第2話
祠の参道入り口を兼ねた登山口はうちの母屋裏にあり、脇には簡易的な岩祠が置かれている。台風や大雪などで山に入れない日や頂上まで行けない御老体達は、ここへお参りすればいい。ただ天候に問題のない日や身体機能に問題のない者達は、頂上の祠まで行くのがしきたりだ。お勤めは当番制で、集落全ての世帯が順番に行っている。その取りまとめと祠の管理を代々引き受けているのが我が一族、御手座の本家だ。だから今日のように何かあった時には、責任を持って対処しなければならない。
「瀬能さーん、聞こえますかー」
呼びながら、歪に埋め込まれた木の階段を上っていく。まだ緑濃い下草を掻き分けると、ところどころに瀬能のものらしき足跡が残されていた。先の尖った、ろくにグリップも利かなそうなそれは、全て上向きのものだ。こんな日に、革靴で登ったのか。
「瀬能さーん」
再び声を出し、左右に生い茂る木々の間にも目を凝らす。皆には視認性を高めるために派手な色の服を着ていくよう頼み、こちらでも準備をしている。でも、素直に着てくれる移住者は少ない。写真家の瀬能も、グレーと黒しか着ないと決めていた。その信条は、命より大切なものだったのか。
一息ついて確かめた腕時計は九時半すぎ、予想どおり雅子と和美の施術が潰れてしまった。二人ともうちの分家筋だから事情はよく知っているが、八十二と七十六になっても文句と愚痴だけは達者だ。特に和美の方は、分家も末端の末端で自分は御手座の血を引いていないにも関わらず、やたらと私に「本家のあるべき姿」を説いてくる。理由は簡単で、私に息子の
自然と寄ってしまう眉間を伸ばしながら登っていると、ポケットで携帯が鳴る。祖父からの朗報を期待して取り出したが、
「おはよう。朝から大変だな。見つかりそうか?」
聞き慣れた険のない声が、労るように状況を尋ねる。訓史は集落で一番大きな
「おはよう。今のとこ手掛かりは登りの足跡だけ。呼んでも反応ないし、もうちょっと登らないといけないみたい」
「そうか。登りきっても見つからなかったら、うちの連中も入れるから言ってくれ」
見つからなければ遭難扱いで、警察に連絡して本格的な捜索が始まる。かつては私も、同じように探された。山師達は時々、捜索隊に姿を変える。
「ありがとう、頼むね」
「多希子も気をつけろよ」
気遣う声に再び礼を返し、通話を終える。携帯をポケットへ突っ込んで、額の汗を拭った。
「おいぬさま、どうか瀬能さんを無事にお返しください」
呟いたあと、また登り始める。
頂上の祠に祀られているのは、集落の守り神である「おいぬさま」だ。詳細な歴史は資料が火災で消失していて分からないが、今は本来の地主神に山神の性格も併せ持っている。
おいぬさまは、最初からこの山に祀られていたわけではなかった。
一級河川の上流域に位置するこの集落はかつて、「囲水」の由来となった大きな中州を抱えていた。しかしその中州があるせいで、集中豪雨や雪解けなどで増水する度に氾濫を繰り返していたらしい。それでも長らく崩されなかったのは、中洲においぬさまの祠があったためだ。ただ江戸末期に行われた治水工事で遂に中洲を掘削することになり、おいぬさまの祠も移された。その際、集落を見渡せる場所が良いとのことで我が家の裏山頂上に祀られたと言われている。そして私は一度だけ、おいぬさまに会ったことがある。
不意にウインドブレーカーの袖を引かれて、足を止めた。しかし隣には瀬能の姿どころか、生き物の気配すらない。伸びた木の枝に引っ掛かったとも考えられるが、多分そうではないだろう。目を凝らして確かめた山側の斜面に、草木に紛れて黒っぽい塊が見えた気がした。
小さく震え始めた手をさすりあわせて大きく息を吐き、生い茂る草木を掻き分けて斜面を上っていく。滑落しないよう太めの枝を選んで手繰りながら、ゆっくりと塊に近づいた。
最初に見えたのは尖った靴底で、そして。
視界を遮っていた枝を掻き分けるとそこに、山藤の蔓に首を引っ掛けて絶命したらしい瀬能の姿があった。眉根を寄せ目を見開いた表情は鬼気迫るもので、死の苦しさを容易く想像させる。まだ、五十手前だった。早すぎる死に震える手でしのび手を打ったあと、斜面の上を確かめた。
服の乱れ方と草のなぎ倒された形跡を見るに、足を踏み外して上の道から滑落したのだろう。アドバイスを受け入れていれば、防げた事故だったかもしれない。
およそ山歩きには適さない「都会的な」服装にやりきれない息を吐いたあと、携帯を取り出して訓史と祖父に連絡をした。
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