第27話 CHAPTER 8「She never dies PART 2」
戸谷を乗せるための公用車が、正門前に近づいて来た。黒のクラウン…ここ連日見かけていた車で、ナンバーも覚えていた。運転する男の顔もはっきりと覚えている。
戸谷は天童に軽く頭を下げると、後部座席に乗り込んだ。
助手席の窓を開くと、運転席に座る
「で?」一文字だけ発した多賀に、天童は小さく首を左右に振って答えた。
「おい」後部座席の戸谷に呼び掛けられると、ゆっくりと車が動き出した。
車が見えなくなるまで見送った後、天童は踵を返して会議室に戻り、携帯電話を手に取った。記憶しておいた番号をゆっくり確実に押した後、五秒間だけ躊躇して、それから発信した。十数秒のコールの後、留守番電話に切り替わってシステム音声による応答メッセージが流れた。天童はすぐに切って、もう一度かけた。
正午過ぎ…龍子は今頃仕事に備えて眠っているのだろうか。電話に出てくれたとして、俺は何を話すのだろうか。また留守番電話に切り替わる。もう一度かけ直す。とにかく、彼女の声が聞きたい。
会議室の扉が勢いよく開いて、制服姿の若い男が入ってきた。
「あっ、すみません…使用中でいらっしゃいましたか」
「いや、いいんだ。もう終わりました」天童は携帯電話を上着のポケットにしまった。
制服警官の後に続いて、五名の警官が次々と、各自が天童に頭を下げながら入室してきた。入れ替わりに天童は会議室から出て行った。
午後三時過ぎに龍子は目を覚まし、下着を床に脱ぎ散らかしながら、洗面台とトイレが一緒になったユニットバスに入った。最初は水の状態でシャワーを頭から浴びて、ゆっくりと赤色のハンドルを回して調節していく。少し熱くしたり、また水に戻したりして、十分程浴び続けた。
新しく出した黒い下着をつけて、無造作にタオルを頭に巻きながらベッドに腰かけた。ベッドの上においてあったスマホを手を伸ばして取ると、すぐにタオルがほどけて、濡れたままの髪が顔を覆った。
着信履歴をぼうっと見つめた。しばらくの間、そのまま画面を眺め続けた。
天童さんはもうわたしに何があったのか、自分で知っただろうか? 一昨日に会った時はまだその様子はなかったが、その後に電話がなかった事が気にかかった。面倒に思ったなら、すぐに自分との関係を絶ち切ってくれて構わない、そう自分で彼に伝えたのだが、もし実際に言われてしまうと、思いのほか傷ついてしまいそうだ。天童さんはそういう人じゃない事はよく解っているが。でも、だからこそ、彼を巻き込むべきではなかった。
天童さんだけじゃなく、
龍子は下を向いて、自分の腹部を見つめた。中央寄りの左下腹部に、下着に半分隠された三センチほどの傷跡があった。白い滑らかな肌に縦に走った茶色のラインは、ひどく目立っていた。
一度目をつむってから、意を決したように見開くと、龍子はディスプレイをタッチした。十秒程度のコールの後、女性のアナウンスが流れて留守番電話に繋がった。龍子はむすっとした表情になって、スマホをベッドの上に放り投げた。
「天童警視、何かございますか?」
目前に立つ、自分よりも十歳近く若い管理官に問われて、思わず愛想笑いを浮かべながら「いえ、特に」と答えてしまった。笑顔を見せる場面ではない、すぐに表情をひきしめたが、管理官は冷めた目つきを緩めてはくれなかった。
「それでは本会議を終了します。各自、担当捜査をお願いします」
天童の背後にいた、四十名余りの捜査官が一斉に席を立った。皆足早に会議室を出て行った。若い管理官が立ち上がった天童に近づいて、小声で話しかけた。
「すみません、警視には本捜査に緊張感を持たせるための重し、として来て頂いております。くれぐれもその事をご留意ください」
「はい、すみません」
「いえ、でもホントに何か、意見はございませんか? 警視は…昔は相当な切れ者だった、と聞いた事があるのですが」
「いえいえ、やめてください。この通り、うだつの上がらない落ちこぼれでして…」
(現場近隣住民全員による犯行かも知れないとか、プロの殺し屋の仕業である可能性とか言ったなら、どんな顔をするだろう)
管理官は厳しい表情のまま、頭を下げて去って行った。
(少し肩に力が入り過ぎているかな、でも若い人はあれくらいでないとな)
天童は脇に挟んだスーツの上着が、微妙に振動している事に気づいた。慌ててポケットを探って携帯電話を取り出した。着信あり…その番号は頭に叩き込んだものだった。
え~っ、向こうからかかって来たよ。大丈夫なのか? どうしよう、この場でかけるのはちょっと、まだ周りに人が残っているし。
天童はトイレに駆け込むと、誰もいないことを確認してから龍子に電話をかけた。
龍子は下着姿のまま、ベッドの上で胡坐をかいて、ドライヤーで髪を乾かしていた。
「なんで出ないの?」
一時間ほどおいてから、今度はレストスペースでかけた。
龍子は電車の中で立っていた。ノースリーブの白のブラウスにデニムパンツの格好で、バッグを肩にかけていた。左手はカーボン色のキャリーケースのバーを握っている。
さらに一時間後、面倒くさくなって、というかどうせ出ないんだろ、と思って、警察官だらけのオフィスからかけてやった。やはり出ない。
「何だよ、もう~」・・・中学生か俺は。
龍子はスマホを確認しつつも、ロッカーの中に置いて、衣装に着がえ始めた。
