第25話

 あの二人は結局、尋常でない声に気づいて石段を駆け上った山師達によって引き剥がされていた。所詮女同士のケンカだと思っていたが、あの母親は大事な一人息子を奪われた憎さで容赦なく滅多打ちにしていたらしい。宗悟が私を呼びに来たのは、救急車が呼ばれたあとだった。

 ――お前が焚きつけたんじゃねえんか。

 報告の電話をかけた私に、勝治は苦々しい声を出した。いつもどおりの悪態だったのだろうが、今回に限っては当たっていた。

「昨日、訓史が警察に連れて行かれたその後についての報告だが」

 二日続けての説明会は、昼間の開催もあって木谷以外の住民が出席した。優大を連れた本城も、後藤姉妹もいる。私達の隣でパイプ椅子に座る久しぶりのトキは、姉のハル以上に老け込んでいた。口が半開きのせいかなんとも言えない臭いがして、落ち窪んだ目は焦点も定まらない。隣でハルが勝治の言葉を通訳するように繰り返すが、傍目には聞こえているのかどうかも分からなかった。

「昨晩のうちに警察署で殺された」

 事実を明かした勝治に驚いて、トキから前へと視線を移す。殺されたんだってぇ、と隣で律儀にハルが復唱した。

「ええと、すみません、どういうことですかね。自殺ではなく?」

 手を挙げて確認したのは、千村だ。いつも妻に任せっぱなしで一度も出てきたことがなかったが、さすがに今回はそうも言ってられなかったのだろう。定年後に民泊経営の夢を叶えるために妻と移住して七年、表向きは気さくなじいさんだ。ただ、その実はモラハラ夫でとにかくこすい。民宿の設備が壊れて水漏れ被害にあった時には、保険では補填しきれないふりをして私達に寄付を求めた。

「警察が嘘を言ったんじゃなきゃ、そういうことだ。トイレの個室で、首の骨折られて死んどった。ほんで、警察はもう手え引くらしい。月曜日にはここのあれこれも始末されるだろう」

 淡々と説明を続ける勝治は、今のところ嘘をついていない。ただ、なんの思惑もないわけではないだろう。それとなく隣を見ると、祖父が渋い顔で腕を組んでいた。祖父には、分かっているのかもしれない。今日は祖父の向こう隣に母と、津村が座っている。当たり前のようにこちらを選んだ津村に、複雑なものが湧いた。

「『訓史は犯人ではない』ってのが結論だ。じゃあ誰がってことになろうが、警察の目を縫ってトイレの個室に忍び込めるような人間がおればそいつだろうし、そうでなければ人間でないもんだ」

 ようやく挟まれた嘘に、住民達はざわつく。地元組も移住組も同じように、不安で揺れていた。これは、悪手ではないのか。下手をすれば祠が壊されることになりかねない。

 おじいちゃん、と小さく窺う私に、祖父は小さく頭を横に振る。仕方なく、また前を向いた。

「今回の件で移住を取りやめてもらっても、こちらは文句言わん。ただ支援だの補助だのは出せんから、各自でしてくれ」

「それは、勝手すぎるんじゃないんですかね。今回の一件は、ここに祀ってある神様がしたことなんでしょ。それなら、それを祀ってるあんた達に責任がある」

 慌てたように言い返す千村と目配せし合う移住者組に、ああ、とようやく腑に落ちた。おそらく、訓史が犯人なら「住めなくさせられた」慰謝料の名目で退去費用辺りを出させる話でも持ち上がっていたのだろう。補助金を返還してもなお、釣りがくるように。

 村役場から移住者に与えられる補助金は、世帯で百五十万、単身で百万。ただし受給には八年以上の居住が条件とされている。八年以内に移住を解消する場合は、居住年数に応じて金額を返還しなければならない決まりだ。でも、どのみち自分が稼いだ金ではないだろう。それを返すのが、そんなにいやなのか。

「いるものとして敬意を払ってくれと頼んだ時には祠を下ろせだの勤めをなくせだの言うといて、こうなったらこちらに責任を取れと?」

「当たり前じゃないですか。私達の神様じゃない、あんた達の神様でしょう。それなら氏子であるあんた達が、代わって詫びるべきだ。我々は被害者なんだから」

 とんでもない理屈に思えたが、移住者達が頭を縦に振っているところを見ると、それが総意なのだろう。バカなのか。

「なら、こちらは契約不履行で補助金の全額返還を要求するよう村に頼む。心当たりはあろうでな。あんたらのわがままに振り回されて、変えざるを得んかった決まりはようけある」

 勝治は、鼻であしらうように告げる。まあ、そうなるだろう。『住人の一人である自覚を持ち、地域の伝統や慣習を尊重する』『積極的に地域行事に参加する』をクリアできる移住者は津川くらいだ。予想どおり、千村は心配そうに腕へ触れた隣の妻を振り払って黙った。ここぞとばかりに御手座や杉ノ囲から金を引き出そうとしたのだろうが、やり方が卑しいのだ。

