第2話 CHAPTER 1: Straight to hell PART 1

「煙、上がっていないね」

「煙?」と、傍にいた四歳の女の子が尋ねた。

「うん、死んだ人はね、ここで体を燃やして、煙になって空に上がっていくのよ」

「おかあさん、燃やされるの?」

「そうだよ、死んじゃったからね」

「そうかあ、またおかあさん、いなくなっちゃうのか」

「ありゃ? あなた、前にもおかあさんいなくなっちゃったの?」

「うん」と言って、女の子は大きな両目からこぼれ出た涙を拭った。

 ああ、と慌てて龍子はしゃがんで、目線を女の子の高さに合わせてから、ワンピースタイプのブラックフォーマルの上に羽織ったジャケットの外ポケットから、薄緑色のハンカチを取り出した。「ごめんね、辛いことを思い出させちゃったよね」と言って、ハンカチを女の子の両頬にあてがった。女の子はピンクのパーカーを着て、ブルージーンズを履いている。靴は白いスニーカーで、上から下まで小さなアルファベットの羅列以外、ほとんど装飾のない服装をしている。おそらく全て安価な代物であろうが、ほつれやしみ等の汚れはない。ハンカチを通じて頬の弾力が伝わる。龍子は思わず素手で確かめた。なめらかで快い感触は指先で味わうだけに納まらず、女の子を抱き寄せて頬ずりするまでに至った。「うわ~、あなたすべすべじゃない、うらやましいわ~、妬ましいわ~」

 女の子はまだ少し目の周りを涙で濡らしたまま、声をあげて笑い始めた。

「やめて!やめて!」と甲高い声をあげながらも、満面の笑みだ。

龍子りゅうこちゃん」と呼ぶ声がした。手をあげて近づいてくるのは杉原すぎはら英梨佳えりかだ。彼女の年齢は五十を超えていて、やや肥えた体躯だが、しっかりした足取りでやや上り坂になっている道を苦にする様子もなく、ヒールをコツコツと鳴らせて歩いてくる。彼女も龍子と同様のブラックフォーマルを着ている。

 龍子は立ち上がって、女の子の背に回って逃がさないよう両肩を掴んで、杉原の方に身体を向けた。女の子は逃げようと両肩を揺すりながらも、ずっと笑顔でいる。

「こんなところにいたの。外は暑いでしょう。みんな中に入って待っているわよ」

「うん、煙が見えるかな、って思って外に出たの」と、龍子が言った。

「煙?」と言って、杉原も龍子と同じ方向に顔を向けた。さっきまで杉原が他の皆といた三階建ての大きな白い建物が見える。その建物の向こう側に何があるか見えないが、煙が上がっている様子はなかった。そもそも煙突らしきものも見えなかった。

「今の斎場は煙突とかって、外からは見えないように作っているところが多いらしいわよ。こっちの門側は通りに面しているから。それに、そもそも煙はほとんど出ないみたいよ」

「そうなの? 残念」

 両肩に置かれた龍子の手首をつかんで、身体を揺すっている女の子の様子を見て、杉原は嬉しそうに言った。「柴乃しのちゃん、お姉ちゃんと随分仲良くなったのね」

うん、と女の子は頷いた。

「かわいいわ、この子」と龍子。

「そうね、うちは良い子が多いから、助かっているわ」

「お姉ちゃん」女の子が龍子を見上げて尋ねた。「おかあさんはもう、天国へ行ったのかな」

「うん、煙は見えないけれど、きっと天国に行ったわ」

「もう会えないのね」

「いいえ、わたしたちもいつか死んじゃって、天国に行ったなら、また会えると思うわよ」

「死んだら会えるの?」

「今死んでも会えないわ、あなたもわたしも。天国に行くにはそりゃあもう必死の努力が必要だと思うわ」

「努力?」

「生きている間に良い事をするの、おかあさんみたいに。おかあさんの事好きだった?」

 女の子は頷いた。

「どんなところが好きだった?」

「怒られたりしたけれど、本当のおかあさんじゃないのに、いつもご飯を作ってくれたり、宿題を見てくれたり、一緒に遊んでくれたりしたから。すごく良い人だから」

「そうよね、わたしもそう思う。だからおかあさんは天国に行けるの。おかあさんのように優しくて、強くて、人を思いやれるような生き方をすれば、私たちも天国に行けるの」

 女の子は俯いた。「わたし、そんなに良いことしてないと思う。言う事を聞かなかったり、大きな声を出したりして、けんかしたりして・・・よく怒られるし」

 龍子は腰をかがめて、背後からのまま女の子のお腹に両手を当ててさらに抱き寄せた。「あなたはまだ全然若いんだから、これから取り返せる時間がいっぱいあるわ。わたしなんか、かなりやばいわ。このままだとおそらく地獄行きよ」

