第10話

「お前は、はよ帰れ」

 祖父の声に頷いて、腰を上げる。訓史は既に囲まれたし、私もこのままだと同じ目に遭ってしまう。引き受けてくれた祖父に後を託して、腰を上げた。

 寄って来るじじばば達を「祖父に聞いて」と受け流し、玄関を目指す。大きく開いた玄関戸の向こうから滑り込む雨の匂いに、少しだけ息が深くなった。ここの雨の匂いは必然的に山の匂いが混じり込む。清涼感のある杉と、苔と土の匂いだ。ゆっくりと吸い込んだあと、大容量の靴箱から自分の靴を引き抜く。声を掛ける住人達に応えながら靴を履き、傘立てから傘を手にした。普段は御老体を送って帰るが、今日は帰らせてもらおう。一抹の罪悪感を振り切って、光の疎らな外へと踏み出した……つもりだった。

「ちょっと、多希子!」

 Tシャツの裾をむんずと掴んだしかめっ面のばあさんは、分家の雅子だった。あそこが痛いここが痛いと訴えて私の施術を受け続けているが、実際のところは八十二とは思えないほどの健康体だ。認知症の気配もない。

「あの木谷って娘、今日は下着つけずにうろついとったんか」

 ほぼ白髪となった髪を丁寧に撫でつけて、きっちりとピンで止めている。ブラウスのボタンもいつものように一番上まで閉じられた、優等生の装いだ。そのこだわりよろしく、いろいろと緩い木谷を目の敵にしている。例の所業が知られた暁には、集落追放を言い出しかねない。でも移住者として迎え入れた以上は一応、本人の意志はともかくも花嫁候補として期待されている人材だ。未婚どころか、既婚男性陣の中でも人気が高い。それも、雅子は気に食わないのかもしれない。

「施術に遅れそうで、起きてすぐ慌てて来られたんですよ」

「まあほんに自堕落だわ、ちゃんと注意したんか」

「いや、その辺は私が口を出すことでもないですし」

 地元の男達に手を出し始めたら注意するつもりだが、それまでは放置でいい気がする。

 移住組の男性陣は女慣れしていて、今のところ誰も面倒なことにはなっていない。でも地元組は不慣れすぎて、一度でも関係を持ったら「俺の女」と勘違いしてしまいそうな奴ばかりだ。「俺の女」と思う男が二人いれば、必然的に争いが発生してしまう。

「何を言うとるんよ、若いもんが言わんでどうするん。あたしらが黙っとるんは、あんたらに任せとるけえよ。あんたは御手座の跡継ぎなんだけえ、あたしらの顔に泥塗らんようにしゃんとしてくれんと!」

 まくしたてるように早口で文句を連ねる雅子の背後を、素知らぬ顔で木谷が通り過ぎる。思わず苦笑しそうになるが、逃げてくれた方がありがたいのは確かだ。捕まってしまったら、目の前で説教せざるを得なくなる。

「そうですね、がんばります。ああ、和美さんが呼んでますよ」

 木谷を無事逃がすために、奥を指差し雅子の意識を逸らす。その先で、似たようなしかめっ面をした和美が手招きしていた。分家同士の仲が良いのはありがたいが、共通の敵を前に結託しているだけだろう。私を呼んでいるような気はするものの、ここは任せて切り抜けたい。

「じゃあ、私はこれで。おつかれさまでした」

 指先が離れたのを見計らって挨拶を終え、暗がりへと急ぎながら傘を開く。傘を叩く雨音にようやくほっとした瞬間、強引に肩を抱かれてよろめいた。

「傘持っとるんか、入れてくれや。ついでに、五万でええけえ金貸してくれ」

 荒けた声がして、獣臭さが鼻を掠める。宗吾だった。相変わらずの態度に突き放そうとするが、相手は筋骨隆々の山師だ。軽々と木に登れる敏捷さはないが腕っぷしは強く、秋祭りで行われる丸太の早切りはここ十数年負けたことがないらしい。

「離して。あと、あんたに貸す金はない」

 一回り以上年上だろうが、こいつだけは敬語不要だ。

「そう言うなや、ちいと負けがこんどってな。倍にして返したるけえ」

 薄明かりの中でも感じるギラつきに眉を顰め、体を押し返して早足で先を急ぐ。

 限界集落の数少ない娯楽は酒と麻雀、男達はたまに山を下りて街の風俗にも遊びに行く。宗吾はその全てに熱心で、特に賭け麻雀には執着していた。ただ「強い」とは聞かない腕だから、ちゃくちゃくと借金が膨らんでいる。訓史もいくらか貸しているようだが、返済は期待できないだろう。

