第38話

 自らの意思を放棄したように見える連中に比べると、千村は異様なほどに元気だった。静まり返った群れの中で一人だけ血色良く、肌艶もいい。勝治を追求する声も朗々として、張りがあった。ただ身振り手振りを加えた今日の論調は、これまでとまるで違っていた。

「我々移住者組は、それほど大きなものを願ったわけではありません。平和に、穏やかに暮らしたいのは、元からここに住まわれていた方と同じです。ただどうしても『長年都会で暮らしてきた私達』には馴染めないことがあったから、改善をお願いしてきただけです」

 どことなく瀬能を思い出す論調で、千村は切々と語ってみせる。瀬能は何かと自分達を弱者の立場に起きたがり、「それを支援するのは当たり前である」としてこちらから多くの譲歩を引き出した。一方の千村はこの集落によくいる高圧的でプライドの高い頑固爺だから、これまでは勝治と真っ向勝負を繰り返していたのだ。なぜ急にやり方を変えたのか、ただひたすらに気味悪い。勝治も眉を顰めて、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「世の中では、できる人ができない人に力を貸したり手を差し伸べたりして、社会を回しています。我々移住組は、この地域の中では弱者の立場でした。我々は、あなた達に手を差し伸べていただかなければ、ここで生きていくことはできなかったのです。でも、私は気づいたんです。悪いのは私達ではないと。私達はただ虐げられ、我慢させられ、従わされた……」

 突然飛躍した話と濁って聞こえた声が、ぞわりと肌を撫でる。驚いて、一番後ろから千村の様子を窺った。なんだ、今のは。

「あんたが、全部をめちゃくちゃにした。私達の生活を壊した。返してくれ。返せ。今すぐに返せ」

 恨みを含んだような重い声に、思わず後ずさった。千村の声ではないが、聞き覚えはある。

 ――多希子ぉ。

 間違いない。何度か聞いた、あの声だ。でも、どうして。

 千村はゆらりと腰を上げて、視線を揺らしながらも動かない勝治を指差す。勝治には何が見えているのか、見開いた目と表情が恐怖に歪んでいた。

「お前のせいだ。お前が全部奪った。お前のせいだ」

 ゆっくり上座へ向かって行く千村に従うように、住民達も次々と腰を上げて上座へ向かっていく。上田も景子も佐吉も、麻美も本条と優大まで。私の前に背中を丸くして座っていたハルも、お前のせえ、と呟くように言ってゆらりと腰を上げた。

 住民達の背で少しずつ見えなくなっていく勝治が、その隙間から私に縋るような視線を向けた。でも私も体が震えて、うまく動かない。喉が干上がって、声も出なかった。

 住民達の壁は少しずつ上座に攻め入って、やがて勝治を覆い尽くす。嗄れた悲鳴が響いた時、脳裏に母の姿が浮かんだ。

 ……まだ、死ねない。

 流れ落ちる汗を震える手のひらで拭い、力が戻らない手脚を必死に動かして四つん這いのまま外へ向かう。背後からは、これまで聞いたことのないような卑屈な笑い声が次々と聞こえ始める。玄関から転げ落ちるようにしてたたきへ下り、痛みを感じない体をどうにか起こして駆け出した。

 一体何が、何が起きたんだ。

 胸はどくどくと早鐘を打ち、汗が滝のように滴り落ちていく。もつれそうな足に泣きそうになりながら、街灯の光を視界に滲ませてひたすらに走った。

 慌ただしく玄関戸を引き、荒い息を吐きながら慌ただしく居間へ向かう。でも、震える手でどうにか障子を引いた居間に、祖父の姿はなかった。……どこだ。

「お、じい、ちゃん」

 荒い息の間に呼んでみるが、掠れた細い声ではどうにもならない。一度大きく深呼吸をして顔中の汗を拭い、廊下の奥を見る。祖霊舎の部屋から漏れる灯りに気づいて、また駆け出した。

 開いていた障子の間から飛び込んですぐ、異様な光景が目に入る。背を向けて奥にある金庫のダイヤルをがちゃがちゃと回している母と、その手前にうつ伏せに倒れたまま動かない祖父。

