第16話

 二度目の第一発見者となった私は、やはり祖父よりしっかりと事情聴取されていたらしい。情報のすり合わせは、私から伝える量が圧倒的に多かった。最後に大澤からの指示を伝えると、祖父は渋い表情で短くなった煙草をにじり消す。

「警察は、訓史を疑っとるんか」

「訓史さんだけってわけじゃないよ、私もまだ疑われてるみたい。解決するまでは、どんな可能性でも捨てないんだって」

「大仰な奴らだわ」

 行儀悪くちゃぶ台に肘を突き、私の淹れた梅昆布茶を啜った。

「おじいちゃんは、おいぬさまの罰だと思う?」

「そうだな。殺したのは山の怪かもしれんが、おいぬさまがそれを許しとられるわけだけえな」

「そうだね」

 頷いて、私も湯呑みを傾ける。ぼんやりと思い浮かんだ父に、温もった息を吐いた。

「お父さんが何をしようとしてたか、知ってる?」

「はっきりとは知らんが、予想はできる。でもそれは、口に出せば形になってしまう。不穏なものに形を与えてはならん」

 神妙な祖父の言葉に、私と訓史の関係もそれなのだとようやく察す。確かに「跡取り同士が相手も見つけず体の関係を続けている」と誰かが言おうものなら、集落はネガティブな方向に大きく揺れてしまうだろう。

「説明会で見ただろう。一人が耐えられず不安を口にした途端、一気に伝染する。結束の強い場所は、ええことも悪いことも全部共有してしまう。若いもんは息苦しゅうて出て行ってしもうたが、この結束力があるけえこんな雪深い不便な場所でも今までやってこれたんだ」

 一世紀近く歴史を見てきた重鎮の言葉に頷く。いつの間にか風雨は止み、辺りは静まり返っていた。

 父があのまま私に跡を継がせないために抜け道を探っていたとしたら、それを探り当てて発表したとしたら、集落が混乱に陥るのは私でも容易く想像できる。ただでさえ柔軟性と想像力に欠ける人間性が、年齢を重ねてより強固になっているのだ。一人が恐怖に駆られてゴルフクラブを振り上げたら、周りもそんな気分になって続いてしまうかもしれない。集団ヒステリーが起きやすい場所なのは間違いない。だから、と続けそうになった思考を切り上げる。

「そうだね。できる限り、不安や恐怖で悪い方に団結しないようにしないと」

 一息つき、揺れる水面に映り込む照明の輪を眺める。輝くそれを壊すように揺らして、口へ運んだ。


 二度目の歯磨きを終える頃には三時になっていて、今日の睡眠はほぼ諦める。明日のお勤め当番は中尾だが、さっき中止のメッセージを送っておいた。すぐに返事が来たから、眠れない夜を過ごしていたのだろう。幸いと言ってはいけないが、今は民泊二軒に宿泊客はいない。もう少しして紅葉が始まるとひっきりなしだから、タイミング的には救われた。野次馬は、少ない方がいい。

 鏡に映る酷い顔を確かめて、洗面台から体を起こす。

「多希子」

 掠れた声と同時に映った黒い影に、短い悲鳴を上げた。

「俺だ、多希子」

 背後から腕を絡めて宥めたのは、訓史だった。二度目の名前は、ちゃんと馴染んだ声がした。

「……びっくりした」

 どくどくと打つ胸を押さえて、溜め息をつく。勝手知ったる他人の家で、訓史が呼び鈴を鳴らさず入ってくるのはいつものことだし、私も似たようなことをしている。ただ、今のは心臓に悪かった。さっきの掠れた声は山の怪のものとよく似ていた、気がした。多分、疲れているのだろう。もう三時過ぎだ。

「事情聴取の話?」

「それは明日でいい。一緒に寝たい」

 それとなく解こうとした腕がまた絡まって、力を込める。本当はもう突き放すべきだが、大澤の言いつけもあるし今は現状維持を選ぶしかない。でも、全て同じでいるのは無理だ。

「もう二時間くらいしか眠れないんだから、何もしないでよ」

「十分で終わらせる」

「だめです」

 苦笑でかわし、今度はちゃんと腕から抜け出して部屋へ向かう。訓史は黙って続き、部屋に入ると後ろ手に障子を閉めた。

「説明会で助けなかったの、怒ってるのか」

 予想外の拗ねた口ぶりに、押し入れから布団を下ろす手が止まる。そんなこと、言われてようやく思い出すレベルで忘れていた。

「そんなことないよ。あそこで訓史さんが口を出したら、余計面倒くさいことになってた。それならむしろ、刑事さんに私には何も聞くなって口走ってた方が問題だよ。井上さんが話題にした時、ひやっとしたんだから」