 勝治はおそらくこの企みを津川経由で知って、へし折るために話を組み立ててきたのだろう。悪くはなかった。

「ただ、山頂の祠は麓に下ろす」

 一瞬上がった評価をどん底まで突き落とす言葉に、思わず腰を浮かせる。

「何を言っとるんだ!」

 いつもどおり瞬間沸騰した上田の抗議は、復唱するハルの言葉に重なって聞こえた。

「そんなもん、お許しになるわけがなかろうが」

「ほんでも、今の山に登るんが不安な気持ちは無視できん。それに、これ以上礼儀知らずにおいぬさまのお膝元を踏み荒らされたら、わしらも訓史一人じゃ済まんようになるしな」

 感情的な怒りに返す勝治の答えは予想外に冷静で、御手座憎しのものでないのは伝わった。勝治の意見は一理ある。でもそれは、決して受け入れられるものではない。

「その意見が上がるのは理解できるが、どうしてこうなったのかを考えれば認めるわけにはいかん。訓史まで死んだのは、わしらが移住者達に迎合してしきたりを歪め、多くを許してしまったことをお怒りになったからだ。これ以上しきたりを歪めれば、それこそどうなるか分からんぞ。解決策は、おいぬさまへの無礼を改めてもらう以外にない」

 祖父は咳を挟みつつ、嗄れた声で反論する。

「人を殺した神を敬えと?」

「あんたは聖書を読んだことがないのか」

 振り向きざまに移住者達の隙間から言い返した千村を、さらりとあしらった。困惑の表情を浮かべた千村が未読なのは明らかだ。

「なら、読んでから文句を言いに来い」

 読んだらとてもそんな文句は言えなくなるだろうし、作り話だと言えば三大宗教の一つを敵にする。神は誰も殺さないなんて、幻想もいいところだ。

「それは御手座の意見として受け入れるが、御手座だけの意見かもしれん。ここには三十数人おるんだ、多数決がええだろう」

 これに多数決を取るのか。驚いて口を挟み掛けた私を、勝治の鋭い視線が塞いだ。

「この集落は、御手座だけのもんじゃない。お前らの偏った考えよりも大事なもんがある」

「変えていいもんもあるが、変えてはならんもんもある。お前は、おいぬさまへの個人的な恨みを晴らそうとしとるだけだろう。それにほかのもんらを巻き込むつもりか」

「俺は集落の長として言っとるんだ。それに、どちらが集落のためになるかは多数決を取りゃあええ」

 勝治は祖父を睨みつけたあと、再び住民達へと視線を戻す。

「祠を下ろすのに賛成の者は、手を挙げてくれ」

 挙手を募ると、次々に手が挙がり始める。どうしようかしらねえ、と隣でトキに相談するハル達が賛成しないところで、もう覆らない数だ。手を挙げなかったのは、私達以外には御手座一族と上田夫妻だけだった。まあ雅子は佐吉が挙げなかったからだろうし、和美も挙げなかった宗悟の顔色を窺ったのだろう。一族の離反がないのは、まだ祖父の威厳が健在だからだ。私では、こうはいかなかった。

「なら、決定だな。業者に連絡を入れて、なるべく早く下ろしてもらうようにする」

「どこに下ろすんですか?」

 ここに来て初めて口を挟んだのは、中尾だった。中尾夫妻は五十半ばで、子供が巣立ったあと脱サラして移住してきた。千村と同じく民泊を経営しているが、二軒の仲はあまりよろしくない。中尾の方は食事からインテリアまで徹底的に拘った高級感のある意識高めな民泊で、予約客は多くが若年層や女性客だ。小洒落た名前がついているものの、集落では「客の多い方」と色気がない。要は、売り上げて劣る千村が一方的に僻んで突っ掛かっているのだ。

