第37話

 祠が翌週月曜日に再び頂上へ戻されて、三日経つ。勝治は集落の状況に気づかれないよう、隣の市にある業者を利用したらしい。業者は遺体が二体転がり警察も手を引いた場所であるとは知りもせず、つつがなく作業を終えて帰って行った。幸い、今回は誰も消えなかった。やはり、祠が頂上に据えられたのには意味があったのだろう。頂上にあることで、おいぬさまの守りが山全体に行き届くようになっていたのだ。

 では、それ以前はどうだったのだろう。おいぬさまは元々、中洲に祀られていた地主神だったはずだ。山の怪に困った住民達が、それを理由に頂上へと祀ったのか。それならそれまでは、おいぬさまは山の怪を放置されていたのだろうか。今回のように守ることができず……でも今ならともかく、当時は信仰厚い時代だったはずだ。おいぬさまの力が山に及ばないなんてことがあったのだろうか。

「何してるの?」

 背後から聞こえた声に頭だけ向けると、戸口に母が立っていた。

「おいぬさまのことでちょっと確かめたいことがあって、書庫の本を持ってきて読んでたの。ここは、落ち着くしね」

 ざっと父の部屋を見渡して、一息つく。ほんとはきちんと片付けるべきなのだろうが、雑多なままの方が父らしく思えて、結局そのままにしている。座卓の両側にも、堆く書類を積んだままだ。

「この前、作業の時に誰も死ななかったのは、祠を上げる作業だったからじゃないかと思ったの。祠が山頂にあるから、下まで力が行き渡るんだろうって。でもおいぬさまは、元々は中洲に祀られてた地主神なんだよね」

「え、そうなの?」

 差し込まれた、さも意外そうな言葉に今度はちゃんと振り向く。母は気づいて、あ、と小さく狼狽えた。

「ええと、お父さんから聞いた話と違うから」

「お父さん、なんて言ってたの」

 父は、母に託していたのか。

「確か……『御手座の神』だって」

 「御手座の」神?

 予想もしなかった方向に、慌てて座卓の資料へと向き直る。雑な動きをした手に触れた書類の山が、座卓の端から雪崩落ちた。ああもう、とばらばらになった書類を掻き集め、座卓で揃える。

 もしおいぬさまが御手座の神だとしたら、拐かされた私をあの時守った理由には納得がいく。でもそれなら、匂いをつけたのは? おいぬさまではないとしたら、誰だ。二、三十年に一度、山の怪に子供を喰わせる印をつけたのは。

「……あ、ごめん、それで用事は?」

 放置していたことを思い出して振り向くと、母はもういなくなっていた。


 祠を上げて三日経つのに消えない症状に、また臨時町内会が開かれることになった。

 集団ヒステリーは長く続いた事例もあるから放置していてもそのうち治るはずだが、おいぬさまの罰だと信じて疑わない彼らには一大事なのだろう。祖父の話では、祠を下ろしてからの集落はこれまでになく暗く沈む一方で、一部では苛立った住民達が口ゲンカや小競り合いを繰り返しているらしい。関わり合いたくないから引きこもっていたが、出て行く決心をした住民もいると聞いた。ようやく、重い腰が上がったのだろう。

「だから、お父さんが調べ始めたきっかけになったのが、『うちの神様だって気付いたこと』だったんじゃないかって今は考えてる」

「それなら、おいぬさまがお前を守った理由は分かるが……匂いがよう分からんことになるな」

 今日は祖父と二人で寄合所への道を歩きながら、周囲に聞こえない音量で言葉を交わす。母は頭痛と耳鳴りで、欠席だ。私を探していたのは、それを伝えるためだったらしい。

「それなんだけど、私、すごくいやなこと考えたんだよね。おいぬさまがうちの神様で匂いがついた私を守ったとするなら、匂いをつけた『何か』が別にいるってことじゃないかって。生まれてくる子供に、匂いをつけられるような存在が」

