第27話
トキは翌朝、用水路の金網に引っ掛かっているところを発見された。濁流の中をどれくらい流されたのか、引き上げられた体はかなり傷んでいた。夜だったし、特にこの雨だ。徘徊中に前が見えず落ちてしまったのだろうという考えは、警察も同じようだった。
「あなたは、今回の死にも神様が関わってると?」
大澤は数度目になる丸椅子へ座り、メモを手に視線を私へと滑らす。
「トキさんは徘徊中に落ちたんだって、さっきご自分が仰ったじゃないですか。全部おいぬさまに結びつけるのはやめてください」
トキは、囲水の住人らしい一生を送った。ここで生まれ育ち、ここで老いて死ぬ。粛々と働き、お勤めをこなして人生を終えたのだ。おいぬさまがお怒りになるわけがない。
「遺体は、いつ頃戻してもらえますか。葬式の準備をしないといけないので」
「後藤さんの方は、本日中にはお返しできると思いますよ」
引っ掛かる表現は、わざとだろう。無言で椅子に凭れ、溜め息をついて見せた。
大澤の背後には、カバーを掛けた施術台がある。通常どおりの対応ができそうにない状況に、一時休業を決めたのは昨日だ。でももう、ここでの再開は無理な気がする。笑顔の父が、脳裏でくすんだ。
「杉ノ囲さんの方は、お返しできるもんがないですからね。死亡届はご親戚の方にお渡ししましたが。彼の死は、住民達にはどう説明を?」
「警察のトイレで首の骨を折られて殺されたと、そのまま。ただ本人を含めた全員が『何か』に殺されたことになっていて、訓史さんの自白は伝えられていません」
訓史の自白をそのまま伝えていたら、勝治があそこで支持を得ることはなかっただろう。それを分かった上で、私も言わなくてもいいことだったと今も思っている。
「まあ、もうその方がいいのかもしれませんね。最早、真実がここに幸せをもたらすことはないでしょうから」
少し驚いて見据えた私に、大澤は苦笑で応えた。ああ、しまった。
「すみません。予想外の表現をされたもので。別にその……変な風に、思ったわけではなくて」
「構いませんよ、似合わないのは分かってますから」
慌てて言い繕ったが、大澤はちゃんと見抜いた上で笑う。多分、顔に出ていたのだろう。すみません、と小さく詫びて、肩で息をする。鳴り始めた携帯に、大澤は手刀で詫びて玄関へ向かった。私も腰を上げて、本棚の『葬儀次第』ファイルへと手を伸ばす。
トキの葬儀は多分、杉ノ囲が全面的にサポートする形で行うだろう。ただ、遺体のない訓史の葬式は結局どうするのか。
勝治は死亡届を受け取ったようだし、やっぱり御手座との間で密かに終わらせたことにするのかもしれない。不穏な死に方は伝えたから、今なら「住民を不安にさせないため」とでも言えば不審がられはしないだろう。その辺はまあ、うまいやり方ではある。
――多分、俺なんだ。記憶はないけど。
ファイルを閉じて、溜め息をつく。
結局、『言伝』の封書も謎を解く手掛かりも見つからないままだ。父は何かを察して、全て処分してしまったのかもしれない。この状況で推理したところで、考えられることなんて僅かしかない。
訓史が昔から憑かれていたとして、その理由はなんだったのか。「誰でもいい中で選ばれた」のと「訓史でなくてはならなくて選ばれた」のでは、全く違う。目的が最初から私にあったのなら、私に近づくのに一番適していると考えたからかもしれない。山の怪が私を求める欲望を愛情だと勘違いさせて、関係を結ばせた、とか。あり得る話だ。頷いて、ファイルを差し込んだ。
私のような女が、さしたる理由もなく男の目に魅力的に映るわけがない。夫も訓史も、そして津川も結局、「私」を愛していたわけではなかった。多分私は誰にも……いや、今は母がいる。私を選んで、戻ってきてくれたのだ。それで十分だろう。
胸に灯る熱を確かめた時、渋い顔をした大澤が戻ってくる。多希子さん、ともったいぶったように私を呼んで、じっと見据えた。
「昨晩から、あなたの婚約者である津川さんの消息が分からなくなっていると。部屋ももぬけの殻だとか」
私の反応をつぶさも見逃さないようにか、大澤は確かめるように言葉を繋ぎながら私を窺う。一息ついて、再び椅子に戻った。
「既にご存じだと思いますが、今ここはかつてないほどに揺れています。自分には背負いきれないと怖くなって、出て行かれたんでしょう」
「車にも乗らずに、ですか」
大澤も、同じように目の前の丸椅子に腰を落とす。まるで取り調べでも始まるかのような圧は感じたが、敢えて気にしないふりをした。
「最後に会ったのはあなただそうですが」
