第32話
ほんで、と予定どおり訪れた宗吾は、私の隣で山を見上げながら手元のバインダーの用紙をめくった。
うちの山は年に四回、杉ノ囲林業による手入れを受けている。育った木を切り出す伐木や土砂崩れ防止のための植林、密度を調整するための間伐など、山を維持するためにはそれなりの作業が必要だ。囲水の伐木のメインシーズンは主に木の生長が止まる晩秋から冬だが、その前に一度雑木を刈る作業などを挟んでおくとスムーズに行える。今日は、作業の日取りや実施内容の細かなすり合わせだ。
「今回もいつもどおり、て言いたいとこだけど、ちいと問題がある」
宗吾は、作業服の下に手を突っ込んで、ぼりぼりと肌を掻く。
「この山には入らんて言う作業員がまあまあおってな。これまでどおりの人数は入れられんわ。二人変死しとるし、社長も山の怪にやられたて噂が流れとる。津川がおらんようになったんも、山の怪に喰われたんじゃねえかって」
初めて聞く事件の余波に少し驚いたあと、頷いて納得の息を吐いた。
山師は、囲水の者であってもなくても山に畏怖や畏敬の念を抱いている者が少なからずいる。山神や山の怪がいると口にはしなくても、なんとなくその気配を感じながら働いているのだ。特に、うちの山では。
不意に掴まれた尻に、遠慮なくその手をひっぱたく。いてえなあ、と下卑な声で笑う宗吾を睨み上げた。
「それで、何人入れそうなの」
「俺入れて三人だな」
いつもの半分になった人数に、諦めの息を吐く。まあ、無理強いをするようなことではない。意地でも六人集めろとは言えない懸念材料が、私にもあった。
「じゃあ、奥はそのままでもいいよ。三日でざっとできる分だけしてくれたら」
「分かった。まあ、冬には普通に作業できるようになっとるだろ」
バインダーの書面に決定事項を書き込みながら、宗吾は怠そうに返す。一瞥した顎下には弛みとも贅肉ともとれそうな膨らみがあった。固太りな体つきは昔から変わらないが、それでも年はとる。
「なら、予定どおり来週から入るわ」
「了解。よろしく」
打ち合わせを終えて山に背を向けた私を、なあ、と太い声が呼んだ。振り向くと、山から吹き下ろした風が頬を撫でて抜けていく。早くも、枯れた匂いを含んでいた。
「あん時、津川に何を言うたんじゃ」
さっきまでとは違う宗吾の視線は、どことなく咎めているようにも見える。そこまで肩入れするような存在だったのか、あれは。
「大したことは何も。ただ」
苦笑して、背後にある山を見上げる。祠の下ろされた山は、どことなく纏う空気が重く禍々しい。
「おいぬさまはお許しにならないと言っただけ」
苦笑して今度はちゃんと向き直り、母屋への道を行く。
明日の午前中、引越し業者が津川の荷物を全て実家へと持って行く予定だ。ようやくこれで、縁が切れる。
――もしお許しになるのなら、無事に戻って来られるはずですから。
思い出して少し、胸が空いた。
家に戻って幣の作成をしていると、呼び鈴が鳴る。耳を澄まして周囲の音を探ったが、母の足音が聞こえないので腰を上げた。仕方ない。
玄関戸のすりガラス越しに見える影は大きいものと小さいもの、住民が米袋を持って来た時にもこんな影が見えるが、今回は違うだろう。小さい影は、落ち着きなく揺らめいていた。
「どうぞ、お入りください」
掛けた声に、失礼します、と答えたあと、玄関戸が引かれていく。隙間から姿を現したのは、予想していたとおりの本条と息子の優大だった。
「どうかされましたか」
水を向けた私に、本条は頷いて視線を合わす。なんとなくおどおどして気まずげに見える辺り、移住取りやめの連絡か、或いは。
――あの、本条さん、離婚してここに来たんです。両親とは折り合いが悪くて実家に帰れないから、ちょうど良かったって。
