第7話
木谷は予定より十五分遅れて、寝起き姿で訪れた。パジャマにサンダル、ノーブラだ。住民達の家がある下手からここまでは五百メートルほど、薄っぺらい布の下で弾む豊かな胸はさぞ住民達と警察官達の視線を惹きつけただろう。
「ちょっと油断すると、すーぐがっちがちになるんだよねえ」
「ずっとパソコンに向かっていると、猫背になりやすいですからね」
うつ伏せで施術台に横たわる、木谷の肉厚な肩に鍼を打つ。木谷の主訴は猫背と肩こり、概ね豊かな胸とパソコン仕事の弊害だ。体の前面に約一キロの重しがついていれば、そうなるのは致し方ない。ダイエットしたら楽になるって分かってんだけどね、と言うものの運動嫌いで、当然お勤めにも愚痴しか言わない。それに加えて早起きも苦手だから、木谷が当番の時には私が起こしに行って付き添って登っている。
木谷は三年前、瀬能より一ヶ月後に移住してきた三十八歳の女性だ。独身主義者で、アレルギー悪化から逃れるためと「面白そうだから」で移住を決めた。フリーライターの仕事には詳しくないが、今はネット記事を書き続けているらしい。同じくフリーライターの井上も、似たようなことを言っていた。
「そういえば、さっき外に警察がうろうろしてたけど何しに来たの?」
「瀬能さんの件ですよ。事故と事件の両面から捜査することになったみたいで、皆さんにお話を聞いて回ってらっしゃるんです」
答えた私に、木谷は振り向くように顔を起こす。打ちそうになっていた鍼を慌てて戻し、視線を合わせた。
「マジで? やった、取材しなきゃ」
寝起きでむくんだ瞼の奥で、瞳がぎらついたのが分かる。人の死も捜査も、娯楽のためにあるものではないだろう。飯の種なのは理解しているが、あまり気持ちのいい反応ではなかった。
「多希子ちゃんとこは、もう来た?」
「ええ、先程。多分、木谷さんのところにも向かわれると思いますよ」
再びうつ伏せに戻った木谷の肩をアルコール綿でさっと拭い、鍼を打つ。鍼灸にもさまざまな流派があるが、私は専門学校で学んだあと父に師事した。父の鍼はあまり本数を打たないやり方で、私もそれを引き継いでいる。木谷は大体、二十本ほどだ。
「井上くんとこにはもう行ったかなあ。あいつも絶対記事にするから、できれば被らないとこに売り込みたいんだけど。抜け駆けされないように共同戦線張らなきゃ」
フリーライター同士、ネタの奪い合いはあることなのだろう。ケンカされるよりは、仲良く取材して記事を書いてくれる方が助かる。
「それで、何を聞かれた?」
「よくある質問でしたよ。どんな方でしたか、とか。鍼を打ち終わりましたから、電気流しますね」
最後の鍼を打ち終えて体を起こし、一息つく。鍼の空容器を捨て、治療器のワゴンを引き寄せた。
「そっか。あ、でも捜査になったら面倒だな。瀬能さんとこって、警察が家探ししてるんだよね」
「そうだと思いますけど。何か?」
「んー、私瀬能さんと寝てたからさ。服とか下着とか置きっぱなしにしてんのよ。そこら辺が見つかったら面倒だなって」
電極コードを手にしたところで、固まった。寝ていたのか。まあ私も他人のことを言えた義理ではないが、そんな関係になっていたとは知らなかった。
「付き合ってたんですか?」
「違うよお、そんなの面倒くさいもん。後腐れのない関係がいいの。井上くんともたまに寝てるよ。津川くんとも一回だけね」
移住組の独身男性が全滅している。そうなると、気になるのは地元組との関わりだ。
「あの……地元住民とも?」
「ううん、だって町内会長以外キモいおっさんとじじいしかいないじゃん。でも町内会長は、明らかに私みたいな女が嫌いだしさあ。あの人はあれだね、女の胸に埋もれて甘えたいMっけのあるタイプじゃないんだよ。きれいな顔して結構荒っぽいところがあるし、あれは多分ドSだね」
「そうですか」
苦笑しながら改めて電極コードをつまみ直し、鍼を挟んでいく。ずっと臭いを嗅いでるし噛むから獣っぽいなと思っていたが、「そういうこと」だったのか。
私は尚斗と訓史しか知らないが、二人を比較するのは生々しくてあまり考えたことはない。これが三人目だったら、比較の罪悪感も分散するのだろうか。
訓史に初めて触れられた時は、既に離婚している身なのに妙な背徳感に浸された。慰め合うために触れたはずなのに事後にあったのはなんとも言えない寂しさで、シャワーを浴びながらこっそり泣いた。私はもう「妻ではなくなった」のだと、ようやく実感した夜だった。
「でもさ、多希子ちゃんは再婚しなきゃなんでしょ?」
電極コードを繋ぎ終えた私に、木谷は眠たげな声で尋ねる。血行が良くなって眠くなったのだろう。
「そうですね。婿養子を探して跡継ぎを産まないと、家が途絶えますから」
一応、東京にいた頃に卵子凍結はした。尚斗が淡白な性質で、付き合っている頃から回数が少なかったためだ。だから不倫の過去を聞いた時には驚いたものの、今はなんとなく分かる。多分、私を抱く度に彼女を思い出すから避けていたのだ。
尚斗は、私を愛して結婚したわけではなかった。私を美人だと言い張ったのも簡単に婿養子を受け入れたのも全ては私を愛していたからではなく、自分の人生を投げ出していたからだ。
――ごめんな、多希子。全部俺が悪かったんだ。
最初から最後まで、私はあの人の自暴自棄に付き合わされただけだった。
「大変だよねえ、古い家の跡取りなんて。自由になりたいって思わないの?」
「私はあまり、自由すぎるのは得意じゃないんです。何をしてもいいって言われると何もできなくなってしまって。それに、おいぬさまが好きなので」
電気を流しますね、と言い足してつまみをひねっていく。
「昔神隠しに遭って、おいぬさまに助けられたんでしょ?」
「はい。その時の御恩を、できる限りお返ししたいんです」
どことなく嘲笑めいたものを感じたが、流して答える。移住組に信じてもらおうとは思っていない。
「おいぬさまって、ほんとに犬なの?」
「狼でしたね、すごく大きな。五歳の私が見上げるほどで、銀色の毛並みがふさふさで、背中はふかふかでした」
必死にしがみつきながらも、頬に触れる毛の柔らかさは感じていた。
「会ったことがあるのは一回だけ?」
「はい。ただおいぬさまに限らず神様は、基本的に姿をお見せになることはありません。あの時は山の怪が悪さをしたから、見逃せなくて助けてくださったんだと思います」
もしかしたら今回も、瀬能を襲ったのは山の怪かもしれない。カメラを向けられるのが不快なのは、おいぬさまに限ったことではないだろう。そう考えると、少しだけ胸が楽になった。
「じゃあ少し時間を置きますから、休んでてください。寝てもいいですよ。何かあったら呼んでくださいね」
「はーい」
眠たげに答えた木谷を残して、カルテを手にカーテンをくぐる。左右に首を回してから、デスクへ向かった。
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