第12話

 祖父は居間で、日課のリハビリ中だった。まあリハビリ用のボールを握りながらテレビを観ているだけだが、ながら時間を利用する方法はハードルが低くて取り組みやすい。習慣になってしまえば、御老体でも続けられるのだ。ただ、今はそんな話をしている場合ではない。

「さっき、津川さんの施術してたんだけど」

 座卓の一辺で切り出した私に、ああ、と祖父はテレビの音量を下げた。

「うちの婿に入ってもいいって言われた。三男だし、ここで山師の仕事続けていくつもりだからって」

 私の報告に、驚いてボールを握る手を止める。

「それはまた、思わんとこから話が来たな。お前に惚れとったんか」

「いや、そこまでじゃないと思う。今日の説明会で思うところがあったみたいよ。で、どう思う?」

「ええんじゃないか。津川ならよう馴染んどるけえ、移住組でも文句は出んだろ」

 現当主の許しに安堵して、一息つく。これでひとまず受け入れ態勢は整った。もちろんこれから津川に「やっぱり無理」だと言われる可能性はあるが、相手探しが一番大変なのだ。今はとりあえず、見つかった喜びに浸りたい。津川にも報告しておこう。

 ほんで、と聞こえた声に緩みきった顔をもたげると、祖父は神妙な表情で溜め息をつく。

「お前、訓史とはどうなっとる」

「えっ」

 まさかの話題に、分かりやすく慌てる。説教の予定は、この話でチャラになったかと思っていた。死ぬほど気まずい。

「どうって、別に……付き合ってるわけじゃないし大丈夫だよ。話せば分かってくれる」

 祖父から視線を逸らしたまま答えると、また溜め息が応えた。

「あいつは、そんな物分かりのええ男じゃねえぞ。お前を見る目つきも、昔からちいと変わっとる」

 苦々しげに言いながら、ポロシャツの胸ポケットから煙草を取り出す。最後の一本を咥えて引き抜くと、くしゃりと握り潰した。

 それでも受け入れてもらわなければ、うちも集落も立ち行かなくなってしまう。そんなわがままを訓史が通そうとするわけがない。

 ――多希子がほかの男のものになるくらいなら、このままでいい。

 あれは少し、投げやりになっただけだろう。近づきすぎて、離れてはいけないような気分になっただけだ。距離を置けば熱も冷める。触れなければ、会わなければいずれ消えていく。

「なんか、昔からいい匂いがするらしいよ。桃のような花のようなって言ってた」

 さすがに睦言の「食いたい」を報告するのは憚られて、苦笑でごまかす。

「匂い、か」

 祖父の反応に、驚いて顔を上げる。心当たりがあるのか。

「何か知ってるの?」

「なんもない」

「ほんとに?」

 身を乗り出して窺った私に、祖父は溜め息をついてライターを手にした。

明與あきよが、そんなことを言っとったような気がしただけだ」

 ぼそりと返して、少し震える手で煙草に火を点ける。……父が。

 ――もう囲水には帰って来んでええぞ。お前は、お前の人生を生きなさい。

 父は、何をどこまで掴んでいたのだろう。私が継がなくても済む道を、もう見つけていたのだろうか。だから、おいぬさまに。

「ごはん、作ってくるね」

 窄んだ目を細めて煙を吐く祖父を見つつ、腰を上げた。

 ぼんやりと灯りが照らす廊下の窓に、疲れた表情が映る。とても、喜ばしい申し出に安堵しているようには見えない。今日はもう、うどんを啜って眠ろう。考えればどつぼにはまりそうな全てを押し込めて、暗がりに沈む台所を選んだ。


 布団の上で携帯が揺れ始めたのは、風呂にも入って寝る支度を整えていた時だった。メールではなく着信だ。表示された『木谷さん』に不穏なものを感じながら、通話ボタンを押した。

「井上くんが山に行くって出てったきり、まだ帰って来ないの。携帯鳴らしても出ないし」

 応えるやいなや溢れ出た訴えに、驚いて視線を机へやる。〇時すぎを示す時計に、血の気が引くのが分かった。

「山って、うちのですよね? 何時に出たんですか?」

「説明会が終わったあとだから、八時くらい。ビデオカメラ持ってうちに来て、動画撮ってくるって」

「動画?」

 自ずと眉根が寄るのが分かった。警察の捜査が終わらず立ち入りすら許可されていない山に、禁忌を犯すために入ったのか。

「どうしてそんな、ことを?」

 「愚行」と言いそうになって慌て、無難な単語に切り替える。

「それはまたあとで説明するから、今は探してもらえないかな。多希子ちゃんなら、山に慣れてるし大丈夫でしょ?」

「慣れてるって言われても」

 慣れているからこそ、入ってはいけない時や状態を知っているのだ。山に照明はなく、断続的に続く雨のせいで地面もぬかるんでいる。夜半になり風も強くなってきた。こんな時に「分かりました」で足を踏み入れられるような場所ではない。

「今私が入っても、遭難者が二名になるだけです。ひとまず訓史さんに相談して、警察へ通報します。木谷さんは携帯に連絡し続けて、もし反応があれば教えてください」

「……分かった。じゃあ、急いでね」

 不満げだったが、これ以上の約束はできない。木谷が通話を終えてすぐ、祖父の部屋へ向かいながら訓史の携帯を鳴らす。今これ以上死人を出すのはまずいが、それは「私達に止められること」なのか。

 訓史が応えたのは、ちょうど祖父の部屋に着いた時だった。

「ごめん、夜に。さっき木谷さんから電話があったんだけど」

 部屋に入りながら話し始めた私に、就寝中だった祖父はゆっくりと起きて部屋の電気を灯す。数度ちらついたあと、青白い光は神妙な顔つきの祖父を照らした。

「井上さんが説明会のあと動画撮るってうちの山に入って、まだ戻ってきてないって。もう四時間くらい経つみたい」

「動画?」

 やはり、引っ掛かるところは同じらしい。私達には、ありえない所業だ。

「うん。どうしてかはまたあとで話すって、教えてくれなかった」

「分かった。ひとまず俺が通報するから、多希子はじいさんと待機しててくれ」

 訓史は端的に伝えて通話を終えた。

「あいつは、何を考えとるんじゃ」

「ネットで公開して、この集落はおかしい! って貶すつもりだったのかもね」

 そんなことをしたところで、こんな田舎だ。誰の興味を引けるわけでもないだろうに、何をするつもりだったのか。

「おいぬさまは、お許しにならんわ」

「そうかもしれないけど……私、ちょっと麓の祠までお願いに行ってくるよ」

 意図的に無礼な振る舞いをした井上を庇う理由は、正直ない。二十七歳にもなってしてはならないことの線引きすらできない、どうしようもない奴だ。でもだからといって、死んでもいいとは思わない。それなら、慈悲を乞うしかないだろう。

 嘆息して煙草を咥えた祖父にあとを任せて、一旦部屋に戻る。パジャマを部屋着に替えてウインドブレーカーを羽織り、髪を一つに結んだ。

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