第23話

 一時はどうなることかと思ったが、説明会はそれほど長引くこともなく終わった。津川のおかげだろう。私達では、どうにもできなかった。

「さっきは、ありがとうございました。おかげで助かりました」

 勝治と祖父がぶつかった理由を考えればあまり触れたくないが、礼を失するわけにはいかない。隣を行く津川に礼を言うと、頷くのがぼんやりと見えた。

「あそこでトップ同士がぶつかっちゃうと、他の人はどうしていいか分からなくなりますから。社長はその辺のコントロールが上手でしたけど」

「うちの年寄りは、感情的になりやすいですからね」

 交じりこんだ存在の気まずさをごまかすように、少し矛先を逸らす答えを選ぶ。ずるいのは分かっているが、致し方ない。再婚となればこうなることくらい予想はできていたのに、多分、どこかで諦めていたからだろう。卵子凍結と合わせて集めていたのは、結婚相談所の資料ではなく精子バンクの案内だった。

「俺は『家族を守る』感覚は分かりますけど、『家を守る』感覚はピンとこないんです。家族のために家を捨てるのは理解できても、家のために家族を犠牲にするのは理解できません」

 津川は、橋を渡りながら不穏なことを口にする。今日は少し落ち着いた水音に、虫の声がうるさいほどに交じり込む。あまり、聞きたい話ではない。

「家族を幸せにしない家を、存続する意味なんてあるんですかね」

「それは、うちのことですか」

 尋ねると津川は黙り、私の手を握る。肉厚でところどころが固い、山師らしい手だった。

「幸せじゃない自覚はあるんですね」

 橋を渡り終える頃に、津川はぼそりと呟くように言う。

「私はただ、おいぬさまと囲水が好きなだけなんです。だからおいぬさまには御恩を返したいし喜んでいただきたいし、故郷が消えないように守りたい。好きなもののためにがんばるのは、苦じゃありません。でも……たまに、あの時みたいに助けに来てくれないかなと思うことがあるんです。あの背中に乗せて、家も集落も関係ないどこかへ連れてってくれたらいいのにって」

「それは俺にもできますよ。一緒に、逃げますか」

 突然の不穏な提案には苦笑するしかない。そんなこと、できるわけがないだろう。

「できませんよ、おいぬさまじゃないと」

 ゆっくりと手を引き抜き、辿り着いた石段の遠くに見える暗い山を眺めた。

「送ってくださってありがとうございました。じゃあ、また」

 街灯の明かりにぼんやりと照らされた津川に挨拶をして、石段を上っていく。上り切って確かめた麓に未だ佇む津川を見て、居た堪れなさに母屋へ逃げた。

 津川はどこまで知っているのだろう。私と訓史の関係も、分かっているのではないだろうか。それならなぜ、こんな申し出をしたのか。

 下世話な想像をすれば金目当てだが、自分が受け取るには祖父と私が死ぬ必要がある。でも祖父はともかく、私はそうすぐには死なない。殺すにしても、と物騒な方向へ進み始めた思考を断って自分の部屋へ急いだ。

 今は、こちらだ。

 ノートパソコンを開き、訓史に聞いた木谷のブログ名を検索する。すぐに弾き出された結果の一番上を選び、ブログを開いた。

 ダークカラーのブログはきちんとデザインされたもので、素人が日々の暇つぶしに作ったようなものには見えない。『因習村』の禍々しいフォントに溜め息をつき、記事の内容を確かめる。きっと面白おかしく書かれているのだろうと溜め息交じりに読み始めたそこには、想像を超える内容が綴られていた。

 記事の中で、訓史は「ドS」私は「教祖」と呼ばれていて、囲水は「カルト化した土着宗教が支配する異様な限界集落」となっていた。

 『教祖が朝っぱらから呼びに来て、儀式に連れて行かれる。ほかのことはどうでも良さそうなのに、神様に関することだけは目を輝かせて話す女だ。終わっている。』

 『ドSと教祖が陰でコソコソ付き合っているという噂を聞いた。気持ちが悪い。あの二人、ベッドの中でも神様の話をしてるんじゃないか?』

 『ここの連中に子供ができたら、宗教何世になるんだろう。子供がかわいそうとしか思えない。見切りをつけて出て行った人達、優秀すぎる。というかそれが普通で、自分のようにネタのためでなく移住してくる人間は何考えてんだか(村がここに移住者を送り込むのは癒着のため)。娯楽は賭け麻雀しかないし、買い物は週一の移動販売車で、品揃えも悪いしボッタクリ価格で最悪オブ最悪。金につられて移住して、後悔してる人も多い。』