「いい加減にして。うちには博打に使うような金はないの!」

 遠慮なく掴む腕を振り払うと雨ざらしになったが、もうどうでもいい。ほかの住民達が笑って行き過ぎるだけで誰も助けようとしないのは、いつものことだ。腹立たしさに、股間を蹴り上げて逃げる策が思い浮かぶ。

「すみません、多希子さん」

 背後から聞こえた声に修羅場を中断して振り向くと、すまなげな表情で傘を差す津川が立っていた。反対の手が後ろへ回っていて、ああ、と気づく。

「お取り込み中のところ悪いんですけど、ちょっと腰をみてもらえませんか。ぎっくりになりそうな感じで」

 予想どおりの要請に、宗吾もようやく手を離した。

「なんじゃ、またか」

「すみません、中腰の作業が続くとどうも。ちゃんと動けるようにしてもらいますんで」

 津川も宗吾も、同じ杉ノ囲林業で働く山師だ。津川は宗吾の班ではないが、作業は一緒に行うからお互いよく知っているだろう。山師を志し二十六歳で移住し早五年、津川は集落内で最も評判のいい移住者だった。

「おう、ならしっかり治してもらえ。ケツ触ったら引っ叩かれるけえ、気いつけえよ。俺は揉みすぎてもう出禁だけえな!」

 恥ずべき愚行を口にして下品に笑い、宗吾は雨の中を去って行く。私にとっては天敵だが、あっさり離れたところを見ると津川をかわいがってはいるらしい。まあ別に、おかしなことではない。林業の死傷率がほかの産業に比べてダントツで高いのは昔からだ。死と隣り合わせの職場で命を繋ぐには結束し、助け合うしかない。山を下りればそれなりに争いも起きるが、基本的に山師達の団結ぶりは見事なものだった。

「すみません、見苦しいものをお見せして」

「いや、助けられて良かったです。地元の人は、声掛けづらいみたいですし」

 数少ない街灯では読み切れないが、声は安堵しているように聞こえる。歩き出した津川に、隣を行く。

「もしかして、それで声掛けてくださったんですか」

「腰も割と痛いですけど、どうも見て見ぬ振りには慣れなくて。こんな理由なら俺が口出しても角は立たないでしょうし」

 山師としてすっかり馴染んだように見えるのは外野にいるからで、本人はまだいやな思いをしているのかもしれない。じじばばなら、本人を前にして「昔はよそものの力なんか借りんでもやっていけとったのに」くらい言うだろう。

「いろいろと面倒くさい場所で、本当に申し訳ないです。五年も経てばもう呆れて諦めてると思いますけど」

 苦笑して、北へ向かう古びた橋に足を踏み入れる。集落内に橋は三ヶ所、北へ向かう橋は車が通れない細さで手すりもない。袂に街灯はあるものの夜間は不安要素が多いから、御老体達は皆もう少し下手にあるメインの大橋を利用していた。特に今日は、雨が降っているから視界が悪い。

「まあ、もう慣れましたね。人間関係が密すぎて最初は戸惑いましたけど、距離の取り方も分かってきたし。御老体はとりあえず文句を言いたいだけなんだな、とか」

「そうですね。じじばばは言ったらそれですっきりしてしまって、言ったことすら忘れてることもよくありますから。『言いましたよ』って言うと『言っとらん!』って怒り出すので、聞かなくていいんです」

 年を取れば大人しくなるとか達観するとか、そんなクラスアップはよそでしか起こらない。ここでは皆、年を取るほど頑固で怒りっぽく狭量になっていく。うちの集落で一番諍いが絶えないのは、実は昭和一桁生まれだ。晴れているからとグランドゴルフをすればケンカし、雨だからと麻雀すればケンカをする。全員、暇なのだ。

 祖父もこの前麻雀に出掛けて、怒りながら帰ってきた。よその九十五歳が卑怯なことをしたくせに認めなかったらしい。多かれ少なかれ認知機能に衰えのある集団に勝負事をさせる問題は感じるが、そこまで面倒はみられない。

「結構、子供みたいなケンカしてますよね。年を取ったら子供に返るっていうの、本当だなと思います」

「知恵がついてる分、性質が悪いですけどね。いずれ行く道と知りつつも自分はああならないようにと願うんですけど……忘れてしまうのが老いですしね」

 見た目が衰えていくのは構わないし、大して絶望もない。体が不自由になっての介護も、致し方ないと覚悟はしている。でも、頭や心が変わっていってしまうのが怖い。私も信仰に固執して、ヒステリックに怒鳴り散らす日が来るかもしれない。そう考えると、胸の辺りがすうっと冷えていく。