 この地には、もう一体の神がいるのではないだろうか。でもそれは、誰なのか。

「わしはちいと気になることがあるけえ、家に戻る。今日はお前だけで出てくれ」

 足を止めた祖父が、私の腕を離す。

「いいけど、大丈夫? 暗くなってきたから、気をつけてね」

「大丈夫だ。お前も、なんかあったら早めに引けえよ」

「分かった」

 祖父は頷いて踵を返し、帰路に就く。まあ杖がなくても歩けるのを支えてしまっているだけだから、大丈夫なのは分かっているが。なんとなく気になって、歩きつつも時折振り向いて確かめる。多分、大丈夫、だろう。

 向き直って再び寄合所へと足を進める。同じ場所を目指す背の中にハルを見つけた時、ぐい、と誰かが肩を掴んで引いた。確かめなくても分かる力に、溜め息をつく。

「痛いから、離して」

「祠上げても良うならんぞ、どういうことじゃ」

 荒れた声でぶつける宗吾を睨み、肩を掴む手を振り払ってまた歩き出す。宗吾は祠を下ろす前日あたりから症状が出始めたらしい。

「おい!」

「集団ヒステリーは、数ヶ月続いた事例もあるらしいの。上げたからって、すぐ治まるようなもんじゃない。罰ならすぐ収まっただろうけどね」

 うんざりしながら返し、先を行く。気落ちして見えたハルに声を掛けたかったが、さすがにこれを連れて行くのは気が引けて、まっすぐに目指すことにした。

「お前がなんもないんは、おいぬさまに贔屓されとるけえだろうが」

「馬鹿なの? 集団ヒステリーでしかないって分かってるからでしょ」

 振り向いて掴まれた腕を振り払った時、私に集中する視線に気づいてぞっとする。私と宗吾の言い合いは以前と大して変わらないものなのに、以前のように笑って通り過ぎるような顔は一つもなかった。雅子も和美もその表情は精彩を欠き、瞳もどろりと澱んで見えた。その中に縋りつくような麻美と本条の視線を見つけて、またぞっとする。

 ……まさか、皆同じようなことを考えているのか。

 目の当たりにした住民達の変化に、いやな汗がこめかみに湧いた。祖父には聞いていたが、これほどまでとは。

「これがおいぬさまの罰なら、祠を上げた時点で収まってる。祠を上げた作業員が全員無事だったのも、おいぬさまのお力がまた巡るようになったからでしょ。私は最初からずっと、優大くん以外は集団ヒステリーのせいだって言い続けてる。おいぬさまの罰だと疑ったことすらないから、なんともなってないの」

 宗吾以外の連中にも聞こえるように、強い声ではっきりと、きっぱりと言い返す。

「集団ヒステリーから解放されたいのなら、私みたいに周りの意見に流されないようにするか、集落から出て行くか。こんな説明会になんか出てないで、今すぐにでも出て行けばいいんです」

 言葉を選びながら、説くように続ける。ただ「ここはもうすぐ終わる」とだけは、口にできない。肌感だけで確証がないのが一番の理由だが、今この集団にそんなことを言えば、間違いなくパニックに陥るだろう。逃げない自分達を棚に上げて他人を、勝治を吊るし上げる未来が見えている。勝治のことは好きではないが、さすがにそこまでする趣味はない。

 それにしても、相変わらず「出て行く」という表現には反応が鈍い。地元組は長年住み慣れた土地を今更離れたくないのだろうし、移住者達は補助金を返したくないのだろう。それが、「死にたくない」に勝っている。「死にたくない」は、そんなに優先順位の低いものなのか。私は、見ないふりをするのに必死だ。本当はもう、ずっと怖い。

「自分を救えるのは、自分だけですよ」

 震えそうになった手を拳にして、力を込める。確かめた宗吾も今は群れと同じ表情で、泥のような目で私を眺めていた。

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