第13話
幣を手に、懐中電灯で先を照らしながら裏山へ向かう。風雨にさんざめく木々の音がなんとなく怒っているように聞こえるのは、仕方のないことだろう。立て続けに禁忌を破り神域を穢したのだ。今更祈ったところで、どれだけ聞き入れてもらえるものか。私は多分、何もしなかったと思いたくないだけなのだろう。
辿り着いた麓の祠に、傘を閉じて幣を供える。懐中電灯を消せばどこに何があるのかほぼ分からないが、照らしたまま参るのは礼を失す。懐中電灯を消して姿勢を正し、柏手を打った。まずは井上の所業を詫びて、慈悲を乞う。時々頬を打つ雨粒を感じながら、かつて救われた日のことを思い出す。温かい熱と柔らかな感触が蘇ると、懐かしさに胸が締めつけられるようだった。
「おいぬさま、お願いします。どうか井上さんを無事にお戻しください」
改めて慈悲を願った時、誰かが手首を掴んだ。驚いて目を開くと、暗がりから伸びた手が絡みついている。白く浮き立った、男の手と腕だ。
おいぬさまじゃない。
「……多希子ぉ」
低く呼ばれた声に、ぞわりと総毛立つ。途端に蘇ったのは、あの日の記憶だ。聞き覚えのあるその声は、かつて私を拐かした山の怪の声だった。
だめだ、逃げないと。
助けを呼びたかったが、塞がれたように声が出ない。恐怖で硬直しそうな体を奮い立たせて足を踏ん張り、暗がりへ引きずり込もうとする力に抗う。でも五歳が三十三歳になったところで、得体の知れない山の怪に叶うわけがないだろう。半泣きで腕を引くが、とても外れそうになかった。
結局、こうなってしまうのか。
――あなたは連れていけないの。お父さんと仲良くね。
十歳の時、母は父と私ではなく見知らぬ男性を選んで家を出て行った。拐かしから戻ってきた私を抱き締めて泣いた時とは違う、晴れやかな笑顔だった。
あの一件で東京へ出たあと、母は少しずつ私を疎むようになっていた。夜中に度々父とケンカをしていたのを覚えている。母は山の怪に拐かされた私が、おいぬさまに救われた私が、そして嬉しそうにそれを話す私が、受け入れられないほど気味悪くなってしまったらしい。
――あの子は、「そういうもの」に気に入られてしまったんでしょ? もう「そういう子になってしまった」んでしょ? あなたはあんな不気味な場所で生まれ育ったから大丈夫なんだろうけど、私は違うの!
悲痛に響く母の声を薄いドアの向こうに聞きながら、声を殺して泣いた。
父は冷静に、時折感情的に答えていたが、夫婦仲が冷えていく様子は私の目にも分かるものだった。それでも私は、あの時助けてくれたおいぬさまとの思い出を悪いものには変えられなかった。ただ子供に、葛藤に折り合いをつけられるほどの度量があるはずもない。自分が存在するだけで壊れていくものがあると思い知らされる日々に、爪噛みがやめられなくなっていた。
「……多希子ぉ……多希子……」
私を乞うように呼びながら、山の怪は手首に爪を食い込ませていく。
母の言うとおり、私は気に入られてしまったのだろう。手に入れられなかったあの日から、ずっと次の機会を待っていたのかもしれない。それならもしここで逃したとしても諦めず、次を待つはずだ。そのせいでまた何かを壊してしまうくらいなら、あんな思いをするくらいなら、もう終えてしまった方がいいのではないだろうか。
最善策に思えた結論に、抵抗をやめる。引かれるままに足を進めてどこかへ吸い込まれそうになった時、突然重いものが覆い被さった。
「えっ、何?」
慌てて受け止めた何かを支え直そうとして、気づく。おそるおそる手を滑らせて確かめてみたそれは、骨ばった人の背だった。……まさか。
「井上さん、大丈夫ですか? 井上さん!」
いつの間にか開放されていた手で、ずるりと滑り落ちた体を慌てて支える。妙な感覚を抱きつつ、仰向けになるよう気をつけてそっと地面に寝かせた。申し訳ないが、支えたままでは顔の確認も連絡もできない。
一息ついて雨ざらしの顔を拭い、携帯で祖父を呼び出しながら懐中電灯で「おそらくは井上であろう人」を照らす。照らし出された光景に、短く吸った息が詰まった。……そういう、ことか。
「どうした、見つかったんか」
応えた祖父の声に我に返り、詰めていた息を長く吐く。
「井上さん『かもしれない人』の、遺体があったわ。訓史にも連絡して、麓の祠まで来て」
震える手で携帯を握り直し、掠れた声で伝えながらもう一度視線をやる。雨の中横たわっているのは黒いTシャツにジーンズの、痩せた、首のない遺体だった。
山の怪に襲われたのか、それとも。
痛みに思い出して確かめた手首には、くっきりとした爪痕が残っている。おいぬさまが、私を助けるために井上の遺体をぶつけてきたのだろうか。首を切り落としたあとの、遺体を。
――あの子は、「そういうもの」に気に入られてしまったんでしょ? もう「そういう子になってしまった」んでしょ?
耳の奥に響く母の声をどうすることもできず、灯りの端にぼんやりと照らされた祠を見つめた。
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