「どうですかね。多希子さんは、そのまんま年取っていきそうな感じがしますけど。八十すぎても、『いつかああなりそうで怖い』って言ってそう」

 津川の指摘に、ああ、と笑う。確かにその可能性もある。

「それなら害がなくていいんですけどね」

 少し和らいだ不安に感謝して橋を渡り終え、傘の前をもたげた。街灯が照らす雨の向こうに、うちへ上がる石段がぼんやりと見え始める。その奥には闇の中に沈む我が家と、おいぬさまの山。

 御手座の山は北だけで、東西は杉ノ囲が所有者だ。東の山には囲水川が通過しているが、杉ノ囲は山を手放さず管理を県や村に託す形を取った。

「社長のとこは会社とくっついてるから広いのは分かるんですけど、多希子さんのとこも広いですよね」

 二十段の石段を上がりきり、門をくぐる。といっても囲水の門には門扉がなく、敷地は門柱と板塀で囲う格好だ。豪雪地帯で冬は一メートル近く積もるから、門扉をつけたら出られなくなってしまう。

「大家族が当たり前の頃に作った家で、更に増築されてますからね。昔は二十数人住んでたこともあったらしいですから」

 以前は長男一家だけでなく次男や三男一家も住んでいたり、嫁に行かなかった娘や離縁して戻ってきた娘とその子供がいたりした。元はL字型だった母屋は増築で着々と部屋を増やし、今は逆コの字型の24Kだ。鍼灸院として使っている前庭の離れは、その出戻り娘と子供のために建ててやったものらしい。

「盆正月に東京の実家へ帰ると、毎回『こんな狭いとこ住んでたんだな』と思うんですよね。ここで住まわせてもらってる家の三分の一くらいだし、庭もほぼないし。すぐ近くに隣の家があるから窓も開けられない。あと、びっくりするほど電車が息苦しくて」

「人口密度が違いますもんね。うちの住民、一両で全員乗れますから」

 囲水の住民は移住組を合わせても、小学校一クラス分しかいない。

「こっちへ戻ってくる度にほっとして、やっぱり俺に都会は合わなかったんだなと実感してます。どこに住んだって大変なことはありますけど、ここには俺が潰れそうになったものはありませんから。一日体使って働いて、虫の声を聴きながら広い風呂にゆったり浸かって、冷えたビール飲んで、ただっぴろい部屋のど真ん中に布団敷いて寝る。俺はこういう暮らしで満たされるタイプだったみたいです」

「良かったです。やっぱり向き不向きがありますからね。合わないと思いながら暮らしてもらうのは、こちらもつらいですから」

 辿り着いた離れの鍵を開け、電気を点けて津川を通す。失礼します、と続いた津川は、Tシャツにジャージ下のこざっぱりとした姿だった。風呂に入って汗を流してから、参加していたのだろう。洗い晒しのツーブロックは清潔感があって、険のない顔立ちによく似合っている。下がり眉と黒々とした丸い目のせいか、なんとなく犬っぽくも見えた。でもおいぬさまとは違う、愛嬌のあるタイプだ。

「腰以外は大丈夫ですか」

 待合室のソファを勧め、受付の書類棚からカルテを取り出す。津川広武ひろむ、三十一歳。山師の平均年齢にはまだまだ遠い。

「そうですね。肩や腕も疲れてますけど、痛いほどではないので」

「分かりました。じゃあ腰をみてから全身をほぐしますね。準備しますので、少しお待ちください」

 津川は鍼が怖いらしく、いつも整体のみの施術だ。これまでの記録を確認したあと、整体用施術室の準備に入った。

 鍼灸院はどこでも開業できるわけではなく、施術所として認められるための条件がある。広さや換気、待合室の仕様など求められる基準でクリアしなければならない。そして囲水を管轄する保健所の規定では、鍼灸と同じ部屋で整体やカイロプラクティックなどの施術ができない。父は鍼灸しかしていなかったから整体用の部屋はなかったものの、幸いこの離れには十分すぎるほどの座敷があった。

 マットのシーツを変えて間接照明を灯し、リラックスを促す音楽を流して準備を整える。空気清浄機の稼働を確かめて自分の支度を終え、津川を呼んだ。

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