第34話

 母は昼前に起きてきたが、やはり不調を訴えた。症状は変わらず頭痛と耳鳴り、噂を耳にいれるまではなかった不調だ。

「集団ヒステリーだから、自分から不調や不安を探さないようにして。耳鳴りも気にすると余計に気になるものだから」

「でも、ほんとに大丈夫なの?」

 少なめに盛った昼食の炒飯を掬いながら、斜向かいで母が不安げに尋ねる。

「大丈夫だよ。おいぬさまの罰は、与えられるべき人にしか与えられない。瀬能さんや井上さんみたいにね」

 答えて、いつもより多めに盛った山をひと掬いして口へ運んだ。大きめに切った焼き豚を噛み締めると、旨味が染み出す。

 いつもどおり午前中に訪れた移動販売車は、珍しく焼き豚を売っていた。少し高かったが奮発して購入し、半分使ってこれまでになく豪勢な炒飯を作った。あと何度、という考えがなかったとは言えない。

「瀬能さんと井上さんは、おいぬさまへの畏敬の念を持たず集落を見下す態度がひどかったから、おいぬさまが山の怪からお守りにならなかったんだと思う。多分、だけど」

 いろいろと考えてみたが、それ以外に理由がない。あのまま放置していれば、集落はもっと悪い状況に追い込まれていたはずだ。緩やかな終わりを待てないほどに。

「でも今回は、自分の利益しか考えてない大人はともかく、無関係な優大くんが真っ先に罰せられるなんてありえないから」

 おいぬさまは、罪なき者を見せしめにするようなことはなさらない。胸にあるものを確かめて視線を上げると、母は食事の手を止めていた。

「ごめん、味が濃かった?」

「え、ああ、大丈夫、おいしい。ただ……集団ヒステリーって怖いなと思って」

 再び炒飯に向かいながら、母が呟くように零す。頷いて、麦茶のグラスを傾けた。ほろ苦い味が喉を洗い流していく。

 まあ、確かに集団ヒステリーは恐ろしいものではある。不安や恐怖で団結した集団ほど、狂気じみたものはないだろう。もう、この集落で「おいぬさまの罰で頭痛と耳鳴りが起きる」噂を知らないものはいない。何度違うと言ったところで、彼らは自分の信じたいものしか信じない。今回は地元住民が巻き込まれているから、余計に厄介だ。でも。

「まあもう、どうせ終わるしね」

 ぼそりと零して、残り少なくなった炒飯をスプーンで集める。

「終わるって、どういうこと?」

「そのままの意味だよ。多分、そう遠くないうちにここはなくなる。人間が壊すのか山の怪かおいぬさまかは分からないけど」

 掬いながら一瞥した向かいでは、祖父が黙々と食べ進めている。九十を過ぎて部分入れ歯にはなったが、まだ自分の歯で食べられるし健啖だ。このまま何もなければ、穏やかに見送れるのに。これまで尽くしてきた者達が報われないのは、やるせなくはある。

「私はここの人間だしおいぬさまが好きだから最期までここにいるけど、お母さんは」

 当たり前のように告げるつもりだった次が出てこなくて、スプーンを置く。

 ――あなたは連れていけないの。お父さんと仲良くね。

 脳裏に浮かぶ光景は鮮やかで、絶望までリアルに思い出させる。胸に滲む痛みに、溜め息をつく。これが、最後の願いだ。

「……いてくれると、嬉しい」

 絞り出すように伝えたあと、気恥ずかしさをごまかすように炒飯を食べ終えて腰を上げた。


 午後からは書庫で改めて書物を調べようと思っていたのに、望まない来客のせいで予定が変わった。せっつかれて客間に通してしまったが、玄関先で十分だったのかもしれない。「訓史の話」だと言われたのに、さっきから宗吾の話ばかりだ。

「あんただけの問題じゃなくて、集落全体に関わることよ」

 座卓の向かいで、景子がもっともそうな口をきいた。くろぐろと染められた艶のない髪とファンデの白浮きした肌が相俟って、雅子よりも年上に見える。今年で確か、七十八だったか。年を思い出す度に驚くほど、経理の腕は衰えていない。管財部に預けてあるうちの財産についても、よく把握しているだろう。だからこそ、選ばれた援軍か。

 視線をやった隣の和美が、うんうんと小刻みに頷いている。前回の説明会以来、ここを出て行く向きになった雅子との間に溝が生まれたらしい。嫁同士の固い結束が、解けてしまったのだろう。宗吾は今のところ出て行くつもりはなさそうだから、和美は置いていかれたような気分になったのかもしれない。

