第39話

 逃げなくては。

 肩で大きく息をしながら、急いで隣の座敷に続く襖を開ける。座敷の中を抜け、裏庭から山へと逃げるしかない。ようやく存在を思い出した携帯を引っ張り出しながら最後の襖を開けた時、目の前に黒い影が立ちはだかって足を止めた。

「多希子ぉ……」

 見覚えのある図体は宗吾のものだが、この掠れた声は違う。思い出したくもない、あの時の声だ。もう二度と、捕まるわけにはいかない。

「宗吾、これ見て」

 呼ぶのと同時に携帯のライトを浴びせると、宗吾は怯む。計画ではその隙を突いてうまく逃げるつもりだったが、次には突き飛ばされて畳の上に転がっていた。

 すぐさま乗ってきた宗吾の重さを突き放せず、叩きつけた両手もすぐに押さえつけられる。

「多希子……多希子ぉぉ……」

 薄闇の中で近づく顔が、あの声で繰り返し名前を呼ぶ。

 私が望む最期は、訓史に喰われて終わる最期だ。宗吾にやる肉は一欠片もない。

「離して! どいてよ!」

 びくともしない枷からそれでも逃れようと体をよじった時、どこかから遠吠えが聞こえた。

 おいぬさまだ。

 見上げると、宗吾は体を起こし裏山の方を見ていた。少し緩んだ拘束に最後の力を振り絞って重い体を蹴り、どうにか逃れて裏庭へ下りる。

「おいぬさま、助けて。おいぬさま!」

 おいぬさまを呼びながら、躊躇わず裏山へ入った。木々を掻き分けて、どこかにいるおいぬさまを探す。

「おいぬさま、どこで」

「多希子さん」

 ふと背後から聞こえた声が、遮って私を呼ぶ。その声にはもちろん、聞き覚えがあった。ゆっくりと振り向くと、そこにはいつか見た大屋根の家。そして、その前に立つ津川がいた。

「多希子さん、待ってましたよ」

 思わず後ずさった私を、津川は以前と変わらぬ声で呼ぶ。犬のように人懐こい笑みを浮かべて、私へと手を伸ばした。

「どうして、逃げるんですか。俺のところに来てくれたんですよね。多希子さん」

 それでも、以前とは同じではない。こちらへ歩む姿は、陽炎のように揺れておぼつかなかった。逃げたいのに足は打ちつけられたように動かず、泣きそうになる。気づけば声も出なくなって、心の中で繰り返しおいぬさまを呼んだ。

「逃げないでください。一緒にいましょうよ、多希子さん。ここでずっと、一緒に、暮らしましょう」

 ゆらゆらと私に近づく津川の背後で、ゆっくりとあの家の扉が開いていく。真っ暗な暗がりから伸びた腕が何本も、私をあの声で呼びながら手招きをした。

「みんなで、暮らしましょう。一緒にいたら、寂しくないですよ」

 半分ほど透けた残像のような手が、また私へと伸ばされる。近づくほどに津川の爛々とした目は開かれ、口は裂けるように口角が上がっていく。

「俺と、ずっと一緒にいましょう」

 間近まで迫った顔に、ごくりと息を呑んだ。透けた指先が頬に触れると、じり、と焼けるような熱が走る。背けることもできない顔に望まぬ終わりを悟った時、誰かが後ろから腕を掴んで引いた。途端、金縛りが解けたかのように体が動き始める。

「多希子、こっちだ」

 馴染みのある声に振り向くと、訓史だった。

「おいぬさまのところまで連れて行く。振り向くなよ」

 腕を引かれるままに、訓史のあとについて山の中を走る。あの頃とは違うはずだが、背後に迫る気配や私を呼ぶ声は、昔を思い出すものだった。

「訓史さん」

「多希子が狙われたのは、俺のせいだ。本当は俺が供物になるはずだったのに、そうならなかったから」

 訓史は振り向くことなく、時折周りを振り払いながら話し始める。手はしっかりと握り締められているのに、まるで熱を感じない。

「どうして」

「印が、つかなかったんだ。俺がおいぬさまの……オオイミノヌサノカミの子供だから」

 それは、初めて聞く話と名前だ。オオイミノヌサノカミ……『大囲水幣神』だろうか。でも、と思考を巡らせそうになった時、また背後から私を呼ぶ声がする。慌てて、速度を上げた。

「それが、おいぬさまのほんとの名前?」

「ああ。でも多希子の言うおいぬさまとは違う。多希子の傍にいるおいぬさまは狼の姿をした、御手座の山の神だ。囲水の土地神はオオイミノヌサノカミ、中洲を壊した治水事業のあとに生まれた神だ」

 ふと何かに気づいたらしい訓史は足を止め、私を茂みに引き込んで抱き締める。すぐに、茂みの向こうで何かを引きずって歩くような音が聞こえ始めた。ごくりと唾を飲み、息を潜める。

 現れたのは三メートル近くはありそうな図体の、粗末な着物を着た「何か」だった。顔から無数に生えているのは腕か、よく見れば男や女のものに交じって子供の腕もある。

「あれが家の形をして多希子を呼んでいたオオイミノヌサノカミ、祟り神だ。元は、中洲に住んでいた人間達だったらしい」

 耳元で小さくささやく訓史に、驚いて視線をやる。朧げに見えた訓史の顔は、特にやつれたようでもない。折れたはずの首も、おかしな角度にはなっていなかった。

「それは、どういう」

「……ああ、良い香りがする……」

 私の問いに遠くから続いたのは、陶酔したような声だった。訓史は再び私の手を掴むと、そのまま森の奥へと走り出す。背後からはまた、私を呼ぶ声が聞こえ始めた。

「……返せ……返せぇ……多希子は……私の、もの……」

 少しずつ近くなる声に、不意に過去の記憶が呼び起こされる。

 ――ずっと「返せ」って何かが言ってるんだ。手がたくさん見えて。

 結婚以来、尚斗が悩まされ続けてカウンセリングに駆け込んだ、例の悪夢だ。あれは尚斗の罪悪感などではなく、「これ」だったのではないだろうか。

 鬱蒼とした森を抜けたところへ出るとすぐ、訓史は私を向こうへと突き飛ばす。よろめきながら辿り着いた場所には見慣れた祠があったが、満月に近い月明かりでもこれほど見えることはない。ここはまだ、私のよく知る世界ではないのだろう。

 多希子、と呼ぶ声に振り向くと、訓史はさっきより離れた場所にいた。

 目で分かるほど肩で荒い息を繰り返しているのは、ずっと走り続けていたからだけではないだろう。私を見る見開かれた目が今はギラついて、まるで獲物を見るようだった。

「多希子、愛してる……喰いたく……喰いたいんだ、喰いたあてたまらん」

 訓史のものだった声は、やがてよく知るあの声に飲まれて消えてしまう。訓史さん、と呼んだ次にはもう、その顔面を突き破るようにして二本の腕が生えてうねった。確かにそれは恐ろしい姿ではあったが、予想していたような怖さはない。これが望んだ結末だからだろう。覚悟はできていた。

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