第28話

 午後からは、葬式準備を手伝うために雅子を連れて後藤家を訪れた。

 葬儀は寄合所で行われるが、それまでは一旦自宅で遺体を安置する。ちょうどいいからレンタルしていた介護ベッドや用品の返却準備をして部屋を片付け、弔問客を招き入れられるようにしておく算段なのだが。

 そういえばあそこの旦那な、と雅子は隣で手を動かしながら何かを思い出す。片付けを始めて約一時間、作業はもうすぐ終わりそうなのにその口は未だ閉じる気配がなかった。

「見たことない、新しい車に乗っとったわ。好き放題して、ええ気なもんよ」

「よそんちのことはいいですから、目の前のことを片付けましょう」

 溜め息をついて介護ベッドの電源コードをまとめ、隣の居間で作業中のハルに視線をやる。遺影の写真を選ぶ役を任せたが、未だ決まりそうにない。ただこちらは喪失感によるものだから、必要な時間ではあるだろう。二人は、誰に聞いても「仲の良い姉妹だった」と言う。ハルは一度嫁に行ったらしいが子供ができなくて離婚し、トキは生まれついての障害があったために結婚はしなかった。数十年前の集落の中では、決して良い扱いを受けていなかったはずだ。二人にとっては、今の方がずっと暮らしやすかったのかもしれない。

 そういえばあんた、と文句の矛先が私へ向いた時、腰ポケットで携帯が揺れた。

「すみません、電話なので」

 着信音に救われて腰を上げ、廊下を歩きながら応える。大澤は、度々すみません、と少し神妙に聞こえる声で詫びた。

「いえ、大丈夫です。何かありましたか」

「実は、後藤トキさんの検視で気になる結果が出まして」

 雅子から距離を置くべく奥へと進めていた足が、ぴたりと止まった。

「それは、どういう」

「詳しくは言えませんが、徘徊中にふらりと用水路に落ちたにしてはおかしい怪我があるんです。用水路を流された時にあちこち打ったんだとしても、ちょっと妙でして」

 一層神妙になった声に、浮かんだのは訓史だった。まさか、訓史が山から下りてきて襲ったのだろうか。引いていく血の気に、唾を飲んで携帯を握り直す。

「トキさんは、車にはねられて用水路へ落ちた可能性があります。何かしら、心当たりはありませんか」

 予想と違った内容に、汗の滲んだ額を拭う。

「いえ、そんな」

 ものはない、と言い掛けた口が止まった。憎々しげな雅子の言葉は、さっき聞いたばかりのものだ。

「関係あるかどうか分かりませんが、ちょっと待っていただけますか」

 断りを入れ、小走りで再び部屋へ向かう。いやな予感が、また腹の底を掻き始めている。もしそうなら、私はどうすればいいのだろう。

「雅子さん、さっきの中尾さんの話ですけど」

 部屋へ入るや否や尋ねた私を、雅子は訝しげに見上げる。

「その新しい車に乗ってるのを見たの、いつですか」

「和美と販売車で買いもんしとる時だったけえ、お昼前よ。見慣れん車で客かと思ったけど、本人が運転しとった」

 膝の上でおねしょシーツを畳みながら、確かめるように頷いた。

「いつからその車に乗ってたか、分かります?」

「そんなんは知らんわ。でも噂になっとらんかったけえ、最近じゃないんか」

「分かりました。ありがとうございます」

 礼を言って再び廊下へ出たあと、大澤に聞き取りの結果を報告する。

「まあ、いつ乗り換えたのかが分からないので、関係ないかもしれませんが」

 それでも、可能性はないわけではない。昨日の今日で買い替えは無理だろうが、修理に出しての代車ならありうる話だ。ただ、もし本当に中尾が隠蔽を図ったのなら、あまりに浅はかと言うほかない。こんなことをして、気づかれないとでも思ったのだろうか。