 ある日は嘲笑、ある日は侮蔑と、毎日のように囲水での生活をこきおろしている。よくもまあ、と思うほど饒舌に攻撃する文章には、怒りを通り越して感心してしまう。それでも、悪意だけを読み続けるのは心地よいものではない。

 澱む胸に溜め息をつきながら、最新の記事を確かめる。『追い出されることになった』と題したそこには、おそらく囲水最後になるであろう悪意が綴られていた。

 『警察からうるさく言われるので、手短に。このブログの共同運営者がドSに◯された。写真家も。自分はこのブログを書いているのがバレて、追い出されることになった(元々ドSにはバレていて、閉鎖するよう迫られていた)。まあもう潮時だと思っていたし、このままだと次は自分なので逃げるが勝ちだ。

 一緒に逃げないかと声を掛けた人は、よせばいいのに教祖の目を覚まそうとしている。カルトから救い出したいらしい。カルトの産湯に浸かった生粋の信者が、神様しか知らない女が、神様のいない世界を選ぶわけがないのに。バカだ。

 では、さらば因習村。最低最悪の、狂ったカルト村だった。』

 コメント欄には予想どおり驚愕と恐怖に慄くコメントが並んでいた。囲水を害悪の極みのように罵ったり、歪な正義感から所在地を知ろうとしたりするものも少なからずあった。

 『これだから、田舎は最悪なんですよ。どこか知りませんけど、こんな場所が未だ日本にあることが恥です。』

 でも、私達がここまで言われることをしたのだろうか。

 私達はただ、古くから伝わる慣習を大事に守りながら山とともに生きてきただけだ。そこに移住政策を持ち込んだのは役場だし、「住まわせてください」とやってきたのは移住者達だ。私達は、確かに期待はしたが、強く求めたわけではない。

 それなのに、あらゆることに文句を言っては譲歩を求め、まるで「住んでやっている」と言わんばかりに要求を繰り返す。それでも私達は彼らができるだけ快適に過ごせるようにと心を砕いて、誠実な対応を続けてきた。その結果が、これなのか。このブログが彼らの本心なら、こんな風に故郷を汚されるのなら、もう誰にも来てほしくない。

 滲む画面に洟を啜り、頬を伝う涙を拭う。予想以上に堪えた悪意に顔を覆って泣き出した時、多希子、と背後から馴染みのある声がした。

 でも、しゃくりあげながら確かめた戸口に、その姿はない。

「訓史さん?」

 腰を上げて、障子へと向かう。てっきり事情聴取を終えて帰って来たのだと思ったのに、気のせいだろうか。障子を開けて確かめた廊下はいつもどおりの薄暗さで、訓史どころか誰の気配もない。でも、さっきは確かに。

「訓史さん」

 廊下に出てもう一度呼んだ時、背後で子機が音を鳴らす。急いで戻り応えると、大澤だった。確かめた時計はもうすぐ十時になる。実は、と抑えた声で切り出した大澤に、不安に揺れる胸を押さえて唾を飲んだ。

「杉ノ囲さんが、お亡くなりになりました」

 予想外の報告に、えっ、と変な声が出る。てっきり逮捕の報告だと思っていたのに、それ以上に最悪な報告だ。最悪すぎる。

「どういう、どういうことですか、どうして」

「動揺されるお気持ちは分かります。ただ、今は全てをお伝えすることはできません。申し訳ありません。その上でお伺いしますが……杉ノ囲さん、そちらに戻ってはおられませんよね?」

 大澤の問いは、落ち着かない胸を更に混乱させるものだった。戻っている? 死体が?