「向こうのいいように丸め込まれそうで、心配だったんだよ」

 諫める視線を向けると、訓史はばつが悪そうに項をさすった。

「しばらくは、ばたばたして落ち着かないね」

「そうだな。俺は当分、あらゆるところから叩かれまくる」

 うんざりしたように予言された未来は、当たるだろう。

 訓史は傍へ来ると、心持ち離して敷いたばかりの布団を隙間なく寄せた。これをまた離したらまずいのは、私でも分かる。だから、と手が私を抱き寄せ、いつものように首筋の匂いを嗅ぐ。

「慰めてくれ。多希子にしかできん」

 くぐもった声に視線を落とし、抱き崩されて天井を見上げる。訓史は体を起こして灯りを落とし、常夜灯の下でシャツを脱いだ。

 私、津川さんと結婚するの。

 喉で膨れる言葉を飲み込み、視線を逃す。触れる手は温かいのに、胸には罪悪感だけが溜まっていく。やっぱり、無理だ。もうやめた方がいい。

「訓史さん」

「津川と、なんかあったか」

 訓史は私に絡みついたまま、首元で尋ねる。温かい息が、首筋を温めた。いつ、なぜ気づいたのか。

「同じ女を目で追ってれば、気づきたくなくても気づく」

 少し起こした私の体をまた組み敷いて、訓史は私の上で体を起こす。手首を強く握られると、傷跡が痛んだ。機転を利かせてうまく切り抜ければいいのだろうが、あいにく私は決して賢くはない。それに、ここでごまかすのは、誠実に徹すより悪手に思えた。

 細く息を吐いて、影の中に埋もれて合わない視線を探す。こちらからは見えなくても、見えているはずだ。

「今日、婿に入ってもいいって言われたの。ありがたいから、受けようと思ってる」

 まっすぐに見上げて伝えた決断に、訓史は黙ったまま腕に力を込める。痛みに眉を顰めると、少し力が抜けた。

「それでいいのか。惚れてもない男と結婚して」

「惚れてるかどうかより、信頼できるかどうかの方が大事でしょ。津川さんならじじばばや山師達にも好かれてるし、いい当代になってくれると思う」

 木谷と寝ていたとしてもそれはそれ、私だって今なおこんな状況だ。責められないし、責めるつもりもない。

「だから、こんなことはもう」

「俺と別れる必要はないだろ。結婚して、あいつを当代に据えさえすればそれでいい話だ。多希子が母親なら、どっちの子を産もうが構わない」

 訓史は私を見下ろしたまま、とんでもないことを言い出す。でも今はもう戦争に夫を取られる時代でも、男を産むために種を変える時代でもないのだ。

「……そんなわけないでしょ」

「俺を切るつもりなら、津川をここから追い出すぞ」

 訓史は体を崩し、すぐ間近で凄むように零す。好意的な解釈などできない、脅しとしか受け止められない言い草だった。私の知っている訓史とは別人に思えるほどの豹変ぶりに、初めて血の気が引く。こんな悪意をぶつけられる男だったのか。

「なんで、そんなことばっかり言うの」

「それは俺の台詞だ。俺が惚れてるのを知ってて、よくほかの男との結婚話ができるな」

「惚れてはないでしょ。ただ少し情が移って」

「それは多希子の願いだろ。それに、深入りを嫌う理由は本当に家のせいか?」

 苛立ちを含んだ声が、窘めるものに変わる。痛いところを突かれて、何も返せず視線を逸らした。

 赤みがかった暗がりの先に、使い古された鏡台がぼんやりと見えた。祖母の形見だ。祖母は正月に父と私が帰ると、ここで髪を結って着物を着せてくれた。

 ――多希子はきれいな髪をしとるねえ。きっと婿さんも気に入ってくれるよ。

 ごく自然に、当たり前のように、私は婿を取るものとして育てられた。

 ――もうあそこやあの子の、何もかもが気持ち悪いのよ!