「そこはこちらで確かめます。これから人を送りますんで、そちらでは何もしないようにしてください」

「分かりました。でも聞き取った内容は、隠さずにご連絡ください。トキさんは、うちの大事な住人でしたから」

 言葉を硬くした私に、大澤は少し間を置いた。

「分かっています。それと、後藤さんのご遺体はもう少しこちらでお預かりすることになりました。またご連絡いたしますので、ご遺族と葬儀屋へはよろしくお伝えください」

 最後は事務的な連絡で通話を終える。肩で大きく息をして、携帯を腰ポケットに突っ込んだ。

 もし中尾がトキをはねていたとしたら、あそこで手を挙げた地元住民達に動揺が広がるはずだ。連中の邪な結束が、これで少しでも解体できればいいが。

 おいぬさまを恨んでいる勝治に、囲水を治める器はない。かといって、ほかに任せられるような者もいない。今更訓史を喪った痛手を噛み締めつつ、部屋へ戻る。雅子に話せば全世帯にばらまかれてしまうから、今のところは秘密だ。

「あんた、さっきの電話なんだったん」

「井上さんのお母さんですよ。車に鍵をつけたままだったかもしれないって聞いて、ちょっといやな予感がして。あとで確認しときます」

 するりと滑り落ちた嘘に苦笑して、ハルの元へと向かう。

「ハルさん、どうですか。決まりましたか」

 声を掛けながら隣に座ると、ハルは物憂げに私を見て、手元の二枚を少しもたげた。二枚とも、デイサービス先の施設で撮ったものらしい。何人かと一緒に写った、割と最近のものだった。どちらでも、ここからトリミングすれば大丈夫だろう。

「あの子の写真、最近のしかないんよねえ」

 安堵した私に、ハルはぼそりと呟くように言う。

「子供ん頃は誰も、トキを写したろうとせんかったけえ。あの子はずっと、『おいぬさまに嫌われた子』だって言われとった。だけえ、みんなからも嫌われて。私には、なんも変わらん、かわええ妹だったのに」

 掠れた声で力なく語られるトキの育ちに、視線を落とす。今は聞かないふざけた解釈だが、昔はまことしやかに語られていた話だ。はっきりとしないものは、全て見えないものと結び付けられていた。分からないままに存在させておくのを避けたのだろう。不安は、小さな集落では悲劇の種となりやすい。

「あんたはええな、好かれとって」

 ハルは選んだ一枚を差し出しながら、窄んだ赤い目で寂しげに笑った。

「……すみません」

 うまい答えが浮かばず、詫びながら写真をつまむ。一瞬の強い抵抗のあと、写真は私の手に渡る。上げた視線の先でハルは潤ませた瞳を閉じ、しわがれた頬に涙を伝わせた。


 中尾は、「山から下りてきた猪でもはねたのだと思った」らしい。はねたあと慌てて外に出てみたが何もいなかったから家に帰り、翌朝早く車を修理に出すために山を下りていた、のだと。

 ――まあ、ほんとかどうかはこれから調べます。

 大澤は約束どおり内容を伝えたあと、通話を終えた。

 夜で、雨が降りしきる中だったとはいえ、当然ヘッドライトはつけていたはずだ。トキは小柄だが一五〇センチくらいはある。車高低めな中尾の車で、猪と間違うことがあるだろうか。もちろん「わざとはねた」とまでは思わないが……まあそこは、大澤の管轄だ。

「津川さんは、もう戻ってこないの?」

 ねぎを刻みながら尋ねる母に、肉じゃがを混ぜ返す手を止める。

「多分ね。不穏な感じになってきて、ここで生きるのが怖くなったんだと思う。当主になったらもう、逃げられないからね」

 一定間隔で刻まれていくねぎに安堵し、木べらで大きく混ぜ返す。ふわりと立ち上る甘辛い香りを深くまで吸い込むと、ささくれた心が凪いでいくようだった。

「私、あの人好きじゃなかったの。結婚がなくなって、良かったわ」

 安堵を浮かべる横顔と声に、小さく頷いて火を弱める。少なくなっていく煮汁に、軽く鍋をゆすった。

 これでいいのだろう。もう、このまま終わればいい。最後はおいぬさまの怒りで、全ての幕を下ろすのだ。

「私も、これで良かったと思ってる。この先はもう、最後までお母さんと一緒にいたい」

 願いを口にすると、包丁の音がやむ。

「そうね。お母さんもそう思ってる」

 母の答えに満足して、コンロの火を消した。


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