第36話
警察は結局、返された警察官の遺体だけを連れて帰って行った。現場の判断ではなく、トップの指示らしい。あの二体はこちらが山から下ろしたら連絡することになったと、勝治は端的に報告した。つまりは遺体を山から下ろさない限り、警察は「なかったこと」にするつもりなのだろう。住民達は警察にまで見放されたような気分になったのか、悲愴な表情でささめきあった。
「どうするつもりなんですか! 人も死んで、我々は今日も原因不明の頭痛と耳鳴りに悩まされてる! どうにかしてくださいよ!」
真っ先に口火を切った千村に、いつものごとく最終列で溜め息をつく。予想していたことではあるが、千村も集団ヒステリーにどっぷり浸かっているらしい。まあ何にせよ、自業自得だ。
「どうするも何も、祠を下ろせと言ったのはあんたらだろう」
「こんな風になるなら、言いませんでしたよ!」
溜め息交じりに応えた勝治に、千村はなおも言い募る。残り少なくなった移住組が誰一人異を唱えないところを見るに、未だに自分達のせいではないと信じているのだろう。馬鹿か。
「無礼な行為を重ねた続けたあなた達には、一切の責任がないと?」
後ろから口を挟んだ私を、千村は悔しげに睨みつける。それでも、大澤の睨みに比べればなんの凄みもない、取るに足りない威嚇だった。
「御手座は、前会長も、常にあなた達に話していたはずです。おいぬさまを信仰しろとは言っていない、ただ礼儀を弁えてくれと。でもあなた達はおいぬさまを神と認めずお勤めを厭い、神域を穢し、あまつさえ自分達の利のために祠を下ろす暴挙に出た。それでいて、自分達の身に害が及びそうになったら『どうにかしてくれ』とは、あまりに浅はかなのでは?」
「じゃあ、私達はどうすればいいんですか」
冷静に咎めた私に、千村の隣でその妻が尋ねる。千村家のお勤めはいつも妻がしていたから、千村よりは耳を傾けてもいい。千村の方は、妻に丸投げしながら文句言うだけのクズだ。どこまでも、自分の利しか考えていない。
「出て行きゃあええだろう」
再び主導権を取り戻した勝治が、上座で答える。優大を抱いた本条は中尾と、千村は夫婦で視線を交わしたあと黙った。逃げ出せば借金は抱えるが、少なくとも命は助かるだろう。集団ヒステリーから解放されて、その症状も消えるはずだ。
「でも、あの、山に入らなければ、実害はないんですよね? 何もしなければ何もされないというか。この頭痛とかも、多希子さんは集団ヒステリーだって言いましたし」
振り向いて私を窺う本条に、溜め息をつく。目の前の危険を避けるよりも残る理由を探す連中には、何を言っても無駄だろう。
「その症状は確かにそうだと言いましたし、そうだと思っています。ただ山に入らなければ大丈夫かどうかの方は、私にはなんとも言えません。異常だと思うのなら、地元組移住組の別なく出て行った方がいいでしょう」
「多希子さんは、出て行かないんですか」
本条の隣から質問を重ねた麻美に、頷く。私には、ここを離れる理由がない。
「ええ、私は残ります」
私の答えは全くもって安心や安全を保証するものではないのに、本条と麻美はまるでそんな材料を得たかのように顔を見合わせて頷いた。
「私達が下ろせって頼んだせいだって言うんなら、上げてくださいよ。戻せば大丈夫なんですよね?」
柄の悪い声で再び勝治に投げる千村には、うんざりした。
「帰ろう、おじいちゃん」
隣に小さく声を掛けると、祖父は頷いて膝を起こす。その向こうで母も遅れて腰を上げ、剣呑な空気の漂い始めた群れに背を向ける。
「つべこべ言うとらんで、早う戻せばええんじゃ!」
背後で、上田が勝治を責めるきつい声がした。上田はこの前、勝治にそれを訴えて却下されているはずだ。
移住組も入れて三十五人だった住民は、この三週間ほどで二十八人まで減った。瀬能、井上、訓史、津川、トキが死亡し、木谷は入院、中尾は留置所。そして残った住民の半分以上が集団ヒステリーに飲み込まれている。端から見れば笑えるほどの異常事態なのに、これだけ出て行けと言っているのに、誰一人出て行こうとしない。こういう状態を、なんと呼ぶのだったか。
「もう、長あはないな」
私の腕を支えにして歩きながら、祖父が零す。
きっと、祠は再び山の上へと戻されるだろう。でもそれで、安寧が取り戻せるとは思えない。
「仕方ないね、恩を仇で返したんだから。大人しく滅びればいいんだよ」
この地に住むことを許され、守られていたからこそ生き延びてこられたのに。何一つ自分達のものではないものを、まるで自分達のものであるかのように扱い続けた。その罰は、受けるべきだろう。
寄合所を出てからずっと、祖父は無言で歩き続ける。やがて石段の前で足を止め、向こうに山を見上げた。
「多希子、お前は……お前だけは」
祖父は私の腕を握り締めて苦しげに零したあと、やがて諦めたように俯く。憔悴の見える横顔を見つめ、私が先に石段へ足を進める。祖父は少し遅れて、諦めたように続いた。
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