第6話

 囲水の幣は、三十センチほどの細長い二本の板の先端に四角く折り畳んだ弊紙へいしを挟み、数本の麻紐を結んで垂らしたものだ。

「こちらの新しい幣を毎朝おいぬさまの祠へ捧げ、昨日の感謝を伝えて今日のご加護を祈ります。そして昨日捧げた古い幣を引き取って、下山するんです。足腰の弱い高齢者や大雪で山道が塞がれた時などは登山口の簡易な岩祠で良いとされていますが、そうでない者は山頂の祠へ行かなければなりません。このお勤めは集落にある全ての世帯が参加しなければならないため、当番制で行っているんです」

「なるほど。そうしたら今は……十九世帯ですから、まあ二十日に一度は回ってきてたわけですね。一ヶ月に一回ないし二回、朝早くあの山を登らなくてはならない。そして瀬能さんは、それを合理的ではないと疎んでいたと」

 大澤の確認に頷いて、溜め息をつく。くどいようだが、ネックになるのが分かっていたからお試し期間に体験してもらったのだ。

 御手座の山は高くないものの、崖や岩場があって決して登りやすくはない。山の手入れに入った林業従事者が滑落死したこともあるし、昨年は熊に襲われて一人死んだ。

 麓に簡易祠が置かれたのは数年前だが、それも御老体がお勤め中に落ちる事故が相次いだからだ。だからその危険性を、装備の重要性と合わせて繰り返し伝えた。その上で本人も納得して判を押し、居を移したはずだった。

 でも別に、瀬能だけの話ではない。施術に来る度に木谷はあれこれ文句を言うし、井上は腹痛だの熱が出ただの理由をつけてサボろうとする。町内会代行を申し込んでいない千村のところも、行事参加やお勤めを丸投げする夫と妻の間で諍いが絶えない。

「はい。移住された方々の中には無神論者だと仰る方が多くて、瀬能さんもその一人でした。もちろん信仰の強制はしませんが、畏敬の念すら持っていただけなかったのは残念でなりません。カメラを持って登る、まして撮影なんて禁忌でしかないのに。私には、とても考えられません」

 責める気持ちより、やり切れない気持ちの方が大きい。別に、地元民と同じ温度で拝んでほしかったわけではない。ど田舎の祠だからと蔑まず、ほかの神社仏閣に対するものと同じ敬意を抱いてほしかっただけだ。項垂れて溜め息をつく耳に、小さく唸る声がした。

「撮影、ですか」

「あの、何か」

 驚いて顔を上げると、大澤は渋い表情で四角い顎をさすりながら私を見た。太い指先に収まる爪が黄色っぽいのは、ヤニだろうか。

「実は、データの中で数枚真っ黒で何も写っていないものがあったんですよ。山の景色が数枚あって、黒いのが数枚あって、また景色があって最後にあの手の写真でした」

「祠を写してしまったのかもしれません。やっぱり、お怒りになったんですね」

「『やっぱり』ですか」

 再び項垂れた私の嘆きを、大澤は流さず食い下がる。ああ、しまった。でもここまで来たら、全部話した方が早く終わるのではないだろうか。住民達を、犯人探しのストレスに長く晒したくはない。

「これは、他言無用でお願いしますね。カメラが落ちていたと聞いた時、私は禁忌を犯した罰が当たったと思ったんです」

 断りを入れて打ち明けたが、大澤は驚くでもなく頷いた。

「もし瀬能さんがうっかりカメラを持って入ってしまっただけなら、おいぬさまもお許しになったと思います。でも禁忌と分かっていて持ち込み祠を撮影したのなら、多分」

「つまりあなたは、瀬能さんは『おいぬさまに殺された』と」

 少し表現はきついが、確かにそう思っている。これは「おいぬさまからの警告ではないか」とも。

「多分、ですが……おいぬさまは現在の集落の状態をよく思っていらっしゃらないのではないかと。無神論者が神域を荒らすくらいなら、信心深い元の住民達とともに滅んだ方が良かったとお考えなのかもと……ああ、すみません。これは本当にだめでした、聞かなかったことにしてください」

