第21話
勝治に先駆けて訪れた津川に、発表の前倒しを打診する。久しぶりの来客だったが、客間はきれいに整えられて庭の花まで活けてあった。母がしてくれたのだろう、私にはできない芸当だ。
「杉ノ囲が揺らいでいる今、御手座は盤石であることを示す必要があるんです。明るい話題を入れて、住人達を落ち着かせないと。急かしてしまって申し訳ありませんが、構いませんか。顔合わせや結納などは、ちゃんと順序通り行いますので」
「分かりました。確かにちょっと異様な雰囲気になってますもんね、今」
津川は迷うことなく了承して、座卓の向かいでほうじ茶を啜った。上座に着いた津川はまだ若く貫禄も足りないが、それはこれからでも十分に間に合う。
「ありがとうございます、助かります」
申し出は津川からだったとはいえ、いつ気が変わられてもおかしくない状況になっている。変わらない意志がありがたかった。隣へ滑らせた視線に、祖父も安堵した様子で頷く。
「でも、お家の方は大丈夫なんですか? ご両親にはご報告を?」
背後から聞こえた声に、全員が視線を向ける。母は私達の視線を受けながら、早すぎて不安になられるんじゃないかしら、と言い足した。
「大丈夫だと思いますよ。結婚もメールで報告したら『分かった、任せるから好きにしなさい』って返って来ました」
息子の婿入りをメール一本で了承とは、さすがにカジュアルすぎないだろうか。あとで何かあったら、家同士で話をしなければならない。
「うちの親、これまでも全部こんな感じだったんです。だから明日入籍したとこで、文句言うことはないと思いますよ。事情があるなら特に」
こちらの動揺に、津川は内情を明かす。どことなく諦めたような笑みに三男の境遇を察し、それ以上は何も聞かないことにした。
「随分、自主性に任せるご両親なのね。共働きなの?」
「はい、そうです。父は大学で物理を教えていて、母は税理士で事務所を経営してます」
「すごいですね。格好いい」
自分の力で人生を切り拓いていける、パワフルで自立心旺盛な女性は昔から憧れのタイプだ。まあ私には、足りないものが多すぎるが。
「ありがとうございます。それを聞いたら喜びますよ」
表情が明るくなったのを見るに、母親を嫌ってはいないのだろう。多分、少し寂しいだけで。私と同じだ。
「じゃあ、また説明会で」
「はい、よろしくお願いします」
腰を上げた津川に続いて立ち上がり、玄関先まで見送りに出る。戸口の母親が不機嫌そうな顔をしていたのは気になったが、今はこちらが先だ。
「しばらくは、いろいろとお願いすることになると思います。忙しくなりますが、よろしくお願いします」
「分かりました。それで日曜日なんですけど、駅で待ち合わせして隣の市まで映画観に行きましょう」
提案された予定に一瞬、足が止まりそうになる。この状況でも遂行するつもりなのか。訓史がいつ帰ってくるのかは分からないが、とても楽しめそうにない。
「少し、延期しませんか。こんな状況ですし」
「こんな状況だからですよ」
津川は変わらぬ速度で歩きながら、肩越しに私を一瞥した。
「ここでネガティブなものに揉まれ続けてたら、心が折れますよ。外の空気を吸いに行きましょう」
続いた理由に、ああ、と納得する。私を気遣っての選択か。これまで受けてきた気遣いとは少し違う向きのそれに、戸惑った。ええと、と困惑をそのまま口にすると津川は笑う。
「自分のために使う時間も大事ですよ。集落やおいぬさまの犠牲になる必要はないんだから」
敷石の際に植えられたリュウノヒゲを踏まないように、スニーカーの足は前庭を進む。ああそうか。津川は囲水の人間ではないから、私が不憫に思えてしまうのだろう。ありがたくないわけではないが、それは間違いだ。