「地獄ってどんな所?」

「悪い奴ばかり行く所よ。きっとそこで死んだ後もお互いずっと悪口を言い合ったり、騙し合ったり、殴り合ったり、殺し合いをしているのよ。しかもそこには針の山とか血の池とか、火傷するようなあっつい温泉とか、それはそれは恐ろしい所らしいわよ」

「うわぁ、絶対行きたくない」

「でしょう?」

「どれくらい良い事をすれば天国にいけるの?」

「それは詳しくは発表されていないのよ。でも年々厳しくなっているらしいわ。もっと条件についての明確な制度設定が求められているのよ」

「ちょっと、何を言ってるの」と杉原が笑って言った。「あなたは昔から、そんな変な事ばっかり言って」

「あら、子供の情操教育には定番の内容なんじゃない? 物事の善悪を判別して行動する時の、指針とするべき考え方よね」

「馬鹿ねえ、人様を傷つけないように気を付けてね、あとは一生懸命生きて行けば良いだけよ。死んだ後の事を考える必要なんてない。おかあさんも最後までそうしていたのよ。 さあ、もう少しで御骨上げの時間になるから、あなた達も一緒に来なさい」そう言って、杉原は歩き出した。

 女の子は龍子の耳元に顔を近づけて、小声で話した。

「わたしもそう思う」龍子も小声で答えた。杉原さんは、きっと天国へ行けるわね。

 

 台の上に乗せられたお骨は、とても人の形を成していたとは思えない程の質量で、多数の片となって散らばっている。当たり前の事だが、肉や内臓はすべて燃え尽きてしまっていて、焦げた匂いは紙や木が灰や炭になった時とそう違いはない。ひょっとしたら、人肉が焼けた時の匂いというものを嗅ぐ事ができるのかも、等と不謹慎な事を一瞬考えた龍子は、自分自身に呆れた気持ちになった。こうなってしまっては、もうどうしようもない。色とりどりのお花に囲まれた顔を見た時は、もう動かない、うめき声一つ発する事はないとわかってはいても、彼女の存在がまだ残っているように思えた。しかし今や人の形を一切残していない姿になってしまった。姿などと言う表現にも無理がある。細かいかけらのひとつひとつを、斎場の職員達が、これが歯です。腰骨です。背骨です。肋骨です。これが喉仏ですが、これは最後に上げて頂きますので待ってください、と説明をしていても、なるほど、とも思えず、頭の中を通りすぎてゆく。逝去を知らされた時、遺影を見た時、棺の中の姿を観た時、ここ二日間で度々激しく揺れ動いた感情は、もうオーバーヒートしてしまったのか、燃料切れをおこしてしまったのか、どうにも再起動しなかった。こうしておかあさんの身体が失われた事実を見て、いやその前の、霊柩車に積み込まれて、記憶にある彼女の姿の背景に、いつも映っている施設を出ていったところを見送った時に、自分は彼女が亡くなったこと、この世から無くなってしまった事を認めたのだ。こんなものなのだろうか。自分が愛していた人が亡くなったというのに・・・。

「龍子さん」

 井達いだち喬史たかふみの呼び掛けに促されて、木のお箸を受け取る。つかみやすい五センチほどの細い骨片を二人で拾い上げ、骨壺に入れた。どの部分の骨なのか、職員の説明はなかった。

 

 児童養護施設〈りんどうの花〉施設長の浅田あさだ淑香しょうかが亡くなったのは六月二十二日の午前五時三十分。死因は心筋梗塞らしい。享年七十七歳。施設建物の所有者であり、彼女自身二階にある一室を自室として暮らしていた。毎朝六時に児童たちの朝食を一緒につくる年長の女子児童が異変を感じて、午前六時二十分ごろに部屋を訪れたところ、ベッドの上で眠ったまま呼吸をしていない事に気づいた。年長児童は至急救急車を呼んだが、彼女はすでにこと切れていた。

 龍子のスマホに知らせが届いたのは、二十二日の正午過ぎだった。平日だと言うのに、彼女はまだベッドの上にいた。彼女が自宅のワンルームマンションに帰ってきたのは、その日の午前七時だった。化粧を落とし、シャワーをあびて、下着姿でベッドにもぐりこんだ時は八時半を過ぎていた。まだまだ睡眠不足だったが、電話の内容に眠気は一瞬で消えさった。電話を切った後、またシャワーを浴びて下着を着け、収納棚から喪服を取り出す。化粧をする前に、龍子は一旦落ち着いた。下着姿のままベッドの上に腰かけて改めて事態を頭の中で整理する。おかあさんが死んだ。明日お通夜で、明後日が葬儀。今喪服を着る必要はない、最低でも今日と明日はバイトを休まなくてはならない。お金も下ろしてこなくちゃ・・・。龍子は深く溜息をついてから、仰向けになった。おかあさんが死んだ。涙が溢れ出てくる。う~っと呻き声をあげた。涙がとまらない。