「まあ、今の登山口にある麓のとこだろう」

「もし簡易祠と入れ替えるなら、簡易祠を下手の方に移設してもらうことってできませんか。御手座さんのお屋敷、ちょっと遠いので近くにあるとありがたいんですが」

「何を言って」

 耐えきれず発した私の腕を掴んだ祖父に、驚いて口を噤む。掴まれたのに驚いたわけではなく、昔を思い出させるような力強さだったからだ。

「これ以上の無礼には付き合えん。退席させてもらう」

 きっぱりと告げて腰を上げる祖父を支えて私も立ち上がり、続いた母や津川とともに帰宅を選ぶ。さっき手を挙げなかった住民達も、呼応するように私達に倣った。

「どうすんじゃ、じいさん。このまま好きなようにさせとくんか」

 玄関で草履をつっかけながら尋ねた宗治に、祖父は背後を一瞥してから私の腕を支えに歩き出す。

「今言ったところで、聞く耳がなかろう。人のために神がおると思っとる連中だ」

「おいぬさまは、わしらにまで罰をお与えになるんか」

「それは分からん」

 不安げに窺う上田に、緩く頭を横に振った。

「多希子! あんた好かれとるんだけえ、あんたが頼んだらええんよ。あんたの言うことならおいぬさまだって」

「やめなさい。そんな無理強いをすれば、余計お怒りになるのが分からんのか」

 いつもどおりの勝手さを見せる雅子を、佐吉が静かに窘める。集落のごたごたには常に一線を引いて参加しないが、やはり真っ当な人だ。定年まで隣の市にある大学で獣医を勤めたあと、隠居生活を送っている。九十になっても、皺だらけの手には幾筋もの傷跡が残っていた。

 途端にしゅんとなった雅子に、苦笑する。

「ですが、與一よいちさん。私もこのままおいぬさまの幣になるのには、躊躇いがあります。私一人なら構いませんでしたが、妻がいます。ここで心中するようなことになっては、生涯大切にすると誓った親御さんに面目が立ちません。囲水を出ていくことを、お許し願えませんか」

 淡々と告げられた願いに、雅子が少し驚いたような表情を浮かべた。妻を守るために、故郷を出るのか。それほどまでに大切なのか。羨ましい、と浮かんだものは押し込めて祖父を見る。

「ああ、構わん。宗治んとこも上田んとこも、外で暮らすんなら口は利く。本家と心中する必要はねえ。津川もあんたも、命が惜しいんなら出て行け」

「でも、多希子さんは」

 珍しく眉をひそめて返した津川に、祖父は私の腕を掴む手に力を込めた。

「多希子は御手座本家の跡取りだ。覚悟はできとる」

 躊躇いなく答えた祖父の言葉に頷いて、津川を見る。津川は、苦しげに表情を歪めた。

「おかしいって、どうして気づかないんですか。多希子さん、洗脳されてるんですよ。目を覚ましてください」

「津川さん」

「瀬能さんも井上さんも社長が殺して、自殺したんですよ。神だの山の怪だの言ってないで、もっと現実的に、常識的に物を考えたらどうなんですか!」

 必死に訴える津川に湧いたのは怒りや戸惑いではなく、情けか慰めのような感情だった。強張った表情も固く握り締めた拳も、目の前にある恐ろしいものを認めたくなくて、必死で目を逸らす子供のそれのように見える。

 視線で促すと、察した様子でみな私達を置いて去って行く。祖父も私の腕を手放し、少し不安な足取りで歩き始める。ただ母だけが、ちらりと振り向いて気遣わしげな視線をくれた。

「津川さんが私をここから『救い出したい』と思っているのは、知っています」

 気配が遠ざかるのを待って切り出すと、津川は少し驚いたあと私を見据える。

「でも私は、それを嬉しいとは思えないんです」

「だからそれは、洗脳されてるからなんです。ここから離れて、カウンセリングを受ければ分かります。神だのなんだの、そんなものに振り回されてるのがどれだけばかばかしいことなのか。この集落は、おかしいんですよ! 因習村って揶揄されるのも当然だ」

 二度と聞きたくなかった言葉に、胸が冷えていくのが分かる。代わりに腹の底がまた、ふつ、と音を立て始めていた。

 一息つき、訂正するつもりのなさそうな表情を確かめる。私達が彼らに求めたものは、そんなにも苦痛を伴うものだったのだろうか。これほどの侮辱が許されるほどに。

「私があなたに望んだのは、御手座本家の次期当主に就いていただくことだけです。この集落の改革者やご意見番になってほしかったわけではありません。私達が守り、受け継いできた集落の慣習をおかしいと思うのなら、出て行ってください。あなたに務まると思った私が、浅はかだったようです」

「多希子さん」

 冷ややかに言い放った私に、津川は眉尻を下げて慌てたように返す。私が笑って受け入れるとでも思っていたのか。少しは好ましく思えていたその態度が急に煩わしくなって、また歩き出す。不意に掴まれた手首に、苛立ちが湧いた。

「だめですよ、もうあそこに帰っちゃだめです! あんなとこに!」

 なぜ私が間違っていると、自分が正しいことをしていると思えるのか。

「どうしても私をここから連れ出したいのなら、おいぬさまに許可をいただいてきてください」

 手を振り解いて向き直り、突きつける。津川はまた、じっと私を見据えた。

「もしお許しになるのなら、無事に戻って来られるはずですから」

 視線を避けず、見据え返して笑む。信じていないのなら、何も恐れることはないはずだ。自分こそが正しいと信じているのなら。

 では、と小さく頭を下げて、今度はちゃんと家路に就く。道を滑る薄い影は私のものだけで、隣に追い掛けてくるものはない。

 皆深く敬い奉るを保つべし、偽りなき信心を保つべし。

 近づいてきた山に頭を下げ、石段を上がった。

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