第40話

「よく耐えて、ここまで連れてきた」

 突然聞こえた声に驚いて隣を見ると、おいぬさまがいた。あの頃より育った分少し近づいた感じはあるが、それでもやはりおいぬさまは大きく、見上げる位置に頭があった。

「おいぬさま、私は」

「決して多希子を喰わせぬと、あれと約束したのだ。ああなっては、終わらせてやるのが慈悲だ」

 おいぬさまは落ち着いた声で返し、襲い掛かってきた訓史の頭を一息に食いちぎる。一瞬の惨劇のあと、頭を失った体はつんのめるようにして倒れ込む。少しの間何かを求めるように動いて、止んだ。

 短く吸った息を長く吐き、訓史の傍で腰を落とす。温度のない手を取り土を払ったあと、握り締めた。これでようやく、終えられたのか。

「ごめんね、訓史さん。ずっと助けてもらうばかりだった」

 その愛情に応えられていれば、今とは違う未来になっていたのだろうか。胸に湧く詫びを伝えて、安らかな眠りを祈った。

 手をそっと下ろして戻ると、おいぬさまは訓史の頭を食べ終えたところだった。

「これでもう、再生できぬ。魂は無事に土へ還った」

 穏やかな声の報告に、たまらなくなって抱きつく。埋もれるような毛の感触も、温かさも、あの頃のままだった。懐かしさと入り混じるこれまでにない感覚に、何かが爆発しそうになって毛を握り締める。じわりと、涙が滲んだ。

「ずっと、会いたかったんです。私、ずっと」

「知っている。お前は本当に……仕方のない娘だ」

 おいぬさまは優しい声で言うと、私を撫でるように鼻先をこすりつけた。

「この山の神であった私は、かつてここでお前の先祖に助けられたことがあった。心根の善い男で、我々は良き友として時を過ごした。私はその死に際に、男の一族に末代まで加護を与えることを約束した。代わりに男は、一族を私に仕えさせると約束したのだ。その時より、氏を『御手座』としてな」

 語られ始めた歴史を、温かい熱に包まれながら聞く。洟を啜り、ようやく震えの消えた体で大きく息をした。

「やがて人が集い、『囲水』ができあがった。疫病や飢饉で何度となく死に瀕したこともあるが、私はお前達の一族だけでなくほかの民にあっても、救える命はできる限り掬い上げた。いつの世にも私を口さがなく言う者はいるが、気にせず守り続けた。その甲斐あって、集落は江戸の末期に最高の繁栄を迎えた。だが」

 溜め息を零すおいぬさまに、豊かな毛並みから頭を起こす。

「昔は、囲水川の中央に中洲があった。ある一族の土地で、少ない時で十人ほど、多い時で二十数人が住んでいた。かつて山だった名残で周囲より高く、幾度とない氾濫にも被害を受けたことがなかった。それゆえ治水工事を許さず、頑なに中洲を離れようとしなかった。また氾濫の際に助けを求めた者らを受け入れることすら、拒んだのだ。その土地を選んだ者が悪いと言ってな」

 中洲に住民がいたのは、我が家にあった資料どおりだ。でも資料では、治水工事のために川向こうへと移り住んだとあった。その際においぬさまの祠も移したのだと。

「憎しみを募らせたほかの住民達は計画を練り、大きな氾濫となりそうな時を見計らって一族に声を掛け、高台へと呼んだ。そして一族が川を渡っている時に、橋を落としたのだ。多くはあえなく濁流に飲まれ、渡り切っていた者達は次々に突き落とされた。老若男女を問わず、皆流されて死んだ。乳飲み子までだ。それで怨念が生まれぬわけがない。ほどなくして、集落の幼子が数人連れて行かれてしまった」

 その光景を想像すると、ぞっとする。もちろんその行為に至るにはそれだけの理由があったのだろうが、結果として大きな怨念を生み出すことになったのは想像に固くない。

「そこで住民達は、その一族の魂に『オオイミノヌサノカミ』と名付け、神として祀ることにしたのだ。イミの字は、物忌みの『忌』だ。己らの罪が明らかにならぬよう、集落の名と同じ音を使い私と同じ呼び方ができるようにした。そしてこの山頂に、初めて祠を作った。残された集落の民による祈りと私の力で、どうにか鎮めようとな」

 新たな資料に書き残された史実も火災で過去の資料が燃えたという話も、全て作られたものだったのだろう。私はおろか祖父さえ、神の正しい名前を知らなかった。いずれ誰も真実を知らなくなる世が来ることを見越して、歴史を改竄したのだ。そうやって、自分達の罪を「なかったこと」にした。

「しかし時代は移りゆく。今の集落は住民が減り、かつての信仰も失われた。純なる祈りが弱まるほどに私は力を失い、あれは力を取り戻す。お前達が山の怪と呼んでいたものこそが、大忌幣神の本来の姿だ」

 皆深く敬い奉るを保つべし、偽りなき信心を保つべし。

 あれは、大忌幣神を鎮めるために必要だから残された言葉だったのか。

「祠を下ろされ手綱が切れてからは、最早私の力で抑えられるものではなくなってしまった。皆がおかしくなった始まりは人心の脆さにあったが、あれはそこを緒として全てを恨みで呑みこんだ。私は、お前と当代を守るだけで精一杯だった。その当代は、己は良いからお前だけは生かしてくれと最期まで私に祈っていたがな」

