第5話

 昨日は事故で納得して帰ったはずの警察が昨日と同じ規模で姿を現したのは、翌朝だった。説明会を終えていない集落は当然のように騒然として、昨日とは違う空気に支配された。山の事故は皆慣れたものだが、事件となれば別だ。

 言いようのない不安と戸惑いが確信に変わったのは、大澤おおさわと名乗る刑事が手帳片手に離れへ訪ねて来た時だ。あれは、事故ではなかったらしい。

「私は二年前に、父の死を切っ掛けに戻ってきました。ここでは鍼灸と整体を行っています」

 父も鍼灸師で、かつてこの離れは父の職場だった。その後集落を出て東京で開院した鍼灸院に、同じく鍼灸師となった私も勤めた。十年ほど一緒に働いたあと、父は長男の責務を果たすべく私に後を任せて集落へ戻って行った。そして、一年足らずで死んだ。

「お一人で、ですか。失礼ですが、ご結婚は」

 最近は避けられがちな問いを真正面からぶつけるのは、刑事だからだろう。

 二人で訪れたうちの若い方は、今頃母屋で祖父の事情聴取をしている。大澤は五十すぎに見える、目つきが悪くて厳つい体格の、腰痛がありそうなごま塩頭の男だ。ここへ入ってきてからずっと、煙草の臭いを漂わせている。

「してましたが、離婚しました。こちらには一人で戻ってきました」

 苦笑で答えた私にメモの手を止め、鋭い視線を向ける。バツイチが、何か悪かったのだろうか。

「少し立ち入ったことですが、離婚の原因をお伺いしても?」

 続いた問いに、え、と小さく驚く。質問の意図が読めず戸惑うが、問診用の丸椅子に腰掛けた大澤は撤回する様子がない。

「彼の不倫……『過去の』不倫が原因です」

 言い直してみたが、実際はもっと複雑だ。浮気されたのは私ではない。私と出会う前に尚斗は家庭のある女性と不倫をして、それを知った相手の夫に自殺されていた。そんな過去を露ほども知らなかった私は、客だった尚斗に口説き落とされ「婿に入るよ」で安易に結婚を決めてしまったのだ。

 尚斗は私と結婚してから悪夢にうなされるようになり、カウンセリングへ通い始めた。私は仕事のストレスだと信じていたが、ある日突然、その所業を告白された。カウンセラー曰く、夢で「返せ」と迫る手は自殺してしまった不倫相手の夫ではなく、自分の罪悪感らしい。離婚は、それほど揉めずに決まった。

「その話を聞いた時にこう、カッとして手を出したとかケンカになったとか、そういうことは」

 その言及にようやく、自分が疑われているのだと察す。冗談じゃない。

「第一発見者だからといって、あんまりでは? せめてなぜ疑われているのか、その根拠を教えてください」

 不満をぶつけた私に大澤は少し間を置いたあと、頷いて内ポケットから一枚の写真を取り出す。

「昨日、カメラ内に残っていた画像を確認したら、こんなものが写ってたんですよ」

 受け取って確かめたその端には、レンズを塞ぐように黒い影が写っていた。手のようにも見えるが……近すぎてピントが合わなかったのかもしれない。

「それが、カメラに残ってた最後の写真なんです。おそらく犯人のものだろうと」

 大澤の説明に、写真から視線を上げる。じゃあ、カメラを構えた瀬能に「誰か」が襲い掛かって滑落させたのか。

「ただ犯行現場と思われる場所はもちろん、そこに至るまでの山道に犯人のものらしき足跡はありません。あなたのもの以外は」

「私は、瀬能さんがお勤めに上がっている時間は家にいて、祖父と朝食をとっていました」

 そのあとは洗濯をして、離れへ移り掃除と施術の準備をしていた。瀬能を追い掛けて山へ登る暇なんてあるわけがない。

「ですが、どうしても気になるんですよ。私もあなたの足跡を辿ってみたんです。でも遺体があそこにあるなんて、分かっていても見づらくて。なぜ、あなたには分かったんですか?」

 要は、それが私を疑った理由か。確かに刑事としては正しい疑問かもしれない。信じる信じないは別として、ひとまず話しておくべきだろう。下手に隠せば余計疑われるだけだ。訓史の顔が思い浮かんだが、致し方ない。

 写真を返しながら確かめた時計はもうすぐ九時半、今日もまた施術の予定が狂ってしまった。この調子で付き合わされたら、今月の収入は激減だ。捜査ついでに、施術を受けて帰ってくれないだろうか。鍼は四十分四千円、整体は五千円だ。見る限り併用した方がいいような体の癖があるし……いや、今は職業病を発揮している時ではない。

