第4話

 ――多希子、ほんといい匂いがするよな。子供の頃からだから、香水じゃないんだろうけど。

 焼酎のグラス片手に零したのは、ここへ帰ってきたばかりの頃だ。驚いて腕やら腋やら嗅いでみたが自分自身の匂いなんて分からないし、尚斗なおとには無臭認定されていた。そもそもほかの誰かにも、家族にすら言われたことがない。洗濯洗剤の匂いではないかと言ったが、訓史は頭を横に振った。ではどんな匂いがするのかと尋ねても「花のような桃のような」と首を傾げて唸るだけで、本人にもよく分かっていない。

 それでもその匂いは夕方から夜に掛けて濃くなるらしいから、体臭なのだろう。以前どこかで読んだ、「遺伝子的に相性のいい相手は匂いで分かる」というそれなのかもしれない。ただ、決して結婚できない跡取り同士がいつまでも関係を持っていて良いはずはない。私達は少しでも早く、今度こそ共にここで生きてくれる伴侶を見つけなければならないのだ。

「もう、やめた方がいいんじゃないかな」

 常夜灯にぼんやりと照らされる訓史に手を伸ばすと、汗で湿った頬が受ける。私とは違う彫りの深い端整な顔立ちで、瞬きをしたら風が起きそうなほどまつ毛が密で長い。ギリシャ彫刻のように形の良い鼻が、年相応の脂でぬめっていた。杉ノ囲らしくない顔立ちだが、母親にはよく似ている。彼女は、夫が亡くなってすぐに後を追った。

 ――遺書に『こんな地獄に遺されて絶望しかない』て、書いてあったんだよ。俺のことなんて、忘れてたんだろうな。

「好きな男ができたか」

 恨めしげに訊く声は、その時を思い出させるものだった。あの時は慰める言葉を探せなくて、結局、伸ばされた手を受け入れてしまった。

「そうじゃないよ。でも、訓史さんも」

「俺は、このままでいい」

 遮った予想外の返事に驚いて、体を起こす。熱を手放した背が冷えて、ぶるりと震えた。訓史はすぐに気づいて私を抱き締め、熱を移す。ありがたかったが、ただ視線を合わせたくないだけかもしれない。

「本気で言ってないよね?」

「多希子がほかの男のものになるくらいなら、このままでいい」

 嫉妬めいた願いを重ねたあと、唇は首筋を辿って肩先まで行く。不意に、湿った熱とともに鈍い痛みが走った。最初は匂いを嗅ぐだけだったのが少しずつエスカレートして、今はもう噛まずには終わらない。

「好きだ。食うてしまえたらええのに」

 方言交じりの告白に、何も返せず俯いた。

 最初は多分私も訓史も同じ、喪失の痛みや人恋しさを埋めるために抱き合ったはずだ。後ろ向きなのは分かっていたが、傷を舐め合い、慰め合うために互いが必要だった。おかげで私は随分救われて、今は先のことを前向きに考えられるようになった。でも訓史はまだ、踏み留まっているのだろう。

 もちろん訓史のことは好きだし、大切に思っている。でも私はこの集落をともに守っていく同志として付き合っていきたいのであって、恋人になりたいわけではないのだ。

 細く息を吐いて、温かな胸をそっと押し返す。

「気持ちは嬉しいけど、だめだよ」

「事実婚で子供二人作って、それぞれに継がせればいい」

 口にされた計画は悪いものではないし、杉ノ囲はそれでもいいのだろう。でも、おいぬさまに仕える御手座はそうはいかない。

「御手座には、夫婦別姓じゃできないしきたりがあるの」

 そもそも、婚姻の報告も名字を揃えなければ行えない。嫁または婿が一族入りしたことを伝え、顔を見せて加護を願うためだ。

「時代が変われば家族の形も変わる。信仰を保ちながら、今の時代に合ったやり方を選んでいけばいい」

「それは、そうかもしれないけど」

 一息ついて訓史から離れ、脱ぎ捨てたシャツを羽織る。私だって、意地でも古来のやり方に拘りたいわけではない。毎朝のお勤め当番制に、移住組の不満が集中しているのも分かっている。でも。

