第26話
昼間は晴れていた空が曇り、雨を降らせ始めたのは夜になってからだった。それから三時間ほど、雨は相変わらずの様子で離れの屋根を叩き続けている。天気予報では、夜半から明日に掛けて警報級の大雨になると言っていた。いつもなら囲水川が氾濫する可能性は低いだろうが、今は分からない。おいぬさまが土砂崩れや土石流を起こしたとしても、あるいは発生を引き止めなかったとしても、仕方のないことだ。
「どうして、そんなことをしたんですか」
「私も、罪に問われると?」
離れのソファで施術予約に斜線を引きながら聞き返すと、通話相手の大澤が溜め息をつく。捜査に必要だからとあの時あったことを全て話したが、最初に返されたのは礼ではなかった。
「そうではありません。ただ、あなたなら止められたはずだと言いたいだけです。人を癒す立場にあるあなたが、なぜ傷つける方に向かったんですか」
ここ数日で何度か話はしたが、だからといってこんな風に説教されるような関係性ではなかったはずだ。今度はこちらが溜め息をついて、腰を上げた。
「木谷さんは囲水を侮辱するだけでなく、囲水をネタにしてお金を稼いでいました。生まれ育った故郷を侮辱されて黙っていられるほど、私は寛大ではありません」
大澤が言うには、木谷は鼻骨と眼窩底を骨折し、顔を十五針近く縫ったらしい。でも別に、憐憫の情は湧かない。自業自得だとしか思えなかったし、胸が空いたくらいだ。殴った井上の母親は傷害罪になるらしいが、どうでもいい。いっそのこと、殴り殺してくれても。
杉ノ囲さんが、と口にされた名字にびくりとして、顔をさすり上げる。
「誰よりも囲水を愛しているのはあなただと言っていました。だから誰かがあなたを本気で怒らせないよう、自分がずっと注意してきたのだと。もし本当に怒ったら」
低く凄むような声に携帯を握り直した時、がらりと戸が開く音がした。
「多希子、おるか」
少し切羽詰まったように聞こえた声は、祖父のものだ。すみません、と大澤に断りを入れて、携帯を手にしたまま玄関へ向かう。電話が通じなかったから、呼びに来たのだろう。
「どうしたの」
「トキがおらんようになったって、さっき雅子んとこに連絡があったらしい。ハルがうたた寝しとる間に、どっか行ってしもうたと」
え、と短く驚くが、ありえないことではない。徘徊するから、寝る時には紐でベッドに繋いでいると聞いていた。繋がれていない状態なら、いくらでも出歩いてしまうだろう。
「何人か探しに出とるらしいけえ、お前も頼む。あの足だけえ、遠くには行けとらんはずだ」
「分かった」
祖父の要請に答えたあと、再び携帯に向かう。
「すみません。認知症の方が徘徊で家からいなくなったようで、探さないといけないので」
「ああ、後藤トキさんですか」
すぐ当てられた名前に驚いたが、刑事なんてそんなものなのだろう。
「そうです。では、失礼します」
少し早口の挨拶を最後に通話を終えると、まだ戸口にいた祖父が窺うような視線を投げた。
「大澤さん、刑事の。井上さんのお母さんが木谷さんをぼっこぼこにした件で、文句の電話かけてきただけ」
「ああ、そうか。なら頼むな。なんぞあれば、連絡してくれ」
祖父は納得した様子で頷き、傘を開いて暗がりの中へと消えていく。
――ちょうどええ。お前はちいと、優しすぎたわ。
あれを認めた祖父が、今更文句を言うわけはない。一息ついて、廊下のフックから派手な雨合羽を羽織る。念のために選んだ登山靴を履き、懐中電灯を手に外へ向かった。
時刻は二十二時、普段は誰も出歩かないような時間だが、今日はあちこちに懐中電灯の光が見える。雨合羽を打つ雨の音を割って、唸るような川の音が届く。それに紛れて、トキを呼ぶ声もいくつか聞こえた。
「勝治さん」
見つけた姿に、躊躇わず声を掛ける。数時間前にぶつかった相手だが、今はそんなことを言ってられない。ここにはそれよりもっと、大切なことがある。不意に思い出された大澤の言葉を押し戻し、街灯の下で指揮を執る勝治に頭を下げた。
「どうですか」
「まだなんも連絡はない。家の周りは真っ先に調べたらしいけどな」
「雨も強くなってきたし、心配ですね」
何より、川や用水路への落下防止柵は一部しかない。欄干がある橋も、一番大きなものだけだ。街灯の光だけでは、雨の降る今は視界が十分とは言えない。しかもトキは認知症で、足腰も弱っている。考えたくないことばかりが頭を巡った。
「私、田んぼの方に行ってみますね」
かつては稲を育てていたから、昔の習慣で足を向けているのかもしれない。
「ああ、頼む。それと」
続いた声に、足を止めて振り向く。頬に張りつく湿ったフードが、ひやりと熱を冷ました。
「宗吾が津川に連絡しようとしたけど、繋がらんて。お前とおったんじゃないんか」
「いえ、説明会のあとに別れたきりです。では」
改めて頭を下げ、暗がりの中を田んぼへと足をやる。蕭々と降り続ける雨の向こうに暗がりに呑まれた山をちらりと見て、向き直った。
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