 どくり、と胸を強く打つ音が聞こえた。さっきまで火照っていた体の熱が、一気に冷えていくのが分かった。

「……お母さん、何してるの」

 思ったよりまともに発せた言葉に、母はようやく手を止めて振り向く。

「あんたがここのシール剥がしてるから、番号分かんなくなったじゃない! 何やってんの馬鹿! 役立たず!」

 劈くような声で私を罵って、睨みつける。憎しみを湛える歪んだ表情は、ここへ戻ってきて初めて見る醜悪なものだった。……何が、起きているのか。

 半ば呆然としながら、ゆっくりと奥へ進む。一瞥した祖父の首には、電源コードが巻き付けられたままだった。思わず、ぎゅっと目を瞑る。

「邪魔をするからこうなるの! だからあんたも邪魔しないで、早く番号を教えなさい!」

 きっと祖父は、「分かっていた」のだろう。だから戻ると言ったのだ。でも、殺されるとは思っていなかったはずだ。薄く開いた視界に、動かなくなった祖父の姿が揺れる。私の……私のせいで、死んだ。

「どうして? 私と、一緒に暮らしたくて、戻って」

「そんなわけないでしょ。あんたみたいな化け物と、誰が一緒に暮らしたいと思う?」

 遮って返された否定に、短く吸った息が変な音を立てた。

 ――あの子は、「そういうもの」に気に入られてしまったんでしょ? もう「そういう子になってしまった」んでしょ? あなたはあんな不気味な場所で生まれ育ったから大丈夫なんだろうけど、私は違うの!

 蘇る声と場面に、胸の何処かが冷えて固く小さくなっていくのが分かる。結局は、あの時から「何も変わっていなかった」のか。

「私にはね、あんたよりずっと大事な息子がいるの。現役で医学部に行った、出来のいい息子がね。でも夫が死んで、十分な金をかけてやれなくなった。かわいそうでしょ。だからあんたの金を全部もらって、あの子にあげることにしたの」

 まるでそれがあるべき道であるかのように、母は続ける。私へ向けられた視線に滲むものは愛情でも優しさでもなかった。でも私はこれを知っている。これは。

「でもあんたはなかなか死なないし、ここは相変わらず気持ち悪いし。野蛮で低俗で、ほんと最悪。あんな気味の悪い神様を大事に祀ってるし!」

 侮蔑だ。

 さっきまでは冷え切っていた血が、一気に逆流するように体を巡る。私を騙し、祖父を殺し、そして囲水とおいぬさまを蔑んだ。許せるわけがない。

「え、何よ」

 遠慮なく向かっていく私に危機を察したのか、母は傍らに置いていたボストンバックを掴むと躊躇いなく私に叩きつけた。

「金を出しなさいよ! 金を!」

 金切り声で叫びながら、母は繰り返し私をバッグで殴り続ける。大きく振り上げた隙を見計らって喉を掴み金庫に叩きつけると、ぎゃ、と潰れたような声を上げた。

「あんたを信じた私が、馬鹿だった」

 睨みつけながら、首を絞める手に力を込めていく。怯えた色を浮かべる母はもう、ただの小汚いおばさんにしか見えなかった。祖父の言うことが、正しかったのに。

「お父さんの調べてたもの、どうしたの? 見つけてたんでしょ」

 過去に戻れるのなら、母を疑うことなく尋ねた私を殴りたい。もっとちゃんと見ていれば、気づけていたはずだ。

「……燃やした。あんなもの、別に」

 一旦緩めた手に再び力を込めると、母は苦しげに私の手に爪を立てた。でも、今は少しも痛みを感じ取れない。まるで麻痺してしまったようだった。

「何が書いてあったの」

「おいぬさまは御手座の神で、本当は、御手座の人間は、拐かされることはないって。でもあんたはなんかあって、印がついてるから、このままだと山の怪に喰われて死ぬって」

 母は苦しげな息の間に言葉を挟みながら、涙を流し始めた。それでも少しの憐憫も湧かず、洟を啜る音は汚かった。再び叩きつけるようにして首を絞めると、母は短く呻く。

「それで、私が山の怪に喰われるのを待つことにしたんだ。資料を燃やして、対策されないようにして」

 私は夫も子供もいないから、死ねば第二順位の母に相続される。だから、津川との結婚もあれほど渋ったのか。私といたかったわけではなく、全ては。

 やりきれない腹立たしさに、胸倉を掴み直して引き寄せる。母は短く悲鳴を上げて顔を庇うように両手で壁を作った。奥歯を噛み締めて拳を固く握った時、不意に玄関でけたたましい音がする。

 はっとして力を緩めた瞬間、母は思い切り私を突き飛ばして逃げ出した。

「お母さん、だめ! そっちは!」

 よろめいた体を起こしながら思わず止めるが、母はもう、廊下へ出てしまっていた。どうせ被害者の顔で、助けを求めるつもりなのだろうが。少しして聞こえた悲鳴の、二度目はなかった。

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