「それは違います。杉ノ囲は集落の存続のために、御手座はおいぬさまに仕えるために存在する家です。『御手座』という苗字は、幣の意味を持ちます。今はもう分家にはそこまで望みませんが、本家は変わりません。私達は役目をこなしているだけで、犠牲になっているわけではないんです」
与えられた役目に反発するなら、今ここにはいないし再婚なんてまずしない。私は望んで、ここへ戻ってきたのだ。
「じゃあもし、おいぬさまが『死ね』と言ったら死ぬんですか」
「おいぬさまは厳格な神様だと言われていますが、理不尽な理由で命を奪うようなことはなさいません。もしそう仰ることがあるとするなら、私達が道を踏み外した時ですから従います。特に私は、一度救われた身でありながらそれを忘れて驕ったということですから」
まっすぐ私を見据える津川に、視線を避けず答える。破談になるかもしれないが、これを受け入れられないなら結婚したって続くわけがないだろう。それなら、発表する前の方がありがたい。
「受け入れられないのでしたら、今ならまだ」
「いえ、むしろ早く結婚したくなりました」
控えめに提案した破談に返されたのは、逆方向の希望だった。驚いた私に津川はにこりと笑って、ぐるりとここにあるものを見渡す。母屋と離れ、蔵、そしておいぬさまの山。
「俺がこの家ですべきことが分かってきましたから。じゃあ、日曜の予定はまた連絡します」
何を決意したのか分からないが、満足した様子で帰っていった。
これで、いいのだろうか。婿入りの申し出は、本当にありがたいと思っている。でも津川に託したいのは伝統の維持であって、改革ではないのだ。私個人のことを考えてくれるのは嬉しいが、それはおいぬさまや集落の次であると知っていてほしい。訓史ならこんなことを、と浮かんで溜め息をつく。比べるべきではない。育ちも立場も、私との関係性も何もかも違う二人だ。
――愛してる、多希子。
今更になって堪える言葉に目を閉じ、息を吐く。あの時黙ってしまった私に、訓史は何を思っただろう。帰ってきたら、改めて話をしよう。顔をさすり上げ、再び客間へ向かう。不服げだった母の表情を思い出して、足を速めた。
「あれ、お母さんは?」
暗い客間から出てきた祖父に尋ねると、ふん、と祖父は鼻で笑う。
「お前を津川に取られるんが、よっぽど気にいらんのだろう。ぶつくさ言いながら出てったわ」
まさかの理由に驚き、慌てて踵を返す。多希子、と呼ぶ声に足を止めて振り向いた。
「早う追い返せ。あの女はお前のためにならん。このままだと結婚しても苦労するだけだ」
「大丈夫だよ、ちょっと依存しがちなところがあるのは分かってる。おじいちゃんや津川さんの迷惑にならないように、私がなんとかするから」
「多希子」
「お母さんは、ここでもう一度やり直そうとしてる。チャンスは与えないと」
失敗を受け入れて戻ってきた人を、突き放すようなことはしたくない。ここでのやり直しが難しいのは分かりきっている。母には、支えが必要だ。
「与えて、また裏切ったらどうする。また無理だと出て行ったら。情を掛ければ掛けるほど、傷つくのはお前だ。わしは……見たくないんだ」
俯いて苦しげに呟く祖父に、掛ける言葉が見つからない。私は大丈夫とか自分で責任は取れるとか、そんな答えで片付く問題ではないだろう。
黙ったまま手を伸ばし、枯れた腕をさする。やすやすと私を抱き上げてくれた若さはもうない。それほど長い時間が残されていないのは、本人でなくとも分かっている。余計な心労を掛けるべきではないことも。でも。
「何も問題を起こしてない人を追い出せないよ。何かあれば、その時はすぐに出て行ってもらうから」
今出せる妥協案は、これくらいだ。祖父にとっては望ましいものではないだろうが、これ以上は公正さの面から見ても難しい。小刻みに頷く祖父の腕を取って支えながら、部屋まで送る。孫としてできることは、こんなことしかなかった。
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