 おいぬさまは頭を起こしてどこかを眺め、私を咥えて自分の後ろへやる。やがてずるずると、さっきも聞いた音が聞こえ始めた。

「あれにとってはこれこそが本懐だったのであろうが、血を引いただけで手を下したわけではない子孫の命をこれほど多く散らしたことは、許すに罷りならぬ。もうここで、断たねばならん」

「でも」

 おいぬさまの力では抑えきれないから、こうなったのではないのか。

「祈れ、多希子。私を強くするのは、変わらぬお前の思いだけだ」

 おいぬさまは振り向き、凛々しい目を少しだけ細めた。頷いて一歩引き、いつものように拙い祈りを胸に抱く。

 向こうに現れた大忌幣神は相変わらず顔から何本もの手を伸ばしていた異様な姿で、その全ての手に住民達の首をぶら下げていた。勝治のほかにも雅子や和美、佐吉や上田、ハル……麻美や本条、そして優大の小さな頭もあった。

 粗末な着物の袖から伸びた異様に細長い腕が、何かをぶつけるようにこちらへ投げる。おいぬさまに弾かれて転がったのは、母の頭だった。眉を顰めて目を見開く苦悶の表情に、私が追い掛けていた面影はない。

 ――私にはね、あんたよりずっと大事な息子がいるの。

 掻き消された憐憫に苦笑して、向こうへと蹴り転がした。

「多希子ぉ……多希子を寄越せぇ……喰うてええ、匂いがするんは、わしのぉ」

 たくさんの首を揺らしながら、大忌幣神はまたずるずると体を引きずり私へと近づく。

「多希子は喰わせぬと言ったはずだ」

「邪魔を……するな、約束……約束だろう」

 立ちはだかるおいぬさまに荒れた声で返し、長い腕を伸ばしておいぬさまに掴み掛かった。おいぬさまは毛を掴まれながらも立ち上がる。二本脚で立てば、おいぬさまの上背は大忌幣神を超えた。

「先に約束を破り禁を犯したのは、お前だ」

「約束……だろう!」

 野太い声が響き渡ると、住民達の頭を手放した無数の手が、おいぬさまの首めがけて勢いよく伸びる。おいぬさまは大忌幣神の頭を噛もうとするも、首を絞める腕に突き放されて苦しげに呻いた。いくつかの手が、容赦なくおいぬさまの豊かな毛をむしり取る。

「おいぬさま!」

 予想より悲痛に響いた声に、おいぬさまがこちらを一瞥した。しつこく絡まる腕の一本をどうにか噛み千切ったが、まだ腕は大量に残っている。あるものは耳を掴み、あるものは目を潰そうとし、またあるものはヒゲを握り絞めて離さない。

 大忌幣神を切り裂かんと繰り出されたおいぬさまの前足は、本体の長い手に掴まれて動けなくなっていた。大忌幣神が身を乗り出すと、おいぬさまは苦しげに後ずさる。

 ……力が、祈りが足りないのだ。

 私達の、私のせいで負けてしまう。でも、それだけはだめだ。おいぬさまを死なせるわけにはいかない。おいぬさまだけは、絶対に。どくりと胸が一つ鳴った。

「おいぬさまを離して! 私を食べればいいんでしょ」

 駆け寄った私に、大忌幣神はこちらを向く。おいぬさまの前足を手放し、夥しい血に染まった袖を払って私へと手を伸ばした。かざすように広げられた手のひらは、私の頭を覆って余りある大きさだ。握られたら、ひとたまりもないだろう。

 でも、これでいい。おいぬさまへの恩が返せるのなら、構わない。どうか、おいぬさまだけは。

「多希子、離れよ!」

 鋭く呼ぶ声にはっとして顔を上げると、こちらへ倒れてくる体が見えた。慌てて逃げ出すのと同時に、崩れ落ちた大忌幣神が地面を揺らす。遠ざかってから振り向くと、土煙の中で二柱の神が激しく取っ組み合っているのが見えた。時折舞う血しぶきはどちらのものか、ここからでは分からない。

 どうか……どうか、無事でありますように。

 助けてもらったあの日から、おいぬさまはずっと私の心の中にいた。ほかの誰かではだめなのだ。私は、おいぬさまでなければ。

「私は、おいぬさまでなければだめなんです!」

 叫ぶように告げた時、ひときわ派手な血しぶきとともに断末魔の悲鳴が辺りに響き渡った。

 しん、と静まり返った場に、土煙を扇いで目を凝らす。終わったのだろうか。じっとしていられず駆け出し、土煙の中へと向かった。

 無事を祈っているが、無事でないなら私もこのまま喰われてしまえばいい。もう、生きている意味はないのだ。

 大きな影がゆらりと起き上がると、血と何かの異様な臭いがした。ようやく見えた姿に、涙が溢れる。もう何も考えられなくなって、抱きついて泣きじゃくる。血まみれだろうが臭かろうが、もうどうでもよかった。 

「難儀な娘だ。人の男に惚れれば良いものを」

 おいぬさまは穏やかな声で言ったあと、初めてべろりと私の顔を舐めた。

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