みてぐらの娘

魚崎 依知子

第1話

 午前中の施術は雅子まさこ和美かずみが九時半、木谷きたにが十一時。雅子と和美は雅子の家で一緒に受け、木谷は来院の予定だ。十分は遅刻してくるだろうから、昼食は簡単なものにしよう。午後は二件だが、十三時から開始だ。

 予約表を確認しつつ、横目で古びた柱に掛かる時計を確かめる。もう九時近いのに、下山の報告が届かない。胸を占めるいやな予感に、ファイルを置いて離れを出た。

 昨夜の雨に洗われたばかりの庭石や緑はまだ色濃く、冷ややかな空気は湿っている。吸い込めば、すぐに土と杉の香りで満たされた。これがここ、囲水いみの匂いだ。九月に入って約二週間、三方を山に囲まれたこの集落でも短い秋が始まっている。もう少しすれば、枯れ草の香りも混じり始めるだろう。

 辿り着いた母屋の戸を引き、二人家族には広すぎる玄関に足を踏み入れる。迎えた大きな衝立は百年ほど前のもので、緑豊かな山々と集落を横切るように流れる囲水川、そして特徴ある家屋が描かれていた。

 かつて林業で栄えた集落の建造物はどれも、質の良い杉を惜しみなく使った堅牢な造りだ。特に庇の長い大屋根とそれを支える裏側の構造は、囲水独自のものらしい。

 それもあって現在は伝統的建造物保存地区に選定され、どこもかしこも「景観維持」を言い渡されている。山守の傍ら林業に携わってきた我が家も例外ではなく、車庫のトタン張り替えにまで村役場が口を出してきた。選定のおかげで僅かな観光収益が得られるようになりはしたものの、地元住民の六割を後期高齢者が占める限界集落でバリアフリー用リフォームにまで制約があるのは、窮屈で仕方ない。

「おじいちゃん、瀬能せのうさんから連絡あった?」

 人に磨かれた上がり框に腰を下ろし、仄暗い衝立の奥に声を掛ける。人の気配が立ち、少ししてがたがたと障子を引く音がした。

「いんや、なんもねえぞ」

 衝立の向こうから顔を覗かせた祖父は、枯れた手を衝立の縁に滑らせながら出てくる。ゆっくりと床に腰を下ろし、一息ついた。

 私の施術で杖なしでも歩けるようになって、要介護1だった介護度は要支援2へ下がった。とはいえ、御年九十二歳の御老体だ。頭の方はまだしゃんとしているものの、鍼での機能回復には限界がある。体を動かさなければいずれ頭も働かなくなるから、こうしてこまめに動いてもらっていた。できればデイケアにも行ってほしいが、そちらは頑なに拒まれている。

「もうすぐ九時になるのに、まだぬさが届かないの」

 言葉にすると、いやな感触がはっきりとした形を持つ。胸に湧く不安が、収まることはない。

 山頂に祠を有す御手座みてぐらの山は標高約三八〇メートル、集落の北方に位置するうちの裏山だ。住民は毎朝、祠へお参りをして幣を収めるお勤めをこなす。古くから続く囲水のしきたりだ。

「瀬能さん、こんなに時間掛かったことないのに」

 これまでは、二時間も掛からずお勤めを終えていた人だ。それが今日は、三時間近く経つのに下山の報告がない。

「なんぞあったかもしれんな」

 ところどころ頭皮の透ける白髪頭を撫で上げて、祖父は溜め息交じりに零す。皺だらけの顔に散らばる無数のシミは、山師時代の名残だろう。かつて身にまとっていた筋肉も今は萎んで、「小さなおじいさん」になってしまった。

「私、ちょっと山に入ってくるよ。悪いけど、雅子さんに電話して今日は無理かもって言っといて」

「分かった。お前も気ぃつけえよ」

 刻むように頷きながら私を見る目は窄み、黒々としていた瞳もくすんでいる。二年前、その瞳がとめどなく涙を零すところを見た。

 ――なんでお前まで、わしより先に逝くんか。

 十七年前に祖母が逝き、二年前には父が逝った。六十歳でUターンした翌年の、早すぎる死だった。

「じゃあ、行ってくるね」

 何かあったら、の言葉は飲んで腰を上げ、再び離れへ戻る。登山靴に履き替え蛍光イエローのウインドブレーカーを羽織った時、ふと壁の鏡に映る自分に気づいた。

 先月三十三になったばかりの、地味な女だ。中肉中背、華のない造作に髪はひっつめの一つ結びで、施術の邪魔になるメイクもネイルも胸もない。それでも美人だと言い張った人と四年前に結婚したが、翌年離婚した。

 ――ごめんな、多希子たきこ。全部俺が悪かったんだ。

 あの時、「そんなことないよ、一緒にやり直そう」と言えたら良かったのか。胸に浮かぶいつもの問いを押し戻し、熊鈴を腰に引っ掛けて山へ向かった。

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