午後八時半、天童は病室のベッドに横たわる老いた父親を黙って見つめていた。顔には呼吸器、右腕には点滴の針が刺さっている。やせ細り、縮んだ体と虚ろな目を見ると、残った肉体がわずかに反射しているだけで、父自身はとうにいなくなっているかのように思えた。この状態になって一年が経過した。胸をしめつけていた感情は、時を経て大分緩和されている。十分間隔くらいで目をうすく開き、また閉じている。何かを伝えているのだろうか、と思った事もあるが、解るはずもない。「調子はどうだ?」「痛いところはないか?」等と語りかける事もしなくなった。「また来るよ」それだけだ。
夜間出入口から病院を出て、歩きながら電話をかけた。
「もしもし」と、怪訝そうな表情が読み取れるトーンの応答が聞こえた。
「もしもし俺だ、天童だ」
「おう、なんだ」
「村井さん、もしかして今、龍子ちゃんのお店に行ってない?」
「いや、今夜は職場で缶詰だ。先週はずっと通っていたがな。どうしてそんな事を聞く?」
「いや、龍子ちゃんから連絡先を教えてもらったんだが、なかなか繋がらなくてな、ちょっと心配になったんだが」
「そうか」(教えやがったか)「あいつが電話に出ない事なんてしょっちゅうの事だ。今は特に警戒しているから」
「そうか。 それとな村井さん、あんたともまたじっくり話がしたいんだ。今度時間を取れるか?」
「ああ解った、連絡する。もういいか」
「ああ、悪かったな」
連休後の週半ばで、来月にはお盆を控えた時期の客足は少なく、〈レーネ〉に常駐しているキャストの数は余り気味で、売り上げは普段と比べて大分落ちる様子だ。
「喬史、こっち」と、色黒の店長が呼びかけた。
喬史が近寄ると、まずい話をするかのようにフロアに背を向け、喬史にもそうするよう口をとがらせた。
「何です?」
「さっき聞いたんだけど、龍子さん、電車のあるうちにって、三、四十分ほど前に帰っちゃったらしいんだよ。困るよな、いくら客が少ないったって、あの子目当ての客はまだ残ってんだから、こう何度も勝手に休まれちゃうと」
「すみません、僕からもちゃんと言っておきます」
「まあそりゃ別の話だ。それよりもちょっと気になる事があってな。他の子達が言ってたんだけど、どうも昨晩から、彼女の事を探っている奴が店にいたらしいんだ」
「え?」
「馴染みじゃない男達が数人いたようだ。やたら龍子さんを見ているのに、なぜか指名しなかったらしい。今はもういないようなんだが、お前、何も気づかなかったか?」
「すみません」喬史はしゅんとした。
「俺も昨晩はほとんど裏方に入っちゃっていたから。それでよ、さっき電話したんだけれど、ずっと留守電でな、困っちまってるんだ。俺もあの子についちゃあ、大恩ある深川のご隠居さんに頼まれてっからよ。万が一の事があっちゃあ申し訳が立たねえ。お前、もう切り上げちまっていいから、様子見に行ってくれねえか」
「いいですか」そう言いながら、両手に持っていた数本の空き瓶を店長に手渡した。
「おう、頼むぞ」
「車借ります」喬史は黒服の恰好のまま、走って出て行った。
「飲んじゃいねえだろうな!」
すでに遠くなったか、喬史は律儀にはい、と返事していった。
「あれ? なんか音してない?」黄色いドレスを脱いでいるキャバ嬢が言った。
「龍子さんのロッカー、携帯忘れてったのかな」
客足が途絶えて、早めに仕事を終えるよう指示された数名の女の子たちが、狭い控室で窮屈そうに着替えていた。
「このキャリーケース邪魔。誰の?」
「それ、龍子さんのよ」
「どうして置いてってんの?」
翌朝、天童は寝室でスーツに着替えながら、テレビでニュースを観ていた。報道局のオフィスを背景に、正面を向いた女性キャスターが画面に映っていた。
「続いてのニュースです。昨晩神奈川県横浜市保土ヶ谷区で、二階建てのワンルームマンション一棟が半焼する火事がありました」
画面が切り変わった。「今日深夜零時半過ぎ、周辺住民から火事の通報があり、消防車四台が現場に駆けつけ、消火活動を行いました。火元とみられるマンション二階の一室からは、性別不明、身元不明の遺体一体が発見されています。現在までの所、マンション住民についての詳しい情報はなく、周辺住民からは、若い女性が一人出入りしていた、との目撃情報が確認されています」
スマホで撮影された縦長の画面には、ぼやけた炎が映っていた。その後…消火後の、一角が黒こげになった建物の映像が映し出され、女性キャスターが原稿を読み終えるまでに、それぞれ二回リピートされた。
天童は結びかけていたネクタイから手を離し、ベッドサイドにおいてあった携帯を取った。すぐにリダイヤルを押すと村井ではなく、龍子の番号がディスプレイに表示された。コールの音とテンポを合わせるかのように、天童は激しく呼吸した。
昨日で頭の中に刷り込まれていた、留守番電話に切り替わるタイミングのぎりぎりのところで、通話が繋がった。
「もしもし」と甘い声が聞こえた。
「龍子ちゃんか?」
「ええ」
「良かった、龍子ちゃん、良かった。あ~良かった」
「大丈夫よ、生きてます」
「そうだね、良かった。ああ、やっと電話が繋がった」天童はベッドの上に突っ伏した。
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