第8話
東にある山の麓に建てられた寄合所は、立派な大屋根が一際目を引く集落最大の建造物だ。中も贅沢な造りで、欄間の見事な彫りや繊細な雪見障子の細工、板張りの床の間など金を掛けているのがひと目で分かる。
その大広間で開催された今夜の臨時町内会には、かつてないほどの住民が集まった。とはいえ全員揃ったとしても三十五人、五十畳の大広間には物足りない人数だろう。一列当たり七、八人並んだところですっかすかだ。かつては結婚式や宴会が景気よく開かれていたらしいが、今や葬式とリハビリ体操教室でくらいしか出番がない。
この現状を見る度に「もうちょっと節約しとけば」と思わないでもないが、致し方ない。彼らは多分、杉がある限り隆盛が続くと信じていたのだろう。伐期を迎えるまでに三十五年掛かることを忘れて。
斜陽の始まりは一九七〇年代、木材の需要に杉の成長が追いつけなくなったことが原因だった。ただこれは囲水や我が県だけの話ではなく、日本の林業業界を覆う問題でもあった。需要に応えられない国産材に、廉価で応えられる輸入材が取って代わっていったのだ。そして春夏秋は林業、冬は炭焼きで十分に潤っていた囲水の生活モデルは、一九八〇年代初頭には崩壊した。
「瀬能さんのご遺体は、警察からそのまま東京へと搬送されます。明日か明後日にはご遺族が遺品の確認に来られますが、お手を煩わせることのないよう注意してください。会話は挨拶とお悔やみ程度に留めて長話は避け、みやげなどは持って行かないようお願いします。家の方は退去に立ち会っていただいたあとハウスクリーニングを入れて、再びうちの不動産管理部門で管理します」
上座で一枚板の座卓に着いた訓史は、メモを見ることなく流れるように説明を続ける。社長らしからぬ作業着だが、六年も着続ければそれなりに熟れて見えるものだ。
訓史が父親の後を継いで社長になったのは三十八歳の時、当時は「それなり」の一言では片付けられないほどの軋轢が生じた。囲水にある本社に限っても山師は六十や七十の曲者揃いだし、父親の下で働いていた杉ノ囲の分家連中も一筋縄ではいかないじじばばばかりだ。不動産管理部長の
あれも提案時には地元組の反発が凄まじかったが、蓋を開けてみれば移住組だけでなく昭和一桁生まれにも感謝された。一方で約二倍の業務をこなすことになった参加世帯の不公平感は、役員にして年度末に報酬を支払うことで解消した。昨年は一世帯当たり二万五千円ほどだったが、悪くない反応だった。
「以上でひととおりの説明となります。何か質問はありますか」
尋ねた訓史に、手を上げたのは予想どおりの
「昨日は事故て言っとったのに警察が来たんは、事件かもしれんってことだろ? あいつは誰かに『殺された』て言うことか」
死者への弔意もなく荒い声で投げた上田に、一番後ろで小さく溜め息をつく。縄張り意識が強く、移住政策にも「見知らぬ人間ではなく出て行った子供らが戻ってくるようにしろ」と反対した。上田の息子達は皆県外で世帯を持ったが、それを全て集落のせいにしているのだ。でも数年前から盆正月でも息子達の姿を見なくなったのは、集落に病院や学校がないからでも、林業が斜陽産業となって長いからでもない。ただもうそれを悟る思慮深さはもちろん、他人の意見を受け入れる柔軟さも失われている。この集落で一番多い御老体のタイプだ。老いはやがて行く道だが、頑なに自分だけを正義とする姿を見るにつけて早い終わりを願ってしまう。
「先程も説明したとおり、何かしら不明な点があったとはお伺いしています。ですが、殺害だとは断定されていませんでした。警察からはっきりと言われるまでは」
「こん中に殺した奴がおるんだろ!」
冷静な訓史の声を遮って、上田は荒い声で叩きつけるように返す。白髪勝ちの頭が前のめりになっていた。怖いのかとようやく分かって驚いたが、上田の反応こそが住民の多くを占める感情だったらしく、途端に周りがぼそぼそと言葉を交わし始めた。……そうか。私が怖くないのは、「人が殺した」と思っていないからだ。
「殺人事件だと警察が断定すればその可能性は出てきますが、現時点では時期尚早です。警察さえ全貌を掴めていない状況で騒ぎ、犯人探しを始めるのは最も避けたい反応です。冷静に事実のみを受け止めるよう、お願いします」
一定の調子で返す訓史の安定感に安堵し、収まらない低語にまた溜め息をつく。多希子、と隣の祖父が小さく袖を引いた。慌てて居住まいを正し、表情を作り直す。気を抜くとすぐ、素が出てしまう。
――実は昨日、聞きたいことがあれば全部自分が答えるからあなたには聞かないでほしいと町内会長さんに頼まれまして。
訓史がそう頼んだのは、ただ私を庇ったわけではないだろう。
「もし事件だとしたら、根本的な理由はなんだとお考えですか?」
続いてペンを挟んだ手を挙げたのは、井上だった。驚いたが、住民達の隙間から窺った井上は木谷と並んで膝にノートを広げている。こんなことまで取材するのか。
「考えていません。先程申し上げたように、こちらが事件として考えるのは時期尚早ですので」
「瀬能さんが生前、お勤めに関して主張されていたことがありますよね?」
聞き逃がせない単語に、一つ結びされた井上の長髪から訓史へと視線を移す。訓史は私を一瞥したあと、すぐ井上へと視線を戻した。何も言うなよ、と一瞬の視線が窘めるように語っていた。
「無神論者であることを理由に、お勤めを行う必要がないと仰っていた件ですか」
「それもありますが、妥協案として話してたことです。全員が麓の祠に参ればいいと」
切り出された案は、確かに瀬能が移住組を中心に訴えて回っていたものだ。移住組にはおそらく支持されていたのだろうが、受け入れるわけにはいかない。
「俺も同じ意見ですよ。同じ山にあり山頂で参っても麓で参ってもいいんなら、全員麓の祠でいいんじゃないんですかね。問題があるんなら、参りやすいように頂上の祠を麓に下ろせばいい」
これまでは裏で「祠を下ろそうとしとるらしいぞ」と囁かれているだけだったのに、自らそれを公表してしまうとは馬鹿としか言いようがない。向こう見ずは強さとは違うものだ。これ以上、何をどう話せば納得してもらえるのだろう。答えに迷い井上の後ろ頭を見据えた時、隣で祖父が手を挙げた。
「それは、私から瀬能さんに伝えて解決した話だ。今老いて山頂に登れず麓の祠に参っている者達は、決して贔屓されているわけじゃない。皆、老いて登れなくなるまでに何十年と山頂の祠に参り続けた歴史がある。そうやっておいぬさまとの信頼関係を長年築いてきたからこそ、今は麓の祠でのお勤めでも許されているんだ。でも移住者の方々はそうではなかろう。それならば、まずは信頼関係を築けるよう敬意を持って参っていただきたい」
時折くぐもった咳を交えながらも口調は毅然としたもので、御手座の立場と矜持を改めて明確にした。さすがの貫禄だった。
「でも実際のところ、お勤め面倒くさいな、と思いながら登ってるのは移住組だけじゃないでしょ」
こちらに体を向けていた井上が、私を挑発するようにぐるりと周りを見回す。彫りの浅い小作りな顔が、ふてぶてしい表情を浮かべていた。
「なんてこと言うんですか!」
「多希子」
まんまと挑発に乗ってしまった私を窘めたのは、祖父ではなく訓史だった。
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