 母の声を思い出せば、髪を梳いてくれた祖母の手も抱き上げてくれた祖父の腕も父の笑顔も、全てが押し潰されていく。母が私の名前を呼ばなくなったのは、いつからだったか。

「ごめんなさい。私に問題があるのは分かってる。でも、私はこれでいいの」

 生理的嫌悪感を乗り越えられなかった母は、「母親失格」なのか。どんな状況でも子供を置いて家を出ることは、傍に置いて突き放し続けるよりも許されないことなのか。

 誰よりも傷ついたのは、母なのに。

 溜め息をついて体を起こし、薄暗い中で訓史と向き合う。

「私のことはもう見捨てて、憎めばいいから」

 自分勝手なのは分かっていて、これまでどおり付き合いたいなんて言うつもりはない。何かを選ぶためには、何かを犠牲にせざるを得ないこともある。それは、受け入れるべきものだ。

 溜め息が聞こえて、知らず伏せていた視線を上げる。

「見捨てて憎めって言われて、すぐにできるほど薄っぺらいと思われてるんだな」

「そういうわけじゃないよ、ただ……ごめん、うまく言えない」

 胸に蟠るものを言葉に変えるのは難しい。「できる」「できない」より「そうしてほしい」が近いかもしれない。

「俺は多希子の母さんとは」

「お母さんのこと、悪く言わんで」

 反射的に遮ってしまったあと、気まずさに俯く。それでも、違う。母が悪いわけではない。母は犠牲者なのだ。責められるべき人ではない。

「全部、拐かした山の怪が悪いの。お母さんもお父さんも、誰も悪くない。私が拐かされなかったら、離婚なんてしなかった」

 母は横浜生まれの横浜育ちで、かつては父の勤めていた鍼灸院の客だった。好意を抱いたのは母が先で、父が御手座の特殊な役割を含めて囲水の話をしても動じなかった。結婚後は前もって伝えていたとおり囲水へ移り住み、私を育てた。ただ母は里帰り出産をしたため、私がここで暮らし始めたのは生後半年頃かららしい。

 ――産まれて何ヶ月も経っとるのに、予防注射がどうとか検診がどうとか言うて、なかなか帰ってきてくれんでねえ。

 祖母は死を迎える年になってもまだ、同じ愚痴を繰り返していた。嫁姑の相性があまり良くなかったのは察せたが、別に珍しいわけではない。私と義母も、決して仲が良いわけではなかった。家族ぐるみで尚斗の過去を黙っていたくせに、私が離婚を決めた途端「夫婦は支え合うべき」「過ぎたことをいつまでも気にするなんて」と非難した人だ。世代も価値観も違う人とともに生きていくのは、簡単なことではない。特に囲水は、こんな場所だ。私の事件が母の鬱屈を爆発させてしまったとしても、仕方のないことだろう。

「誰も悪くないんだから、多希子も悪くないんだぞ」

 落ち着いた声で返して、訓史は私の頬に触れる。そのとおり、私のせいでもない。母が病んでしまったのも離婚してしまったのも、私のせいでは。

 胸に湧く嫌悪感を押し込めて、溜め息をつく。大人の自分が納得していても、子供の頃に強く刻み込まれた痛みは消えない。

 何も言えなくなった私を訓史は抱き締めて、長い息を吐いた。

「あいつ一人じゃ支えきれん。俺を切るな」

 諭すように強いながら、腕に力を込める。さっきのは頭に血が上って言ってしまったのだろうが、自分の中にない言葉がでてくるわけはない。

 ――それは、彼があなたのことになると理性を失うからでは?

 大澤の指摘は正しかったのだろう。もしここで訓史を突き放せば、津川が去ってしまう。打算的に考える自分がいやだが、ここで津川に拒否されたら宗吾を迎え入れることになる。でも宗吾が当代になれば、御手座の資産は瞬く間に食い潰されてしまうだろう。後ろで糸引く和美にも吸い上げられる未来が見える。でも金は無尽蔵に湧いてくるわけではないし、近年はただでさえ致し方ない出費が増えつつある。

 この前も、と続けかけた思考が滑り始めた手に遮られる。黙っていたから、受け入れたと見做されたのだろう。今からでも拒絶はできるが……無理だ。

 宗吾に当主の器はない。囲水を支える柱の一本が折れれば、ここは立ち行かなくなってしまう。御手座には、津川が必要だ。真面目で責任感が強く、御しやすい人材が。

 再び押し倒す手に逆らわず、目を閉じる。

 ――多希子! 多希子……多希子……。

 おいぬさまに救われ戻ってきた私を、母は震える腕できつく抱き締めた。私もしがみついて、わんわん泣いた。これでもう大丈夫だと思っていた。もう何も起きないと信じていた。

 母はきっと、幸せに暮らしているのだろう。少なくとも、私よりは。

 多希子、と呼ぶ陶酔した声に、ぼんやりと目を開く。見上げた常夜灯が、視界に滲んだ。

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