 一息ついて視線を向けると、大澤も視線で応える。

「刑事さんは、三十年ほど前にうちの集落で起きた拐かし……ここでは神隠しをそう呼ぶんですが、事件をご存知ですか? 山に入った子供が忽然と消えて、一週間後に戻ってきた事件です」

「私はよく知りませんが、ここへ来る時に若いのがそんな話をしてましたね。昔から神隠しがある土地らしいと」

「はい。直近でその神隠しに遭って戻ってきた子供が、私なんです」

 中途半端な反応を返した大澤は、私の自己開示にも、はあ、と戸惑うような声を漏らした。

「信じられないと思いますが、その時も今回も、この集落に祀られているおいぬさまが助けてくださったんです。五歳の時は集落まで連れて帰ってくださって、今回は袖を引いて遺体の場所を教えてくださいました」

 おいぬさまのご加護を伝えると、渋い表情でメモに何かを書きつける。

「ええと、御手座さんのお宅は、昔から祠を管理している一族だとか。皆さんが『そういう力』を持ってるんですかね。神と交信できる、というか」

「いえ、私のほかには聞いたことありません。でも私も、特殊な能力があるわけではないんです。おいぬさまが、私の分かるところまで下りてきてくださっているだけだと思います」

 父も祖父もおいぬさまには会ったことがないと言っていたし、確かめた書庫の資料にも記録はなかった。でも「おいぬさま」と呼ばれている以上、出会ったのは私だけではないはずだ。祀られ始めた頃には、何度か姿を見せてくださっていたのかもしれない。集落が信仰で満ちていた頃には。

「あなただけ、特別気に入られてるってことですかね」

 畏れを知らぬ物言いに驚き、慌てて頭を横に振る。そんなおこがましいことは、口にするべきではない。あれは、おいぬさまの慈悲だ。

「違います、おいぬさまはただ山の怪に拐かされた幼い私が不憫で助けてくださっただけです。その縁で、今も気に掛けてくださっているのではないでしょうか」

「山の怪、ですか……まあ、いるんでしょうねえ」

 今度は違う向きで驚き、じっと大澤を見つめる。現物信仰の権化のような仕事なのに、見えないものを信じるのか。

「この仕事を続けてたら、それなりに常識の通用しない経験をするもんですよ。それに、あなたは相当信心深いご様子です。神様を利用した嘘なんてつかないでしょう」

 私の胸裏を見抜く苦笑にバツの悪さを感じて、すみません、と小さく詫びる。

「まあそれはそれとして、亡くなった瀬能さんについてお伺いします。彼は三年前に、Iターンでこの集落に移住されたとか」

「はい。集落にある空き家の一つに住んでいただいてました。集落を回って、棚田や家々をよく撮影されてましたね」

 林業の最盛期には五十世帯二百人近く住んでいた集落も、その凋落とともに住人を減らし跡継ぎ達を流出させてきた。戻って来ない彼らに比例して増え続けているのが、空き家だ。

 家は人が住まなければ傷むだけでなく、空き家条例にも引っ掛かってしまう。頭を悩ませた村役場がIターン・Uターン政策を打ち出したのは、二〇一〇年のことだった。

 以来十五年ほどの間に何度か出入りを繰り返して現在は七組、民泊経営の千村夫妻と中尾なかお夫妻、山師の津川、フリーライターの木谷と井上いのうえ、写真家の瀬能、自然育児を実践する本条ほんじょう親子が暮らしている。四月に移住してきたばかりの本条は、夫を東京に残しての思い切った移住だ。三歳の優大ゆうだいを、東京の喧騒から離れ自然の中でおおらかに育てたいらしい。端から見れば「子供まで来てくれて良かったね」だしそのとおりではあるのだが、迎え入れるこちら側、特に訓史と私は、既に曇りのない笑顔で頷けないほどにはくたびれていた。

「誰かと仲が悪かったとか口論していたとか、そういったことは?」

「積極的に人間関係を構築されるタイプではありませんでしたから、ケンカするほど誰かと関わることもなかったのではないでしょうか」

「一人で黙々って感じですか」

「そうですね。芸術家だからか、こだわりの強い方でした。あと、ここのシステムは合理的ではないから従う理由がないと仰って。町内会代行が決定するまでは苦労しました。その後もお勤めにはなかなか納得していただけなくて……正直、大変でした」

「その『お勤め』について詳しく伺っても? 今回の一件は、その最中ということでしたよね?」

 メモにペンを走らせながら窺う視線に頷いて、腰を上げる。玄関脇の戸棚を開け、作り置きした幣を一つ手にして戻った。

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