「そうですが、だから私が殺したと?」
苦笑で尋ねた私に、いいえ、と即座に返す。ぴくりと、目元が反応してしまったのが分かった。
「昨日の話の続きですが、杉ノ囲さんが言ってたんですよ。誰よりも囲水を愛すあなたを本気で怒らせたら、囲水が消えると。部下は矛盾だと鼻で笑っていましたが、私はあなたと話をしていたから理解できました」
じっと見据える私の視線を避けず、大澤は途切れた話の先を継いでいく。
「あなたは以前、無神論者が神域を荒らすくらいなら信心深い元の住民達とともに滅んだ方がいいとおいぬさまが考えているのかもしれない、と言いました。でもそれは、あなたの考えでもあるのでは?」
「いいえ。でも今は、おいぬさまが囲水の消滅を願われるのなら、もう止める気はありません」
ここにはもう、あるべき信仰も守るべき民もいない。許されなければ誰一人として存在できないのに、まるで自力で生きているかのような顔をする連中ばかりだ。
「杉ノ囲さんは、あなたの傍にいるのではないですか。あなたの『粛清』を手伝うために」
「そんなの、無理ですよ。それに訓史さんがここに戻ってきているとしたら、おいぬさまがお守りになっていらっしゃるはずです。私ごときに、どうにかできるわけがありません」
苦笑で返した私に、大澤は溜め息をついて腰を上げる。黙って玄関へ向かうあとを、見送りについて行った。
大澤は靴に足をねじ込みながら振り向いて、再び視線を合わす。鋭い視線の放つ圧に、密かにつばを飲んだ。
「彼らが許されるのに甘えて、好き勝手していたのは事実でしょう。でもそれは、命で償うほどの罪ではない。出て行かせれば済むはずです」
「昨日の会でもその話になりましたが、彼らは私達に慰謝料を求めました。私達の神がしたことの責任を取れと。厚かましいにもほどがあると思いませんか」
口から出た言葉は予想より冷ややかで、落ち着いていた。怒りが燃え上がるような感覚はないが、あれから腹の底で何かがずっとぼこぼこと湧いている。
「自分達が望んで移住しておきながら、私達のやり方を『田舎だから』だの『時代遅れ』だのと見下し、『あれはできない』『これはいやだ』と自分達の権利ばかりを主張する。仕方なくこちらが譲歩すれば譲歩したところまで詰め寄って、更にその上を寄越せと言い始める。彼らのために私達がどれほど道を譲り、心を砕いたと?」
「あなたの気持ちは理解できます。それでも」
「彼らは先導となっておいぬさまの祠を麓に下ろすことを求め、昨日それが決まりました。麓にあった簡易祠は、下手の方へと設置されるそうです。ここまで来なくても『簡単に』お勤めができるように」
遮って重ねた彼らの所業に、大澤は黙って私を見据えた。
「神はいつ、『人のために存在するもの』になったのでしょうか」
言葉にひそめたものは、ちゃんと伝わったらしい。諦めたように大澤は視線を落とした。
「この前、あなたが連れ去られた事件の資料を読みました。犯人の手掛かりは一切掴めず、幼いあなたの証言も非現実的であるとして、お蔵入りになっていました。あなたの証言も拝読しましたよ。子供の言葉だとしてもとても嘘をついているとは思えなくて、本当に神はいるのかもしれないと。今回は、杉ノ囲さんの件もありましたしね」
さっきまでの詰問するようなものとは打って変わった、大人しい口調だった。
「私のような部外者でも、おいぬさまに願えばあなたを止めてもらえるんでしょうか」
呟くように言いながら、大澤は再び私を見る。じわりと胸に滲んだのは、罪悪感かもしれない。
「私は、警察官ですから。犯罪を防げるのなら、どんなことでもしますよ。あなたは善良な人です。道を踏み外して、人生を捨てるようなことはしてほしくありません。どうか、踏みとどまってください。人でないものに、ならないでください」
目の前で下げられた頭に、思わず戸惑う。私に頭を下げて願う男性なんて、ここでは見たことがない。プライドを捨てても私を止めたいのだろう。絆されたわけではないが、気づくと腹の底で湧いていたものが落ち着いていた。まるで、憑きものが落ちたかのように。
大澤は私の表情を確かめるように眺めたあと、どこか安堵した様子で去って行く。裸足でたたきへ下り、そっと鍵を閉める。溜め息をついて顔を覆うと、涙が溢れた。なんのための涙かは分からないまま、しゃがみこんで泣く。
――人でないものに、ならないでください。
思い出せば胸に沈む痛みに、震える息を吐いた。
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