「御手座同士でくっつくんが一番良かろうが」

「私はそうは思いませんし、宗吾さんが本家当代に適してるとも思えません」

 早くも苛立った様子の景子に、冷ややかに返す。津川が消えて絶好のチャンスだと思ったのだろうが、誰が消えようが同じだ。宗吾に当主の器はない。

「金遣いの荒さを、私が知らないとでも? 飲む打つ買うで燃やして、だいぶ首が回らなくなってるはずです」

 自分の金で遊ぶのなら何をしようと文句はないが、そうではないのなら別だ。

「そこはあんたが結婚してから」

「五十年以上も育てた親が矯正できなかったものを、妻がどうにかできると?」

 私に丸投げしようとする和美に言い返すと、気まずげに黙った。おそらくはもう、亡き夫の遺産も全て使われて自分の年金だけが頼りの生活だ。自分に介護が必要になった時、使える金がないのだろう。まあ、知ったことではない。

「ほんでも、あんただってもうええ年だろうが! はよ再婚せんと子供が産めんわ」

「結婚していた頃、東京で卵子を凍結保存したんです。焦ってろくでもない男と子作りするくらいなら、どこかの優秀な精子を貰って産みます」

 産む必要があるのなら、だが。でも、もう必要ないだろう。

 杉ノ囲本家も訓史で途絶えたのだから、御手座本家も私で終わればいいのだ。おいぬさまを守りきれなかった悔いはあるが、これも時代なのだろう。囲水は、消える。

 私の話を理解できない二人を前に、溜め息をついて腰を上げた。

「お引き取りください。これ以上話を続けるようなら、祖父を呼びます」

 祖父召喚を口にすると、二人もしぶしぶと腰を上げる。こんな要求も私に対してだから言えたことで、祖父を前にしてはとても無理だろう。

 黙って開けた障子を、不服げな列が通過していく。

「私らは、あんたのためを思って言うとるんよ。このままだと、あんたずっと一人よ」

 歩きながら、景子が恨めしそうに食い下がる。

「母がいてくれますから」

 苦笑で返した私に、前を行く二人が不意に視線を交わし合う。やがて、景子が諦めたように長い息を吐いた。

「あんたの母親は、あんたが思うような女じゃないよ。丸くなったように見えても、根っこのところはなんも変わっとらんと思うけどね」

 ぼそぼそと歯切れ悪く続いた見解に、少し目を見開く。ぎしり、と踏みしめた廊下が軋んだ。根っことは、何か。私が覚えているのは、私を抱き締めて泣いた母と……私の手を振り払って笑顔で消えた母だ。

 老女二人は玄関へ着くと、二人で支え合いながら上がり框を下りて靴を履く。

「おじいさんはあんたがかわいいからなんも教えとらんのだろうけど、おばあさんが『何かにつけて多希子を理由に金をせびってくる』て、よう言ようたわ」

「ほんにな。あんた金庫の鍵や通帳、気をつけんさいよ」

 うちへ訪れた当初の目的はけろりと忘れた様子で、二人は告げ口めいた警告を残して消えた。警告が引き出した記憶は、中尾が来訪した時の母の姿だ。

 ――良くないわ、お金の貸し借りなんて。返してもらえないんじゃないの。

 でも、まさか。そんなはずはない。いやな音を立てる胸に、ひとまず居間へ入った。

「帰ったか」

 定位置で煙草を吹かしつつ尋ねる祖父は、さっきのあれを聞いていただろうか。

「うん。いつもどおり宗吾と再婚しろって話。いい加減、諦めればいいのにね」

 当たり障りのない答えを返しながら、茶箪笥に向かう。いつもの位置に収まっていた金庫の鍵を握って、居間を出た。

 大丈夫だ、母がそんなことをするわけはない。母は私のために帰ってきてくれたのだ。だからこれは、その確認をするだけのこと。母は、私を裏切らない。

 急いで祖霊舎の部屋へ、金庫へ向かう。観音開きの扉を開けて、現れた金庫に鍵を差す。焦る指でダイヤルを回して合わせ、鍵を捻った。

 ――あなたは連れていけないの。お父さんと仲良くね。

 蘇る声を振り切るように、重い扉を開く。一番上の段に並べてあった百万の束と通帳の数を、すぐに数えた。

 ……大丈夫だ、全部ある。

「当たり前でしょ。お母さんが、そんなことするわけないじゃない」

 言い聞かせるように零して、安堵と罪悪感の息を吐く。ばぁか、と誰に向けるでもない悪態を小さくつき、額に滲んだ汗を拭った。なんとなく確かめた手のひらはあの頃よりずっと大きくなっていたが、まだ何も掴めたようにはない。

 三十三にもなって、という自嘲はある。それでも、分かっていても、捨てられない。悪いのは母ではない。私が、山の怪に拐かされさえしなければ。

 握っていた通帳を元に戻し、金庫の扉を締めて鍵を掛ける。少し迷ったあと、ダイヤル錠の周りに貼られていたシールを全て剥がした。

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