靴の中の小さな小石
江口先生が……
私は二の句を告げずに目の前の少女を見ていた。
何かしゃべらなきゃ。担任として。
そう思うものの言葉が出てこないし、なにより頭が驚くほど固まっている。
そんな動揺のままに石丸さんがテーブルの上においていたラインの画面を見る。
そこには江口先生と石丸さんとのやり取りが続いていた。
彼が石丸さんに対して日ごろから可愛いと思っているという賛辞や、13歳とは思えない雰囲気があること。
個人的に出かけようと言う怖気の走るような誘い。
そして……
「君に見捨てられたらどうすればいいかわからない」
「こんな事が続くなら何かの拍子に他の人に言ってしまうかもしれない」
「僕は君に出会うために教師をしてたのかも知れない。君は笑うだろうけど、そう信じているんだ」
「君のためなら教師を捨てたっていい。約束するから。君はどうなんだ? 答えて欲しい」
と、言う言葉が並んでいた。
念のため一番最初からやり取りを確認しようとしたけど、それ以前は削除されていた。
「江口先生が、証拠になるから適時消してくれ、と言ってたから」
石丸さんは申し訳なさそうに話すが、それ自体は仕方ない。
彼が用心深い性格な事は分かっている。
そのため、ラインからは決定的な文言は無かったけど、このやり取りを見る限り……
ただ、気になる一文はあった。
「この『他の人に言ってしまうかも知れない』は何? あなたの事かなと読めるけど。もし、言えるならでいいんだけど……」
「それは……ごめんなさい。先生にも言えません」
「いいのよ。でも、これはやり取りを見る限り見過ごせません。このトーク画面を私のパソコンに送ってもらう事は出来る? 明日、学年主任に報告を……」
「やめて下さい!」
彼女の始めてみせる気色ばんだ様子に思わず、まじまじと顔を見てしまった。
「それは嫌です。そんな事になったら私、学校に行けません。それどころかもし、生徒の間で知られたりしてネットなんかに出ちゃったら私……死にます」
「そんな……大丈夫よ。私たちは絶対外部にもらす事はしないから」
「申し訳ないですが信用できません。先生だって沢山の方がいます。何かの切っ掛けで知られない、って絶対いえますか?」
そう言われると絶対などとは言う事は出来ない。
実際、男性教員の中にも数名、職員室でひそかに石丸さんに対して、アイドル的な目線で見ていると思わせる、下劣な内容の会話をしているのを聞いた。
歴史のある偏差値の高い学校ゆえに、教員の間の一種独特のよどんだ空気は感じていた。
「でも、このままには出来ないでしょ」
「先生にだけ知ってて欲しかったんです。先生には味方で居て欲しかったから。それだけでいいんです」
「それじゃ何も解決しないじゃない」
そう話しながら、私はずっと小さな違和感を感じていた。
なんだろう、これは。
ここまでのどこかで明らかに不自然なところがある。
靴の中の小石のように些細な、だけどハッキリ分かる異物感……
見過ごせない気がするのでもっと考えたかったけど、ふと店内の時計を見たら5時半。
佐村さんとの待ち合わせまであと40分しかない。
「とにかくお家に送るわ。先生も用事があるから……ゴメンね。また明日ゆっくり話しましょ」
そのまま会計を済ませて、カフェを出た私は石丸さんを車に乗せると、シートベルトを締めようとした。
元々お客の少ないカフェなのか、駐車場には他に車は停まっていない。
何とか待ち合わせには間に合いそうだ……
そう思ったとき。
石丸さんが突然私の手を握ってきた。
「私の味方になってください。私……怖い」
そう言ってシクシク泣き始めたので、慌ててハンカチを渡すけど手に取る様子が無かったので、やむなく涙を拭いてあげた。
彼女はされるがままになっていたけど、大粒の涙にぬれた目や頬。
それは、こんな場面で感じてはいけないのだが……不気味な色気を感じてゾッとした。
マズイ……
私は彼女から目をそらしてハンカチをしまおうとしたとき、石丸さんが私に抱き付いて来た。
心臓が大きく跳ねて、カッと顔中に血が集まるのが分かる。
「先生……今回だけです。もうわがまま言いません。夜まで私と居て下さい。今日、父も仕事で明日の朝まで帰ってこないんです。1人じゃ怖いです」
え……
私の脳裏に佐村さんの顔が浮かんだ。
「あの……私、今夜……」
そう言い掛けて口が止まった。
彼女に今まで振り回されてきたので忘れかけていたけど、まだ13歳。
この間までランドセルを背負っていた子供ではないか。
それが大人でも動揺する事態になり、1人で抱えきれず私を頼っている。
そんな状況に見捨てるなんてあるの?
それと共に、透明人間の私に色が染み込んで行くのも感じていた。
さっきの色気に満ちた泣き顔。
私にしか相談していない大きな事態。
不謹慎な事は分かっている。
でも……それは言いようの無い喜びをもたらした。
承認欲求が満たされる喜び。
そして。
身体に伝わる石丸さんのぬくもりや柔らかさ。
仄かに鼻腔をくすぐる汗と肌の香りと共にそれは身体の奥に妖しい
心地よい疼き。
なんだろう、これは……
でも、決して嫌じゃない。
彼女を引き剥がせ。
落ち着かせて家へ帰すんだ。
無理なら別のカフェへ行け。お客の多いにぎわっているところへ。
そんな脳裏に響く警告に似た声。
私は……聞こえない振りをした。
気がついたら勝手に口が動いていた。
「先生の家に来る? 落ち着いたらお家に送るから。それまでゆっくりしてなさい」
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