 

 葬儀には多くの弔問客が訪れた。市長、学校長、教職員、同業の養護施設職員、他県からも多くの人が来ていた。生涯独身であったためか、親族は四名のみ、皆高齢の人たちだった。通夜及び葬儀は施設で行われた。遠慮して焼香だけで帰っていく人も多かったが、建物内と庭、およそ五百平米の敷地内には人が溢れ返っていた。

 火葬場がある斎場に遺体が運ばれた後は、人はずいぶん少なくなっていった。ほとんどの人はそこで帰路に就いた。斎場に向かうマイクロバスには、親族とおよそ半数である十四人の施設児童たちと、施設職員は共に保育士である杉原英梨佳と三十代の女性の二人。

残りの児童、とりわけ年長者の多くと職員達は、葬儀の後片付けをするために施設に残った。それから、施設の出身者である氷川ひかわ龍子りゅうこと井達喬史が同乗した。


 拾骨を終えて、龍子と喬史の二人は斎場のロビーに置かれたソファに座っていた。施設の子供たちも疲れた様子で座っていた。小さい子たちは限られたソファに身を寄せ合っている。その中にはさっき外で龍子と話していた女の子もいて、となりに座る子の肩に首をもたれかけて眠っている。中学生くらいの男の子二人と、高校生くらいに見える男女一組は、それぞれ少し距離をとって立っていた。皆遺族との事後相談をしている杉原を待っているのだ。

「龍子さん、今日中に帰る?」喬史が言った。

「うん」龍子もまた疲れた表情をしていた。訃報を聞いてから二日以上経ったが、その間眠ったのは三~四時間といったところだ。お骨を見てから気が抜けたのか、急激に眠気が襲ってきていた。今なら誰が死んだと聞いても、知らん、と言ってしまいそうだ。

「明日、本当にやるの?」

「やるわよ、もう準備は全部終わっているんだから」

「そう、解った」

「あなたは残ってもいいわよ、わたし一人で行くから」

「駄目だよ、危険だから」

「べつに危険じゃないわよ」

「駄目、それに龍子さんが帰っちゃって、僕がひとりで施設に残って何をするの? そんなの、居辛いよ」

「そうなの?」 

「待たせてごめんね~」杉原が龍子たちのところにやって来た。杉原も疲れた表情をしていた。連絡を受けてから警察による検証、病院への搬送、死亡診断書の提出、遺族をはじめ各関係者への連絡、斎場の手配まで、ほとんど全て彼女が主導して行ったのだ。さらに今後おそらく遺産処理、つまりは施設の存続について遺族との相談が待ち構えている。おかあさんは生前に貯蓄や土地建物の権利全てを、施設存続のために使用する手続きを済ませておいたらしく、それは施設の副所長的な立場だった杉原への大部分の譲渡を意味しているのかも、と予想できるけれども、さあ、遺族は黙ってそれを受け入れるのだろうか。きっと先ほどまでその事についての相談があったのだろう。しかも葬儀当日に済ませられるような、簡単な内容にはなり得ない様子だ。

「わたしはもう少しご遺族の方達と話があるから、あなた達、先に帰っておいてくれる?来た時と同じバスを出してもらうようにお願いしてあるから」

「わたし達はこれで失礼するから」龍子と喬史は立ち上がった。

「あら、そうなの?」

「もう帰らないと、今夜はバイトも行かないと」

「龍子ちゃん、もう三十でしょ? お仕事辞めてから随分経っているし、特にやりたい仕事がないのなら、そろそろ結婚を考えなさい。あなたは美人なんだから、引く手あまたでしょう?」

 龍子は笑顔を浮かべて言った。「わたし、男運が悪くてね」

「そんな事ないでしょう」杉原は喬史の顔を見て言った。喬史は目を逸らした。

「じゃあ、ごめんね。また連絡します」

「ああ、ちょっと待って」杉原は龍子の左腕を掴んで言った。「今日も泊って行ってくれると思っていたから、ごめんね。実は龍子ちゃんにひとつお願いごとがあるのよ」

「あら、何かしら」

「近いうちに時間を取ってもらえるかしら、行ってもらいたいところがあるの。おかあさんの代わりに」

「まだ少し時間あるから、お話を聞くわ」龍子はソファにゆっくり腰かけた。

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