「……『戻っている』とは?」

「言葉どおりの意味です。実は、ご遺体が消えました。夕方頃に亡くなって死亡確認をし、安置室に寝かせていたのですが、忽然と」

 夕方死んだのに、連絡が今なのか。いや、それを責めるのはあとだ。冷静に、冷静に考えなければ。汗の滲む手で子機を握り直し、深呼吸をする。

「本当に、死んでいたんですか?」

「検視も済ませましたから、間違いありません」

「じゃあ盗まれたとか」

「侵入者の形跡もなかったんです」

 少し声をひそめた大澤に、私もなんとなく体を屈めた。あちらはどこで電話をしているのか、声が少し響いて聞こえる。

「あなたは、彼が犯人だと知っていたのでは?」

「いえ。ただ任意同行される前に、電話で『多分自分だけど記憶がない』と言ったのは聞きました」

 口にして湧いた違和感に、下手な言い訳をしているような心地になる。あれは、本当だったのか。でもそれならなぜ「記憶がない」のだろう。

「彼も私達に、同じことを言いました。じゃあなぜ自分だと言えるのかと尋ねたら、分からない、うまく言えない、と。それでも自白ではあったので、逮捕となったんですが」

 大澤は言葉を濁し、溜め息をつく。察せたものに視線を落とした。訓史は、自殺したのだろう。

「署内の防犯カメラ映像を確認しても、彼の姿はありませんでした。『忽然と消えた』としか表現できません。ただもし逃げ出したのならあなたのところに帰るだろうと、こうしてお電話を」

 その推測は、多分間違っていない。さっきの声は本当に、訓史のものだったのかもしれない。

「私達はまだ上の指示が出ていないので動けませんが、彼を見たらすぐに連絡を。あまりこんなことを言いたくはありませんが、十分に気をつけて。彼はもう、『彼ではない』かもしれません」

「はい、分かりました」

 神妙に告げる大澤に、小さく答えて頷く。最後に携帯の番号をやり取りして、通話を終えた。

 ……どうすればいいのだろう。

 いや、そんな風に考えていてはだめだ。私が「どうにかしなければならない」のだから。

 一息ついて髪をほどき、洟を啜りながら高い位置で結び直す。滲むものを拭って、無理やり気持ちを切り替えた。

 訓史が死んで遺体が消えたのが事実であっても、そのまま集落に伝えたら大変なことになる。死んだはずの訓史が戻ってきているかもしれないなんて、受け入れられるわけがない。だから知られる前に私が見つけ出して、説得……できるのかどうかは分からないが、話をしてどうにかするしかないだろう。

 ――愛してる、多希子。

 私にその思いを受け止められる器はないが、感謝している。力を合わせて囲水を守っていけたらと、願っていた。

 気を抜いた途端沈む胸に溜め息をつき、頬を伝う涙を拭う。やっぱり、すぐには無理だ。

 再び廊下へ出て、建てつけの悪い窓を押し開く。木々のざわめきと虫の声以外、何も聞こえない。見上げれば暗い山があり、更に視線を上げればさえざえとした夜空に輝く星が見える。明日は久しぶりに晴れるのだろう。

 冷えた空気に腕をさすった時、裏庭の奥でがさりと木々が揺れた。

「訓史さん?」

 思わず呼んでしまったあと、サンダルを履いて裏庭へ下りる。不意に吹き下ろした風が、傍らの秋明菊を揺らした。薄く伸びる影を踏むように、少しずつ奥へと進んで行く。

「帰ってきたの? 大丈夫、ここには私だけしかいないよ」

 声を掛け、また歩を進める。柔らかな苔の感触を靴底に確かめながら、音の聞こえた辺りまで辿り着いた。確かに、その向こうに誰かがいる気配がある。耳を澄ますと、荒い息遣いのような音が聞こえた。

「訓史さん」

「来るな」

 はっきりと聞こえた強い口調に、伸ばした手がびくりと揺れる。大澤は検視も済んだと言ったが田舎の警察だし、杜撰な検査だったのではないだろうか。死人の出す声とは思えなかった。

「近づくな。匂いで、抑えきれなくなる」

 続いた言葉が不意に揺らぎ、違う声が混じり込む。思わず、数歩下がった。

 ――……多希子ぉ。

 聞き覚えのある、粘りつくような声だった。でもあれは、山の怪の。

「俺は山に入るから、多希子は近づかないでくれ。それを言いに来ただけだ」

「でも」

「来るな、頼むから……喰いたくないんだ」

 苦しげな声で言い残したあと、音と気配は山へと消えていく。頬を伝い落ちる涙にたまらなくなって、しゃがみ込んで膝を抱えた。

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