「少し前から優大が、頭が痛いのと耳から変な音がするって言うんです。小児科や耳鼻科に連れて検査してもらったんですけど、どっちも原因は分からなくて。ストレスじゃないかって言われました」
予想外の内容に、ああ、と視線を本条の傍らへ落とす。
慣れない場所に来たせいか具合が悪いせいか、本条の手を握り締めていても優大は落ち着かない様子で揺れている。今も不快な症状が続いているのだろう。幼い眉根が寄っていた。
「でもそのあとから、私も同じように頭痛と耳鳴りがし始めて。気のせいって思おうとしてるんですけど、息子も治らないし私もずっと続いてるんです。それを中尾さんに話したら、自分も頭痛と耳鳴りがするって」
切々と訴える本条は、嘘をついているようには見えない。麻美も、女子高生でもあるまいし、共感のために嘘をつくような真似はしないだろう。「集団ヒステリー」が、脳裏にちらつく。失神や痙攣の派手な症状は聞いたことがあるが、だからといって頭痛や耳鳴りは違うと言い切れない。単体ではストレスによる自律神経の不調だとしても、伝播している時点でおかしいのだ。
「それで、鍼をご希望ですか?」
「違います、おいぬさまのせいじゃないかと言ってるんです! 祠を下ろしたりしたから、バチが当たったんじゃないかって!」
冷静に尋ねた私に本条は浴びせるように早口で返し、目を潤ませる。その可能性を考えたら、不安でどうしようもなくなったのだろう。何もない時にはまるで信じないくせに、何か起きたら「神様のせい」にする。うんざりだ。
「落ち着いてください。確かに大人だけならその可能性もありますが、決定にまるで関わっていない子供を犠牲にするようなことはなさいません」
とりあえず、「そうではない可能性」を伝えて不安を収めるしかない。冷ややかに伝えた私に、本条は、ああ、と気付いたような表情を浮かべた。脚にしがみついた優大を抱き上げて、ぎゅっと抱き締める。
「集団ヒステリーになりかけているので、気をつけてください。恐怖や不安で、パニックが伝染してしまうんです。今回で言えば、優大くんは本当にストレスで頭痛と耳鳴りが出てしまったんでしょう。子供は環境の変化に敏感ですから。でもそれを、あなたは『おいぬさまのせいではないか』と考えて不安になったのではないですか? そして、考えた途端に頭痛と耳鳴りがし始めた。母親は共感能力が高いですから、不思議なことではありません」
ひとまず伝えた見立てに、本条は優大の肩越しに頷く。親が不安になれば子供は余計不安になってしまう。まずは親を落ち着かせなければ、子供は安心して休めない。本条にしがみつく優大の小さな背に、初めて罪悪感が胸に滲んだ。
「中尾さんは本条さんと仲が良いですし、女性同士は共感しやすい性質があります。中尾さんは特に今不安定な状況ですから、本条さんと同じ不安と恐怖を共有して、症状が出てしまったんでしょう」
「じゃあ、どうすれば」
再び切羽詰まった声で返す本条に、苦笑する。術があるのに、使わない手はない。父なら間違いなく手を伸ばしただろう。一息ついて腰を上げ、上がり框を下りてサンダルを履いた。
「優大くんには、ひとまず小児鍼をしましょう。刺さない、痛くない鍼なので大丈夫ですよ。一度では消えないかもしれませんが、楽にはなるはずです。本条さんは施術の間に、『集団ヒステリー』を検索して知識をつけてください」
本条を促して、一緒に離れへと向かう。
「多希子さん、私達のこと嫌いじゃないんですか」
曇天の下、隣で湿気った土を踏みながら、本条はおずおずと私に尋ねる。
「そうですね、『そんなことはない』と答えられる時期はもう過ぎています。あなた達は私達を、囲水をあまりに見下しすぎました。今回だって、集団ヒステリーでしかない状況をおいぬさまのせいにしようとしたでしょう。何もない時にはいないものとして扱っていたくせに、何かあった途端にいるものにして」
遠慮なく恨み言を伝えると、本条は黙った。
