第32話 CHAPTER 9「Out of sight PART 4」

 病室のベッドの上で、掛井武人は目覚めた。壁面に取り付けられた補助照明だけが点灯しているが、病室が個室である事と、今現在、呼吸器や点滴注射等の処置は行われていない事が解って安堵した。意識ははっきりとしていて、痛い所もない。上体を起こしてみても、特に不具合はなかった。

 掛井は浴衣型の青い病衣を身につけていた。ベッドサイドには床頭台もなく、眼鏡や携帯電話、その他何ひとつ私物が置かれていない状況を知って、掛井はゆっくりと慎重にベッドから起き上がって、病室の隅に置かれていたスリッパを履いた。ナースコールを押してベッドに腰掛けて待つが、数分経っても誰も来ない。掛井はややふらついた足取りで、病室を出た。

 廊下はあまりに照明が明る過ぎて、病室との落差に一瞬気が遠くなったが、ゆっくりと一歩一歩白い廊下の上を歩いている内に、身体が楽になっていった。あまりにショックな出来事に、体重が五キロほど一気に落ちたのかも知れない、と少し嬉しい気分になった。

 廊下にも、ナースステーションにも看護師や患者の姿は見えず、窓口で「おい、誰かいないか」と声を上げたが、一切反応はなかった。ナースステーションを過ぎて自動ドアを抜けると、面会用の広いロビーがあった。小規模なフードコートのように、白いテーブルと、オレンジ、水色、黄緑といったカラフルなダイニングチェアがいくつか置かれている。節電のためか、天井の蛍光灯は半分消されていて薄暗く、深夜で誰もいない。

 飲料の自動販売機が三台並んだ隣に、一台だけ緑色の公衆電話が置いてあった。掛井は近寄って受話器を取ったが、病衣以外に身に着けているものはなく、当然十円玉すら持っていなかった。

「くそ」と呟いてから、ロビーの窓際にゆっくり歩いて行った。大きな窓からは爪の先の様なか細い月と、わずかばかりだが、星の光が見えた。掛井はしばらくの間、その景色に見入った。頭から足先まで心地よい冷気を感じた。全身をめぐる血液が全て浄化されて、清流のようにきれいで、穏やかに流れているように思えた。

 靴音を反響させて、二人の女が掛井に近づいて行った。

 振り向いて女の姿を確認すると、掛井はゆっくりと近くにあった椅子を引いて、腰をおろした。女達はテーブルを挟んで、向かいに並んで座った。

 真向かいに座った龍子は、黒の半袖ワンピースを着ていた。ハイネックだが、両肩はシースルーになっていて、スカート丈は膝上十五センチ、身体のラインがわかるタイトなもの。黒のニーハイソックス、ハイヒールを履いている。明るい茶色の巻髪をおろし、化粧は控えめにしていて、実年齢よりもはるかに若く見えた。

「お前、私の命を狙ったのか」 自分でも意外なほどに、穏やかな口調で掛井は言った。

「え?」

「彼は…自分の命を狙ったのか、と尋ねたわ。龍子ちゃん、ほんの少し右よ」と、龍子の隣に座るさやかが言った。さやかは夏用の制服(白の半袖ワイシャツに紺のリボン、グレーのチェックスカート)を着ている。

「いいえ、わたしは自分が殺されるのが死ぬほど嫌だから、人を殺すのも嫌いよ」

「じゃあ、あの男は何だ?」

「あの男は何だ、と言った」

「男? …あなたの隠し子の事?」

「やはり知っているんじゃないか」

「変な探り合いをするのは面倒でしょう、時間短縮よ」

「あんな奴が息子なわけがない。息子は、俺の息子は政治家になるんだ。大変な事だ。お前なんかには解らない。政治家を目指すという事が、どれだけ大変な事なのか。金もかかるし、自由な時間も持てない、家庭を犠牲にしなければならん事だってあるんだ」

「何を言っているの?」

「聞かなくていい」と、さやかが呟いた。

「あんな男は知らん、俺の子であるはずがない、俺を殺そうとした」

「兄弟そろって人殺しね。母親が違うのだから、あなたの血が強く関係しているのね」

「何だと?」

「わたしは二度もあなたに殺されかけた」

「知らん」

「そのくせ自分の命が狙われたとなると、ガタガタ非難がましい事を言って、恥ずかしくないのかしら」

「何を、俺は…」

 怒鳴ってやりたい、と掛井は思ったのだが、どうにもその力が出なかった。なぜか大きく息を吸う事ができず、細かく息を吐くような喋り方しかできなくなった。

「俺は、お前を殺そうとなんて、していない。何度か言った事もあったが、そうかも知れんが、指示はして、ない、ただ脅すよう、三億なんて、無理だ」

「何ですって?」

「自分は殺す指示を出していない、と言っているわ」

「あの男、人を殺したと、言った件、知らん、聞いていない。二村愛実の子…」

「二村岳人が犯したと言う殺人の事についても、何も知らない」

「どういう事?」

「俺には、たくさん、味方がいる。政界、か、け、警察、財界。その中には、親族だってたくさん、いる」

 さやかは、天童の言葉から句読点をほとんど外して龍子に伝えた。(以降しばらく、さやかの翻訳を省略)

