白い丸テーブルの上に置いた。

 男はゴーグルとフェイスマスクを外し、取り出したハンカチで汗を拭った。体躯に似つかわしい角ばった大きい顔で、目尻の下がった一重の目、広がった鼻、分厚い唇をしている。頭髪は坊主で、生え際がかなり後退している。

 男はスマホを上着の内ポケットから取り出し、電話をかけた。

「終わったのか」と、町田が出た。

「いや、まだだ」

「何をしている? 仲間が来ないとも限らないんだぞ」

「パソコンもスマホもないぞ。どうする? さらうなら車をすぐによこせ」

「始末しろ」

「一千万だ。後から値切るなよ」

 男は電話を切ると、リュックのファスナーを開けてスマホを放り入れ、空いた手で中からタオルに包んでいたブランデーと赤ワインのボトルを取り出した。グラスにブランデーをいっぱいに注ぎ、龍子の猿ぐつわを緩めて口の中に詰めてあった布を取り出すと、ワインを無理矢理口に注いだ。わずかに残っていた防衛本能で彼女はワインを吐き出したが、男は閉じた唇に構わずワインを浴びせた。

 ベッドと十センチほどの隙間を空けた壁の下部に、使用されていないコンセント口を見つけた。男はベッドの上に置いたままだった龍子のドライヤーを見つけて、プラグをコンセントに差し込んだ。

 もう一度、男は龍子の様子を確かめた。完全に眠っている様子だった。呼吸を確かめようと顔を覗き込んだ。おそろしく綺麗な顔をした女だ。顔の下半分がワインまみれになっていて、薄く呼吸している。まるで妖艶な女吸血鬼が死にかけているようだ。男は彼女の顔を見つめながら、服の上から胸と首に手を這わせて、ゆっくりと緩めていた猿ぐつわを外し、腰と尻を撫でてから手の縄を解き、太腿と陰部を何度も擦ってから足の縄を解いた。

 息を落ち着かせてから、男はコンセント口にライターの火を近づけた。着火を確認し、ライターをポケットにしまった後、男はもう一度だけ龍子に触れようと、手を近づけた。

 物音が聞こえた。ドアノブが動いたような音。男は息を潜めて上着の内側から刃渡り二十センチ程の、黒いサバイバルナイフを引き抜いた。ドアに張り付いて、スコープから外を覗いた。誰もいないし、第一暗すぎてほとんど見えない。音がしないよう、かつ素早くドアを開けて外を確認したが、人の気配は感じられなかった。

 静かにドアを閉めて戻ると、もう煙が立ち込めていた。急ぎでリュックを取ってこの場を離れようと動くと、あまりに意外な光景に気づき、男は茫然した。

 制服を着た十代の少女が、こちらに身体を向けてベッドに腰掛けていた。顔は眠る龍子に向けていて、彼女の顔に手を伸ばしてハンカチを優しくあてがい、愛おしそうに見つめながら、ワインを拭い取っていた。

 どこかに隠れていた? ベランダ? ベッドの下? いや、気配に気づかなかったはずはない。なんだこの女は。ありえない、本当に・・・人間か?

 勢いよく玄関のドアが開いた。白いワイシャツと黒いベストを着て、蝶ネクタイをつけた若い男…喬史が仁王立ちになって、男を険しい表情で睨みつけた。

 喬史はレスリングスタイルのような前傾姿勢で男に向って駆け出した。男は大きな図体をねじって、握ったナイフの刃先を、最も距離が狭まった…喬史の顔にめがけて突き出した。急に突入した非常事態と、それまでに見た光景とのギャップに戸惑った男は、刃先を真正面に見据えている喬史の顔を見て、平静を欠いた自分の未熟さを呪った。

 刃先はぎりぎりの所で顔の軌道から外され、喬史の握り込んだ右拳から突き出た中指の第二関節部が、カウンターで男の鼻の下にめり込んだ。反射的に顔を押さえた男の腹部ががら空きになり、踏み込んだ左足を軸にして、喬史は男の下腹部に下から力いっぱいの打撃を入れた。崩れる巨体の中央にさらに二回拳を入れると、つぎにナイフを持った右腕を両腕で掴み、枝を折るように膝で腕の関節部を数回攻撃し、ついにはそれを砕いた。

 男はナイフを手放し、悶絶しながら床に仰向けに倒れた。ベッドが視界に入った。横たわる龍子はそのままで、少女の姿は消えていた。カーテンとベッドに燃え移った炎が、みるみる勢いを増していった。

 男のリュックを背負い、龍子を軽々と両手で抱きかかえた喬史は、跳ねるような足取りで部屋を出て行った。

 男は折れた腕を押さえながら上体を起こした。煙を吸い込み、咳込むたびに激痛が走った。まもなく天井に火が移り、焼け死ぬ前に一酸化炭素中毒になる。男は意を決して、激痛にこらえながら立ち上がろうとした。

「ダメよ」そう言って、制服姿の少女が男の上体を踏みつけた。

 男は力なく、再び床に仰向けに倒れた。

 長く美しい黒髪の、大きな瞳の美少女は、白い歯を見せて、薄気味悪い笑みを浮かべていた。

「許さないわ」 少女は目の前にぶら下がっていた紐を引いて、灯りを消した。

 灯りはもう必要ないくらいに明るい。カーテンとベッドが炎を巻き上げて燃えている。黒煙が男を包み始めた。男は呻きと咳を交互に繰り返した。

 煙の中で一瞬、少女の黒髪と両目、口の中が、全て赤い炎になったように見えて、男は絶叫した。


 一室だけ煌々と赤く照らされた建物を背に、喬史はとても人一人腕に抱えているとは思えない程の速度で走っていた。心地よい揺れを感じながら、龍子は穏やかな表情で眠っていた。