「瀬能さん、本当に滑落で死んだんだと思う?」

 尋ねて視線をもたげた先で、訓史は表情を固くした。我が家に伝わる資料には、『皆深く敬い奉るを保つべし、偽りなき信心を保つべし』とある。最初読んだ時は随分強調するものだと思ったが、あれは「そうしなければならない理由」があるからとも受け止められる。祠を動かした時に何も起きなかったのは、その頃は皆が信心深かったからだろう。でも今は、私の「拐かし」さえ子供の作り話だと揶揄される状況だ。瀬能は、自分は無神論者だからと嘲るように笑った。

「私は、しきたりを破った罰が当たったんじゃないかと思ってる」

「多希子」

 突然神妙な声で呼んだ訓史に、薄っぺらい敷布団の上で正座する。事後の男女がほぼ素っ裸でするような話ではないが、致し方ない。

「俺は多希子とおいぬさまの縁が深いのを知ってるから、そう思う気持ちは分かる。でも、外では言うなよ」

「うん、気をつける」

 でも私が気をつけたところで、どうにかなるものなのだろうか。今の集落にかつての信心深さは存在しない。

「今回の一件は、警察の言ったとおり『地面がぬかるんでいる状態に関わらず山登りに適さない靴で登り、カメラを構えて足元に不注意だったために起きた滑落事故』だ。明日の説明会でもそう話す。おいぬさまのことは、袖を引かれたことも黙っててくれ」

 普段は集まりに参加しない住人達も、明日は参加するのだろうか。今日、警察が帰るやいなや私も囲まれて質問攻めに遭ったが、訓史に聞くよう丸投げして何も話していない。たとえ聞かれた体であっても、「若い女」がべらべらと詳らかに喋るのは好ましくない(喋っても喋らなくても文句を言われるが、後者の方がマシだ)。ただでさえ杉ノ囲と御手座は集落をまとめる側の家で、やっかまれることが多い。こんなど田舎の限界集落で上も下もあったものではないが、それは「こちら側」が口にしていいことではないのだ。

「下手に口を出せば、何かあった時にヘイトが向くのはじいさんじゃなくて多希子だ。迷ったら俺に全部丸投げすればいい。自力で解決しようとするな」

 再び伸びた手が、素直に頷けない私の腕を引き寄せて抱き締める。訓史はまだ若いが、集落の長として十分な指導力を発揮していた。だから私もそれに任せて、言われるとおりにしていればいいのだろう。分かってはいる。

「お前になんかあったら、俺は生きていかれんぞ」

 切なげに零して腕に力を込め、熱っぽい息を吐いた。

 私達の関係に、移住組はともかく、じじばば達は気づいているだろう。祖父も多分、気づいて黙ってくれている。頑固で融通の利かないじいさんなのは間違いないが、息子の忘れ形見であり自分のために帰ってきてくれた孫はかわいいのだ。嫌われたくないのがよく分かる。

 それはともかく、皆が暗黙の了解で見逃しているのは「それはそれこれはこれ」で、私達が家の存続にふさわしい相手と再婚すると信じているからだろう。誰も、訓史が本気で私に惚れて事実婚を画策しているなんて思っていない。そんなことは、私より遅くにここを離れて早く戻ってきた訓史の方がよく分かっているはずだ。

 訓史には伝えていないが、関係を持ち始めた頃に山を下りて四十キロ先の産婦人科へ行った。予定外の妊娠を防ぐべく、ピルを処方してもらうためだ。当時は「妊娠したら困る」くらいの軽い気持ちだったが、今はその決断を褒めたい。「妊娠したら困る」のではない、「妊娠してはならない」のだ。既成事実でなし崩しにできるほど今の集落は甘くないし、おいぬさまも寛容ではない。

 何も言えなくなった私を、腕が再び組み敷く。好きだ、と繰り返すほどに帯びる悲痛なものに目を閉じた。

 おいぬさま、どうかこの人をお守りください。

 私はもう一度助けられているから、「次」もなんてわがままな願いは抱かない。二度目があるなら次は、訓史を助けてほしい。訓史と同じではなくても、そう祈れるくらいには私も、訓史が好きだった。

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