第3話

 ――こんなところにあるの、よく分かりましたね。

 通報に応えて現れた警察官達は、現場まで案内した私に感心した様子で言った。さすがに事実は言えないから偶然だと濁したが、あの時袖を引いてくれたのはおいぬさまだろう。助けられたのは、これで二度目だ。一度目は私が五歳の、「かどわかし」に遭った時だった。

 囲水は昔から拐かしが起きる場所で、当時はほかの場所と同じように「神隠し」と呼ばれていた。大体二十年から三十年に一度、吸い込まれるように子供が消えて、戻ってこない。おいぬさまに気に入られると連れて行かれるのだと、私も家族に聞いていた。

 あの時は祖父と一緒に山へ入って、気づいたら見知らぬ場所にいた。前を歩いていた祖父も山道も消えた目の前に、木々に囲まれた大屋根の家が建っていた。でも幼い私はまだ状況と拐かしとを結びつけることができず、素直に迷子になったのだと思った。

 ――山ん中で迷ったら、じっとしとれ。もし近くに人がおったら、名前と住所を言うて連れて下りてもらえ。

 祖父の教えに従い、私は既に自分の名前と住所が言えるようになっていた。いざ迷子になっても戸惑わなかったのは、訓練の賜物だろう。私はすぐに人の話し声がするその古びた家へ向かい、木戸に手を伸ばした。

 ――その戸を開けてはならん。

 険しい声に驚いて振り向くと、見上げるほどに大きな狼がいた。それがおいぬさまだと気づいた時にはもうその背に乗せられ、どこかへ運ばれていた。

 ――私がいいと言うまで決して目を開けるな。声を出してもならんぞ。

 ふかふかの毛に埋もれながら首にしがみつき、しっかりと目と口を閉じた。無防備な耳には川のせせらぎに交じって何度か私を呼ぶ声が届き、何かが引き止めるように私に触れた。怖くて泣きそうになるのを耐えることしばらく、もういいぞ、と声がした。

 すっかり温もった手を離し、おそるおそる目を開いた。おいぬさまの姿はもうなかったが、代わりに見慣れた我が家があった。途端に涙が溢れ出して、大泣きした。私が姿を消してから、ちょうど一週間が経っていた。その日以来、「神隠し」は「拐かし」へと変わった。

 そのあと、両親は「山の怪に好かれてしまった」私を守るために集落を出て上京した。それから二人が離婚して父に引き取られるまでは、盆正月にも戻って来たことはなかった。


「警察の話だと、ちょっと離れたとこにカメラが落ちてたらしい」

 忙しい一日を終えて施術に訪れた訓史が、シャツを脱ぎながら新たな報告をする。準備の手を止めて振り向くと、山師とは違う滑らかな背があった。戻って来る前は、東京でITエンジニアをしていたらしい。私と同じバツイチで、しかも離婚理由も似ている。私が戻ってきた頃はよく、お互いの愚痴を肴に酒を飲んでいた。

「ほんと、まるで言うこと聞いてくれない人だったね」

 溜め息交じりに答え、向き直る。死人を悪く言いたくはないが、瀬能を始めとした移住者組にはそれなりに積もるものがあった。

 囲水は辺鄙な限界集落で生活も考え方も古臭いから、都会育ちの人間に馬鹿にされがちなのは分かっている。それでも皆、納得して移住したはずだ。決して騙して絡め取ったわけではない。村役場の担当者も町内会長を務める訓史も、後のトラブルを避けるためにネックになりそうな情報は積極的に開示していた。それなのに、彼らはまるで被害者友の会のように団結して「無理だからどうにかしてくれ」「こちらは我慢をしている」と言い募った。おそらく移住して実際に生活をしてみたら予想以上に大変だったのだろうが、その責任を取るのはこちらなのか。

 苦肉の策として訓史が提案した町内会代行案が承認されたのは、二年前だった。代行を利用する世帯は町内会の集まりや一斉清掃などに参加しない、ゴミ当番を引き受けないかわりに月額二千五百円を納める決まりだ。現在、移住組は最初の移住者である千村ちむら夫妻と山師の津川つがわ以外の五世帯が申し込み、委任状を出している。もちろん、瀬能も。

「そんな、守れないほどのことだったのかな」

 毎朝のお勤めには、その日納める幣と熊よけの鈴しか持って行ってはならない決まりだ。携帯はもちろん、カメラなどもってのほかなのに。

 また深々と溜め息をついた私に、背後から腕が絡まった。

「だめだよ、準備してるのに」

 手元から落としかけた鍼の箱を掴み直して、犬のように顔をこすりつける四十四歳に苦笑する。

「やっぱり鍼はやめる。いい匂いすぎて無理だ」

「でも、まだお風呂入ってないし」

「いい、風呂に入ったら匂いが薄くなる」

 解けそうにない腕に諦めて箱を置くと、訓史は私をひょいと抱えて奥座敷へと向かった。

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