 喬史は少し距離をおいて路上に停めておいたワンボックスカーの鍵をあけて、龍子を助手席に乗せた。シートをゆっくり倒して、起こさないようシートベルトをかけた。

 運転席に乗った時、消防車のサイレンが聞こえてきた。良かった、この後自分が通報しなければ、と思っていたのだが、名前などを聞かれたらどう答えよう、と悩んでいた。龍子さんが起きていたなら、瞬時に適当な名前をでっち上げるのだろうけど。

 こんこんと眠る龍子の顔をみて、喬史は安堵した。

 でも、どこへ行けばいいんだ。〈レーネ〉はもうマークされている。龍子さんが無事なのがばれたら、また狙われるかも知れない。〈りんどうの花〉を巻き込むわけには行かないし。念のため、医者にも診てもらわないと。…どうしよう。

 龍子はうっすらと戻った意識の中で、困った表情の喬史の横顔を見て、微笑んだ。

「龍子さん、起きたの? 大丈夫?」

「ええ、頭がふわふわしているし、めちゃくちゃ吐き気がするけど」

「ああ、ごめんね、すぐ何とかするから」

「あなたが謝る事じゃないわ」

「どこに行こう、どうしよう」

「どこでもいいわよ。あなたがついてくれているから」龍子はまた眠りについた。


 夢の中で龍子は思い出した。赤子の頃、濡れた自分を抱きかかえてくれた老人の手の感触。おかあさんに初めて抱っこされた時の匂い、そして、音もなく病室のベッドに近づいてきた影と、抱き起こしてくれた逞しい腕。抱きかかえられたまま、夜の病院内を駆け抜けた時の浮遊感。忘れ去っていた懐かしい声。

 そら・・・施設で一緒に育った私の弟。気弱で女々しい、とても優しい子。五年前のあの日、あなたがわたしを殺しに来て、救い出してくれた。



 嫌いな顔にピントが合って、龍子は再び目を瞑って目覚めをやり直す事にしたのだが、やはり顔が変わる事はなかった。

「おはよう、龍子さん」

「…お久しぶり、最後に会った時のお願いを、聞いてくれていないのね」

「何だっけ?」

「髭を剃れ」

 明るいベージュ色のスーツを着た髭の男は、姿勢正しく、龍子を見ていた。

「あの、寝起きの女性の顔を、まじまじと見ないでくださる?」

「いやあ、相変わらず美人だな、と思ってね」

「あらありがとう、あなたも相変わらず壮健なご様子で、ちっくしょう」

「まあそう喧々するな。医者にも診せてやったんだぞ。外部の打撲だけで、傷も大したことはない。薬の後遺症もないだろうって。まあ一応、今日の所は安静にしておけ。それと、君を襲った奴の素性が分かった。前科持ちの多重債務者だ。プロの殺し屋なんてもんじゃないだろう」

「ずいぶん物知りじゃない、お知り合い?」

「馬鹿言わないでくれ、喬史が奴のスマホを持ち帰ったからな。すぐに調べがついた」

「どうだか、町田に売り込んだんじゃない? わたしを殺すなら、格安でやるなんて言って」

「君を殺したいならとうにやってる。こうして助ける訳もない」

「前は殺そうとしたでしょう」

「まだ俺の事を誤解しているな。喬史が君を連れてきた時、俺は嬉しかったんだ。自分の好きな人だから殺せないって言ってな。認めなかったら、俺たちがあいつに殺されていただろう。自分でもよく解らないが、感動したよ。殺し屋なんて言っても、俺は殺人マシーンなんか望んでいない。どんな職業でも愛は必要だ。重要な要素なんだよ」

「相も変わらず、狂ってるわね」

「そうか? 自分では至極まともなつもりなんだが」

「それじゃあ、二村岳人の事はどうなの?」

「誰?」

「二村よ、チビにも話したわ」

「ああ、あいつね」髭の男はわざとらしく言った。

「あいつの素性はもう調べ上げたんでしょう?」

「ああ、つまらんね。ただのチンピラだ」

「あの男、ホントに女子大生を殺したの?」

「そう自分で言っているんだから、そうじゃないの?」

「その言いよう、腹が立つわ」龍子は舌打ちした。

「あまり俺を過大評価するな、わからん事の方がはるかに多い」

「二村をどうするつもりなの?」

「君に頼んだのはスカウトまでだよ」

「わたしが二村の事を調べていたのを知っていたでしょう? なんの嫌がらせ?」

「君には関係ない。君はもうすぐ自分を取り戻して、御天道さんの下に戻るんだろう。

いいじゃないか、こちらの事はもうほっときたまえ」

「喬史君はどこ?」

「君の持ち物を取りに行ったよ。もうすぐ帰るだろう」

「…あの子は絶対渡さないわよ」

「物じゃないだろう」

 龍子は上体を起こした。着衣は昨日のままでしわくちゃ、化粧したまま、髪はぼさぼさで汗臭いし、焦げ臭い匂いもする。まだ頭痛もあった。「シャワーを浴びたいわ」

「後でどうぞ」

「ここ、どこなの?」

「そう遠くは離れていない、心配するな」

「住むところを紹介してくれない? 少しの間だけでいいから」

「…貸しがかさむぞ」

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