神は都合のいい時にだけ存在するものでも、人のために生み出されたものでもない。神とともに生きていない移住者達には、理解できないのは分かっている。それでもここが都会なら「因習村」などと揶揄することもなく、神への敬意も持てたはずだ。
「それでも、優大くんは私達の怒りとは無関係ですから」
まるで無関係な子供に大人の罪を負わせるほど、鬼畜ではないつもりだ。おいぬさまもそうだと信じてはいる。でも神の怒りは、平等に降り注ぐこともあるだろう。
黙った本条を連れて、片付けたばかりの離れに入る。
「上着だけ脱がせて、抱っこしたままでそこの椅子に座っててください」
指示を出しつつ一足先に玄関を上がり、洗面所へ向かう。おざなりな一つ結びを一旦解き、きちんと結び直す。手を清めてから、施術室へ戻った。
優大は、数種類見せた小児鍼の道具の中からローラーを気に入った。転がすだけでほどよい刺激が入るそれを、ひとまず服の上から転がしていく。慣れたところで服を脱がせ、施術台に寝かせて直接肌に転がした。
「あ、寝ちゃった」
「気を張り詰めていたのが、ようやく解けたんでしょう。夜泣きは緊張のせいで、頭痛は夜泣きで寝不足だったせいでしょうね。よく眠れるようになれば、耳鳴りも消えていくはずです」
五分ほどの施術を終える時には、優大は既に眠りに落ちていた。確かめた脈も落ち着いていて、安堵する。
「どれくらい良くなるかは分かりませんけど、来た時よりはかなり楽にはなってるはずです。本条さんも、今はもう大丈夫でしょう?」
尋ねた私に、あ、と本条は短く気づく。
「……ありがとう、ございます」
ぎこちなく礼を言ったあと、眠ったままの優大に器用に服を着せ始めた。手際の良さは、さすが母親だ。
「優大くんのことを思うなら、なるべく早くここを離れてください。大人の生々しい感情に、これ以上晒すべきではありません」
「でも行くとこが……あ、えっと」
洗面所へ向かう背後で、本条は言葉を濁す。理由は知っているが、言うべきではないだろう。麻美のことはどうでも、ただこれ以上集落に火種を撒きたくない。
「今出て行ったら、補助金を返さないといけなくなるので」
少し間を置いて聞こえた「逃げない理由」に、溜め息をつく。確かに今年移住したばかりの本条は、支給された額をそのまま返さなければならないが。
清めた手を拭い、眠った優大を抱き上げた本条の元へ戻る。ぐっすりと眠るあどけない寝顔に図らずも癒やされて、少しだけ胸が空く。おいぬさまの真意がどうであれ、子供まで犠牲になる必要はない。
「他人は、あなたの子供のために犠牲にはなってくれません。優大くんを守れるのは、あなただけですよ」
差し出がましさを承知の上で伝えると、本条は黙って俯いた。
私がその立場なら今すぐ我が子を連れて飛び出すが、それは私の手に職があるからかもしれない。金を稼ぐ手段がなければ、保障された暮らしにしがみついた方が楽に思えてしまうのだろう。ここにいれば少なくとも家賃は掛からないし、補助金を返還しなくてもいい。米と野菜は、見た目を問わなければタダで手に入る。でも、養育費だけで一生暮らしていけるわけはないのだ。
「そうですね。少し、考えてみます」
本条は私から視線を外したまま、当たり障りのない答えを投げて小さく頭を下げる。振り向くことなく、眠りこけた優大を連れて帰って行った。
あの様子だと、しばらくすればまた冷静さを欠いて飲まれてしまうだろう。でも自らそれを望むのなら、もう私にできることはない。
デスクに置いた小児鍼のローラーを、手のツボに転がす。
子供がいなくて良かった……のだろうか。
胸に去来するものを一通り撫でたあと、施術台に再びカバーを掛けた。
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