 だめだ、喋りすぎた。自分でも分かる。思わず俯いて顔を覆ってしまった私に、大澤は初めて笑った。

「大丈夫ですよ、口は堅いので。うちの連中にはもちろん、こちらの方々にも話しません」

 手の内から少し顔を覗かせた私に、父を思い出す穏やかな眼差しを返す。驚いて、ちゃんと顔を上げた。

「丁寧に答えてくださって、ありがとうございました。お仕事もあるのに、お時間いただいてすみません」

 大澤はメモをポケットに突っ込みながら腰を上げる。丸椅子が小さく軋んだ。いえ、と答えて私も立ち上がり、見送りへ向かう。

「実は昨日、聞きたいことがあれば全部自分が答えるからあなたには聞かないでほしい、と町内会長さんに頼まれまして」

 予想外の打ち明け話に、歩調が少し乱れた。訓史がそんなことを言ったのか。

「できないことですから断りましたし、写真の件が分かった時にはあなたに後ろ暗いことがあるためかと疑いました。まあ犯人を庇うならもっと賢いやり方をしますから、ほかに理由があるのだろうとも思いましたが」

 大澤は草色のスリッパを脱ぎ、履き慣れた様子の靴に足をねじ込む。黒い革靴だが、スニーカーのようだから山も大丈夫だろう。

「あなたはもう少し、おいぬさまではなく御自身を守ることを考えられた方がいいですね」

 その足元に安堵していた私に、大澤は苦笑で忠告を与える。

「では、ほかの住民の方々にもお伺いして回ります。ご協力、ありがとうございました」

 来た時よりは幾分か和らいだ表情で挨拶をしたあと、出て行った。

 気配が遠ざかるのを待って大きな溜め息をつき、再びデスクへ戻る。椅子へ崩れるように腰を落として、背もたれに身を預けた。横目で確かめた時計は九時四十五分、体感的には一時間近く取り調べを受けていた気分だ。十時からは昨日の振替で木谷だが、まず遅れるし起きられなければ来ないだろう。でも今は、その怠惰加減がありがたかった。

 少し体を起こして冷めたほうじ茶を啜り、疲れを宥める。

「おいぬさまではなく、か」

 ぼそりと呟き、枯茶色の水面を揺らした。

 でも、それは無理な話だろう。御手座はその語源のとおり、おいぬさまへの幣として存在する一族だ。うちに残る資料にも、我らの命はおいぬさまを守るためにあると記されている。まあ現在は血筋の末端までその覚悟が行き届くような時代ではないが、本家だけは別だ。祖父が覚悟をしたように父も覚悟をして、そして私も。

 ――もう囲水には帰って来んでええぞ。お前は、お前の人生を生きなさい。

 囲水へ戻る日、父は見送る私に神妙な表情で告げた。驚いた私の口答えは許さず、「ええな」と重ねて戻って行った。

 祖父が言うには、父は暇さえあれば書庫にこもって調べものをしていたらしい。父が本気で私に継がせまいとしていたのなら、おいぬさまは気づいていたはずだ。

 父は二年前の一月、施術中に突然苦しみ出したらしい。最寄りの消防署は村に一つだけ、囲水からは十五キロ離れている。救急車が急いだところで、峠の細道は降り続ける雪ですぐに埋もれてしまう。その時は訓史がトラックに父を乗せて山を下り、下で救急車に引き継いでくれた。でも病院へ辿り着く前に、父は救急車の中で息を引き取った。

 死因は急性の心筋梗塞だったが、父は動脈硬化はおろか高血圧でも肥満でもなかった。

 一息ついてほうじ茶を飲み干し、九時五十五分を差す時計に腰を上げる。施術着に着替えるために、奥座敷へ向かった。

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