第41話(最終話)

二、


「まさか、戻って来られるとは思いませんでした」

 座卓の向かいで、大澤は汗を拭いたあと勧めた麦茶を呷るように飲む。お代わりの催促はなかったが、ひとまず茶托を引き寄せてもう一度満たした。

「東京も、暮らしやすくていい場所なんですけどね。便利ですし、なんでもあるし。人が冷たいなんてこともありません」

 重くなってきた腹を支えつつ振り向いて、扇風機の角度を調整する。開け放った座敷の空気を、透き通った青色の羽根が緩く掻き回していく。

 大澤はあの事件の翌年異動し、今は隣の市にある県警本部にいるらしい。私達がここへ戻ったと知った足で、会いに来たのだ。事件の後始末で一番苦労したのは間違いなく大澤だったから、もう二度と顔も見たくないだろうと思っていた。まあ、「顔が見たい」なんて呑気な理由ではないのは分かっているが。

「楽しいものばかりを追って忘れようともしたんですけど、だめでした。故郷が『口にしてはいけない場所』みたいな扱いを受けているのが、どうしても耐えられなくて」

 私と中尾と木谷以外の住人全てが変死したあの一件から一年と約十ヶ月、当時は所轄の警察署だけでなく県警本部まで出てくる騒動となった。私はもちろん昔と同じように真実だけを語ったが、警察は「集団ヒステリーが引き起こした殺し合い」と位置づけた上で、詳細を「創作」した。それでも当時はそれなりに騒がれたが、今や興味を持つのは心理学者とオカルト好きくらいだろう。世間は限界集落の終焉など、どうでもいいのだ。焚きつける人間がいれば別だが、中尾は執行猶予つきで釈放されたあと麻美の父親に殺されたし、木谷は事件を知って自殺した。もう事実を語る口はない。

「それでも、妊婦一人とはあまりに不用心では」

「大丈夫ですよ。出産が近づいたら街に下りますし、今は犬もいてくれます。財産は全てよそに預けてますしね」

 私も自分の麦茶を傾けながら、開け放たれたガラス戸の向こうに前庭を眺める。今頃は、多分どこかの軒下で涼んでいることだろう。

「一人で何ができるか分かりませんけど、一から始めたいんです。今度こそ、間違えないように」

 にこりと笑うと、大澤はガラスの椀を持ったまま私を見据える。久し振りの、射抜くような視線だった。

「『誰もあなたを怒らせない』集落、ですか」

「そんな利己的なことは願いませんよ。礼節を忘れなければ、それで十分です」

 苦笑し、ぽこりと内側から蹴られた丸い腹を撫でる。

 おいぬさまは祟り神である大忌幣神を鎮めるため、「二十年に一度だけ子を食べてもよい」と許可を与えて仲裁を図ったらしい。対象は御手座を除いた家の幼子であると、当時の御手座当代にも告げていた。まあ、それが周知されなかった理由や、表立って残せなかった理由は分かる。ともかくその仲裁により集落は罰を背負い、幼子が二十年に一度、大忌幣神に拐われるようになった。その流れは途切れることなく続き、前回は勝治の弟で、次は訓史の予定だった。

 その流れに問題が生じた原因は、住民の数が減って信仰の力が弱まり、大忌幣神の枷が緩んだことにあった。大忌幣神が美しかった訓史の母親に見惚れ、夜這いを掛けたのだ。そして不幸にも訓史の母親が大忌幣神の子を妊娠した結果、本来訓史につくはずだった印がバグを起こして再び流れに戻り、十年後に私を選んでしまった。

も、それで納得を?」

 大澤は半袖シャツの襟を開いた首元をハンカチで拭きながら、指輪のない私の左手を一瞥する。捜査により私が誰も殺していないことは証明されたが、警察の監視下に置かれたのは知っている。この先は、死ぬまで忘れてくれることはないだろう。まあ一晩で二十八人も死ねば、致し方のない話だ。