「警察があなたに断りもなく、勝手に二村岳人を釈放したと言うの? 忖度ってわけ?」

「俺は、知らない、何も」

「二村愛実の居場所を知ってる?」

「知らん、もう、関係ない」

「知らない、ばっかり」と、さやかは呆れた。

「町田という男の事を教えて」

「奴は、詳しい事は、知らん。事件屋だと、聞いているだけ。紹介された、五年前」

「五年前? 私が掛井暁に刺された事件からの付き合い、という事?」

「駄目だ、もう疲れた、眠る、眠らせてくれ」

「無理よ」と、さやかが言った。「もう眠れないわ」

 掛井は半分眠っているかのように、上体を前後に揺らした。目は閉じていないが、身体のほとんどは機能を止めているかのようだ。

「掛井さん、今どんな気分?」と、龍子はそれまでのやや冷ややかな態度から、改まった言い方に変えた。

「気分は、悪くない、眠い、少し酔ったか」

「わたしはね、これまで何度か死にかけた事があるの。中でも、あなたの息子にお腹を刺された時が一番ひどかった。まさに死の淵に立っていたのよ。運ばれている時だったのか、手術中だったのかは解らないけれど、ずいぶん長い時間、ずっともがき苦しんでいた。

 最初、呼吸ができない程の雨が顔にかかっていて、上を向いたまま溺れていたの。それから段々と夜の空に引っ張り上げられて、宇宙にまで昇っていった。光の線がうねって、渦になっていく光景が、どれだけ目を瞑っても消えなくて、脳の中に蛇が入り込んだ気分だった。耳元ではずっと湯が沸いているような音がしていて、耳を塞ごうとしても指一本動かせられない。他にも色々とあったわ。ふとした時に思い出すのだけれど、今覚えているのはさっき話したところだけ。それで、わたしは泣いたのよ。いつまでも、体中の水分が失われるくらい。でもね、どれほど泣いても、傍に誰もいないの。いつまでも自分一人だけ。わたしはね、あれは地獄だったと思っているの。最後にどうやって抜け出たのか覚えていないけれど、わたしはぎりぎりの所で死を免れたんだわ」

「地獄」と、掛井は呟いた。「そんなもの、あるものか。死んだら、無くなる、それだけだ」

「違うわ」とさやかが言った。「無になる、とか生まれ変わるなんて、都合のいい話はないのよ。肉体が滅ぶなんて、認識方法が変わるだけの事よ。あなたは死んだ後もあなた、これまでも、これからも」

「お前、なんだ…」掛井はさやかを見た。そして、徐々に全身を震わせた。

「ああ、なんだ、誰だ、お前、どうなって、いるんだ?」掛井は立ち上がった。大声を出したいのに、どうしても出ない。

「どうしたの?」

「わたしを見てすごく驚いて、怯えているよう」

「何、今まで見えていなかったの? それで、どうしてさやかさんを見て怯えるの?」

「あれかな、もしかしたらこの人には、わたしが死神みたいなものに見えているのかも」

「死神って?」

「ほら、大きな鎌を持っていて、顔は理科室に置いてあるような、あの骨の、しゃれこうべってやつ? そんな風に見えていたりして」

「嘘、それ見たいわ。わたしにも見せて」

「いや、わたしがそう見せている訳じゃないから」

 掛井は震えながら二人を交互に見た。女子高生は掛井の顔を見ているが、氷川龍子の視線は、まだ低い位置のままだった。

「俺は、…死んだのか」

「そうよ」

「どう、なるんだ」

「知らない」

「なんて言ったの?」

「自分が死んだ事に気づいたみたい。ものすごい顔でわたしを見ている。まったく、女の子にそんな顔を向けるなんて、失礼しちゃう」

「そうね、こんなかわいらしいしゃれこうべがいる訳ないでしょう。しいて言うなら、オシャレこうべよ」

「オシャレこうべよ」さやかはかわいらしく言った。

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