第30話
トキの葬儀は翌日、しめやかに行われた。麻美は当然のように参列していたが、千村のところは客が来ると揃って欠席で、本条も欠席した。幼い子供に葬式はあまり良くないからかと思ったが、麻美の話では優大の調子が悪くて街の病院へ向かったらしい。
「津川んとこに電話したら、金は出すけえ全部こっちで処分してくれってや」
葬儀後の会食で、日本酒を注ぐ私に勝治が報告する。赤い顔で猪口を差し出す喪服の胸元はネクタイが引かれて、緩いものだ。
「予想どおりの反応ですね」
「行方知れずだって言っても、『ああそうですか』だったわ。若いのにようこんな面倒くせえとこでにこにこしとるもんだと思っとったけど」
まさか勝治が
「あいつは、寂しかったんかもしれんな」
荒い息とともに、吐き出すように零す。津川は癖の強い年寄り連中にも好かれていたが、勝治も目を掛けていたのかもしれない。
勝治のところは息子が一人と娘が二人、全員集落を出て行って、よそで所帯を持っている。孫が小さい頃は盆正月には帰って来ていたらしいが、ここ数年は見ていない。最後は、勝治の妻の葬式ではなかったか。
「自分を大切に扱ってくれる、幸せにしてくれる家族が欲しかったのかもしれませんね」
御手座の婿になれば、これまでになく大切に扱われていただろう。でもそれは「役割を負った自分」であって、自分自身ではないと分かっていた。だから。
――一緒に、逃げますか。
あれが、本心だったのではないだろうか。自分とはまた違った「哀れな境遇」の私をそこから救い出して目覚めさせれば、私は誰よりも感謝して津川を大切にしていたはずだから。ふと胸に湧いた一抹の情を確かめて、喪服の帯を少し揺すった。
握った徳利を差し向ける勝治に自分の猪口を差し出し、返杯を受ける。酌に付き合ってそろそろ二合か、昔は女が酔いつぶれるのを待ってここぞとばかりに自分のものにする奴もいたらしい。私には、縁のない話だ。
「津川を殺したんは、お前だろう」
勝治は、抑えた声で低く探る。
「津川さんは、出て行かれたんですよ」
零れることなく満たされた猪口を引き寄せ、一息に呷った。
訓史の葬儀は「集落内の不安を煽らないために」、杉ノ囲と御手座の間で秘密裏に行われたことになっていた。といってもうちも電話一本で「そういうことにした」と言われただけだから、詳細は分からない。それでも別に、困ることはないだろう。どうせ私にずかずかと聞いてくるのは。
「あんた、訓史の葬式いつ行ったん」
葬儀の翌日、再び後藤家で作業をしながら雅子が尋ねる。予想どおりの質問に、香典の封を開ける手を止めて向かいに視線をやった。雅子は昨日まで棺に掛けていた布を桐箱へしまいながら、なんよ、と返す。
「相変わらず、ほかの人が聞いてこないことを平気で聞いてくるなあと思っただけです」
「聞かな、あんたがなんも言わんけえでしょ」
「言ったら全部よそに流すじゃないですか」
喋ったが最後、その日の内には集落中に知れ渡る。秘密を守るには慎重に口を閉ざし、何も知らない顔をするしかないのだ。
「そうやって一緒にくっちゃべるけえ、仲間意識ができるんよ。あんたはまあほんに付き合いが悪うて」
「私は支え合いたいだけで、馴れ合いたいわけではないですから」
再び作業へ戻り、香典袋から五千円札を引き抜く。杉ノ囲と御手座の本家以外は、祝儀も香典も一律五千円と決まっている。そして「返し」はない。それがこの集落の平等だ。
「あんたはここで生まれた、御手座のお嬢さんだもんな。私らみたいに嫁に来て、右も左も分からん中で必死にやってきた『よそもん』とは根っこが違うわ」
諦めたようにも聞こえる恨み言を流して、次の香典袋を手に取る。
母もきっと、そうだったのだろう。都会からこんな辺鄙な田舎へ嫁いで、どうにか馴染もうと苦労して、私を産んだ。でもその娘は突然、得体も知れない山の怪に拐われてしまった。東京へ逃げても囲水を忘れさせてくれない娘に、心が折れてしまったのだろう。