「再婚はしていませんし、そういった相手もいません。妊娠は、精子の提供を受けてしたんです」

 できれば凍結保存していた少しでも若い卵子と日本の精子バンクを利用したかったが、条件が合わなくて断念した。日本の精子バンクから提供を受けられるのは、夫婦限定らしい。仕方なく、海外の精子バンクから購入したものを利用して、今の卵子で妊娠した。もっとも、器のできた今の中身は「別物」だ。

「この子は、新しい囲水の象徴です」

 また腹を撫でながら笑むと、大澤は黙って二杯目の麦茶を飲み干した。


 大澤はがらんとした玄関で、靴に足をねじ込む。私も見送りのために上がり框を下りてサンダルを引っ掛けた。

「また何かありましたら、ご連絡を」

「ありがとうございます。でもオカルトマニアや肝試しの不法侵入は、所轄の警察が対応してくれてますから、大丈夫ですよ」

 今の囲水は、ほぼ御手座の私有地となっている。権利や不動産の売却で出た利益で買い占め、事件後の特殊清掃や不用品の後始末まで済ませた状態だ。杉ノ囲林業の本社も囲水から撤退し、今は街の支社が本社となっている。

 ――どんな額でも、買い取っていただけるのならありがたいです。

 訓史の後を継いで正式に就任した分家の男は、私の申し出に深々と頭を下げた。

「大澤さんこそ、休みたい時にはいつでもおいでください。空き家だけはたくさんありますし、鍼も打ちますよ」

 玄関戸を開けつつ誘った私に、大澤は苦笑で応えて外へ出た。降り注ぐ日差しに手を翳し、あちいなぁ、と愚痴を零す。

「では、また」

「はい。どうぞお気をつけて」

 挨拶を交わし、背を向けた大澤に頭を下げる。やはり、どことなく父を思い出させる人だ。

 ――お前の父が何をしていたかは、もちろん知っていた。それでも、咎めてはおらぬ。お前が囲水を出ることで囲水が終わるのなら、私はそれで良いと思っていたのだ。

 父は、罰されたわけではなかった。むしろ、許されていたのだ。

 日差しに焼かれながら行く背中を眺めていると、不意に生温かいものが手に触れた。

「おいぬさま」

 思わず呼んでしまった名前にはっとして視線をやると、向こうで足を止めた大澤が振り向く。大澤は姿勢良く並んだ私と「大きな犬」を少し眺めたあと、会釈をして石段を下りて行った。

「……気づかれてしまったかも」

「大丈夫だろう。気づいたところで、どうにかできるものでもあるまい」

 私の不安を宥めるように言い、おいぬさまは私の手にまた顔をこすりつける。

「そうですね。気づいたところで、もうどうにも」

 ふふ、と笑って腰を屈め、目線を合わせたあと抱き締める。実体化して換毛期を経たおいぬさまの夏毛は少し固く、埋もれるような感触はなくなった。それでも、これはこれでとてもいい。銀色と灰色の交じる毛並みを、いつものように撫でた。

「その体勢は子に障る。起きなさい、中へ入ろう」

 穏やかな声の指示に頷いて腰を上げ、おいぬさまと一緒に玄関へ入る。外よりは幾分かひやりとした空気に安堵の息を吐き、外界を遮断するように玄関戸を閉めた。

「あっ、足を拭いてからですよ!」

 上がり框に乗った前足に気づいて、慌てて引き留める。おいぬさまは振り向き、面倒くさそうな息を吐いた。

「この体は難儀だな。何かにつけて叱られる」

「肉の器は不便なものなんです」

 苦笑して傍らに座り、隅に置いていたペット用のウェットティッシュでおいぬさまの前足を拭く。おいぬさまは鼻で笑い、鼻先を私の腹にこすりつけた。

「安心して出てこい。善いことばかりではないが、この世は美しい」

 優しく話し掛けるおいぬさまに頷き、もう片方の前足を手に取る。少し硬い肉球を拭い、丁寧に清めていく。

「がんばらないといけませんね。子供達に美しいものをたくさん見せてやれるように……今度こそ」

 今度こそは、誰も間違えないようにしなければ。

「私達で、新しい囲水を作りましょう」

 清め終えた前足を、私の手と重ねて腹に置いた。


                                  (終)

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みてぐらの娘 魚崎 依知子 @uosakiichiko

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