第20話
訓史が携帯を鳴らしたのは翌朝、まだ朝食も食べ終えていない時間だった。
「どうしたの?」
食卓に祖父と母を残して腰を上げ、居間を出ながら応える。
「すまん、多希子。警察が来た」
抑えた声で告げられた異常事態に、障子に触れた手が揺れた。
「任意らしいけど、もう戻って来られないかもしれない」
「でもそんなの、おかしいでしょ」
声をひそめながら障子を閉めたあと、その足で上がり框を飛び下り靴に足をねじ込む。急いで玄関戸を引き、清々しさに満ちた空気の中へ飛び出した。
「誰かを犯人にしないと終われないんだろう」
「じゃあ私がなるよ。私だって、疑われてるんだから!」
湿った敷石を蹴り、杉ノ囲への道を急ぐ。普段以上に前庭の広さに苛立つが、どうしようもない。
「それはだめだ、多希子じゃないんだから……多分、俺なんだ。記憶はないけど」
「記憶って、ちょっと、もうすぐで着くから待ってて!」
ようやく辿り着いた石段を駆け下りながら、半泣きで引き止める。
「愛してる、多希子」
初めて聞いた台詞に、舗装も半端な細道を走る足が止まった。答えを待たず切れた携帯を下ろし、西の山麓に杉ノ囲の大屋敷を見上げる。うちの石段より広く長い石畳のスロープは、敷地内の社屋や駐車場へも車が上がれるようになっている。その上り口には、既に異変を察知したらしい住民達が集まっていた。どうも、警官が上がらないように引き止めているらしい。
近づく私に気づいた住民達が、新たな獲物を見つけたかのように駆け寄って来る。
「どういうことだ、お前はなんか知っとるんか!」
「朝っぱらからこんな、何があったんよ」
いきなり喧嘩腰に叩きつけた勝治に、景子が続く。二人とも杉ノ囲だから、当主が任意とはいえ警察にしょっぴかれるのは大問題なのだろう。
「私も、任意で連れて行かれるとしか聞いてません」
続いたあの告白は、聞かなかったことにする。訓史は、人を殺せるような男ではない。たとえ記憶が……ないなんて、あり得るのか?
――多希子。
再生された声にぞっとして、手首を見る。まだ消えない痣と傷跡を撫で、あの時のことを思い出す。声は訓史のものではなかったが、手はどうだっただろう。でもあんな風に引っ張れば体や顔が見えていたはずだ。腕だけなんて、できるわけがない。
出てきたぞ、の声に我に返り、スロープの際まで駆け寄った。警備の警官達に防がれた向こうを、訓史を乗せた覆面パトカーがゆっくりと下りてくる。その後ろにはもう一台、まるで犯人を護送するようだった。
訓史、と荒い声を上げる住民達に背を押されながら、呆然と去って行く車を見送る。訓史は一度もこちらを見なかったが、助手席に座っていた大澤とは目が合った気がした。
「あの、いつ帰って来るんですか」
テールランプから視線を戻し、こちらも帰路に就きそうな警官に尋ねる。
「捜査次第なので、お答えできません」
「ほんでも目安くらいは分かろうが」
「お答えできないんです、すみません。では」
相変わらずの口調で叩きつける勝治にも同じ調子で返し、もう一人と連れ立って帰って行く。
「ほんに融通の利かん奴らだわ」
「面倒なことになったな。どうするんじゃ多希子、今日はまた説明会だろうが」
舌打ちをする勝治の背後から、さっきはいなかった宗治が尋ねる。訓史がいない以上、誰かが役を務めなければならない。瀬能と井上の事件経過についてはもちろん、木谷と母の挨拶もある。
「仕方ないので、今日は私が」
「御手座がせんでええ、長の役は杉ノ囲のもんだ。今日の説明会はわしが仕切るけえ、訓史から聞いとることを全部話せ」
遮った勝治に、いつの間にかこちら側に来ていた宗治が隣で野太い腕を組んだ。朝から漂う獣臭さに辟易しながら、勝治を眺める。これが、本家を超える最初で最後のチャンスだろう。
「分家のじじいにようやくお鉢が回ってきたな」
「やかましい。杉ノ囲は、
「勝治さん」
聞き流せない侮蔑に勝治を見据えると、すっと黙った。失言は、自覚してもらわなければ困る。
「相変わらず、気味の
打ち破られた暗黙の了解に、趨勢を見守っていた住民達は即座に目配せし合った。
勝治は、私が許せないのだろう。拐かしに遭いながら、無事に助け出された私が。でも今は個人的な怨恨で、結束崩壊の引き金を引くべきではない。
「では、説明会の話をしますので、会社の算段がついたらうちに来てください」
しんと静まり返った群れを横目に踵を返すと、すぐ先に津川が立っていた。驚いて足を止めた私に、苦笑で応える。さっきのを聞いていたのだろう。ただ、ここで声を掛けるのは良くない。軽く会釈をして傍らをすり抜け、家へと急いだ。
揺らぐ杉ノ囲を支えるには、御手座が安定を見せなければならない。結婚の発表は、急いだ方がいいだろう。歩きながら津川にメッセージを送り、溜め息をつく。さっきから収まらない胸騒ぎは、恋の高揚とは程遠いものだ。なんであんな言葉を置いていったのか。今は最悪の結末を迎えるための布石にしか思えない。
石段を駆け上ったところで足を止め、荒い息を吐きながら屋敷の奥に山を見上げる。
――多分、俺なんだ。記憶はないけど。
本当にそんなことがありえるのなら、もし山の怪が訓史を操っていたのなら、おいぬさまは知っているはずだ。知っていて。
……今はやめよう。
深く考えれば何もできなくなりそうで、思考を切り上げる。汗の冷えた額を拭い、母屋まで走った。
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