「それでもなんとか、根を張って生きてきたんよ。ここで生きてくんだって、歯を食いしばってな」
言葉の強さとは逆に、声は弱く掠れた。
「今更、出て行くなんて言われてもなあ」
続いた内容に、五千円札をつまんだ指先が止まる。視線をやると、枯れた手が膝の上で桐箱を握り締めるように掴んでいた。背を丸めて俯いた老婆の姿に、何も言えなくなって視線を落とす。
――囲水を出ていくことを、お許し願えませんか。
佐吉の言葉には、私が得られなかったものを含んでいた。佐吉は生まれ育った家やこの集落よりも雅子を優先させるほど、愛しているのだ。九十にもなってから、故郷を捨てられるほどに。でも、雅子にとっては救いではなかったのか。
「出て行ってください。道連れは、少ない方がいいので」
最後に手にした香典袋は、御手座本家からのものだ。中身は十万、生活保護の金額も減るであろう家計の足しにしてくれればいい。足りなければ、最期まで援助するつもりでいる。多分、ハルは道連れにしてしまうだろうから。
「もうちょっとええ生き方があったんじゃないの、あんた」
少し遅れて届いた返事に、苦笑する。香典袋の表に書かれた『御手座』を眺めて、ないんです、と小さく呟いた。
作業を終え、ぼんやりとしているハルに声を掛けて家路に就く。これまでずっとトキの世話を焼き続けて大変だったはずだが、それがハルの生活に張りを与えて認知症を遠ざけていたような気がする。でもこれからは、そうもいかなくなるだろう。デイサービスをどうにか訪問介護に切り替えて対応するか。まあ口を出せば、勝治にぎゃんぎゃん言われるだけだ。何か言われるまでは黙っておいた方がいいだろう。
囲水川の流れを傍らに眺めながら考えに耽っていると、ふとどこかから明るい話し声が聞こえる。気づいて視線をやった川向こうに、六十代くらいの夫婦らしき二人があちこちを指差しながら歩くのが見えた。身なりからして、千村の民泊に泊まりに来た客だろう。男性の手には高そうな一眼レフがあって、なんとなく瀬能を思い出す。
のどかでいいわねえ、ほんとだな、と好意的な感想をかわす二人は、やがて私に気づく。こんにちは、と笑顔で気のいい住民のふりをして挨拶を交わし、行き過ぎる。移住もいいわねえ、と背後で聞こえた声に苦笑して、先へ進んだ。
千村は、うまく情報制御を行っているらしい。そうでなければあんな暢気なことは言えない。移住者十人のうち二人は死亡、一人は入院、一人は逮捕、一人は行方不明と聞けば、そんな気持ちは一瞬で失せるはずだ。
――だめですよ、もうあそこに帰っちゃだめです! あんなとこに!
あんなとこ、か。
辿り着いたいつもの石段を上りながら、警察も撤収作業を終えた山と我が家を見上げる。他人には「あんなとこ」でも、私にとっては大切な場所だ。
都会から見れば、確かに不便で時代遅れな土地だろう。洗練されていないし、都会の常識は通じない。でも私達は、ここを東京のような場所にしたいわけではないのだ。
不便でも毎朝交代で祠に参り、年寄りがうるさくても町内会へ参加して草むしりをしたり雪かきをしたり、共同体からこぼれ落ちることがないように声を掛け合って助け合い、密な付き合いをする。ずっとそうやってきたのだから、限界集落になろうと子どもがいなくなろうと、同じままでいれば良かったのだ。郷に入らず郷を変えることを要求する移住者など受け入れず、あのままゆっくりと時を迎えて滅ぶ道を選べば良かった。でも、もう全てが遅い。ここにはもう、昔の信仰は存在しない。
石段を上りきり、さっきより近くなった山を見上げる。おいぬさまは今、どこでこの状況を苦々しく眺めているのだろう。……許されるわけがないのだ。
胸に残る思慕の情を抑え、頭を下げる。小さく詫びたあと、母屋へ帰った。
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