夜間飛行(1)
脅迫してるのは……石丸さん。
突然浮かんだこの言葉に私は激しく動揺していた。
でも、こちらの方がこれまでの流れにシックリ来る。
そもそも、こう言っては失礼だが江口先生に石丸さんが弱みを握られてされるがまま、と言うのは考えにくかった。
でも何で?
それは分からない。
こんな手間やリスクもあることを聡明な彼女がなぜ……
少しの間玄関で考えていたけど、考えがまとまらない。
そもそもこれは根拠の薄い妄想の段階だ。
気持ちを落ち着けようと、ホッとため息をついて靴を脱いで、リビングでジャスミンティーを淹れるとソファに座った。
そして、ジャスミンティーを口に運ぼうとしたとき。
カチャ……
背後で聞こえた金属の当たる音に私は一気に全身に力が入り、冷や汗が噴きだした。
なに? 今の……
その音は私の背後。
クローゼットの中からだった。
全ての意識が耳に集まる。
背後からは人の息遣いが聞こえる。
小さく。でも荒く。
気のせいだ。
疲れてるんだ。
大丈夫。
そのままジャスミンティーを飲んでれば、聞こえなくなる。
なんだったら試しにクローゼットを開けてみればいい。
そんな考えが奔流の様に脳に浮かんでくる。
でも意識の隅ではそれが単なる正常性バイアスのせいだとも分かっていた。
だって、背中には間違いなく人の気配がするんだから。
私は涙を浮かべて体を震わせながら、目だけ動かしてドアを見た。
立ち上がらなきゃ。
すぐにこのマンションを出なきゃ。
でも、足が動かない。
動いたら、背後の存在を認めたことになる。
自分の平穏な生活が完全に壊れてしまう。
それを認めるのが嫌だった。
ああ……災害なんかで逃げ遅れる人ってこういう心理なんだ。大変だな。
そんな事を考えるくらい、この期に及んでまだ現実逃避をしたがっていた。
でも、そう考えた直後。
ドアの外で誰かの足音が聞こえた。
その音が合図になった。
私を正常性バイアスから引き戻す切っ掛けをくれた。
私ははじかれたように走り出すと、パンプスも履かず裸足のままでドアを開けて外に出た。
頭の中は真っ白だった。
外にいた近所の女性の驚く顔が横目に入ったが、気にも留めずエレベーターホールへ走った。
そして、何度もボタンを押しながら目を閉じると横から「先生」と声が聞こえた。
目を開けて声の方を見ると、近くの階段を上がってくる石丸さんの姿があった。
「どうしたんですか裸足で。それに……泣いてます?」
戸惑った表情の石丸さんを見た途端、安堵で一気に気が緩み気がつくと石丸さんに駆け寄っていた。
「助けて……誰かが私の部屋に居るの。だから逃げてきたの。お願い、助けて」
石丸さんはキョトンとしていたが、すぐに事情を理解したのか真剣な表情になって頷いた。
「分かりました。大丈夫です。今から……私の家に来ます? そこなら安全ですよ」
彼女の家……
一瞬、躊躇したけどそんな事を言っている場合じゃない。
恐怖の底にいる私にとって、石丸さんの引き締まった表情や優しい笑顔を見ていると、全身に血が通うようなぬくもりを感じさせたのだ。
私は無言で震えながら数回頷いた。
石丸さんはそんな私を見て、まるで年上と錯覚するような温もりのある笑顔で私の頬を触った。
「こんなに泣いて……安心してくださいね。私、先生の味方ですから」
「あり……がとう」
「お礼なんていいです。さ、行きましょう。早く離れないと」
「うん」
頷いたとき、丁度エレベーターが来たので、一緒に乗った。
1階に着いたので歩き出そうとしたとき、石丸さんが急に背中を見せてしゃがみこんだ。
「どうしたの?」
「乗って下さい。先生、裸足……」
「あ……」
そうだった。
急いで出てきたのでパンプスも履いてない。
「で、でも……私……重い」
「ふふっ、先生には黙ってたけど、私6歳から空手をやってるんです。先生くらいなら余裕ですよ」
さすがにそれは、と躊躇したけど、安心すると急に足の裏に痛みを感じ始めた。
後ろを見ると床が仄かに赤くなっている。
足の裏を切ったのかも知れない……
「じゃあ……ゴメンね。重かったら降ろしていいからね」
そう言って身を任せると、驚いた事に彼女は軽々と立ち上がった。
凄い……
ぽかんとしていた私は、全身に鳥肌が立った。
階段から誰かが駆け下りる音が聞こえる。
「誰か……降りてくる」
震える声で言う私に、石丸さんは言った。
「行きましょう。すぐに」
※
そのまま彼女におんぶされながらマンションを出た私たちは、少し歩くとタクシーを見つけたので乗りこみ、石丸さんの家へ向かった。
そして、二度目となる彼女の古びた木造の家の前で降りると、石丸さんが手馴れた感じでお金を払い、また彼女に背負われて家に入った。
「ごめんなさい。相変わらず幽霊屋敷みたいで」
石丸さんは目を合わせずにつぶやいた。
「全然、落ち着いたいいお家じゃない」
「フォローはいいです。さ、座ってください。足の裏……手当てしないと」
そう言うと石丸さんは手馴れた様子で、私の足の裏を洗うと消毒液を付けて包帯を巻いてくれた。
「何でも出来るのね……凄い」
「ずっと1人で居る事が多かったから、いつの間にかって感じです」
その言葉を聞きながら家の中に視線をめぐらせた。
全体にくすんだ色の白い壁はあちこちに大きなしみがあり、ひび割れも目立っていた。
前回の訪問時も思ったけど、やはり石丸さんのイメージとかけ離れている。
「はい、終わりました。でもしばらくは歩かないほうがいいですね。私に任せてください」
「でも……あなたに迷惑はかけられない。色々と有難う。もう大丈夫だから。後は友達のところに行くわ」
「佐村先生のところですか?」
思わぬ言葉に心臓は1回大きく鳴った。
彼女の言うとおりだった。
ここを出たら涼子さんにラインして、迎えに来てもらい警察に連絡の後、彼女の家に厄介になろうと思ってたのだ。
石丸さんはじっと私を見るとポツリと言った。
「先生……動揺させないようにと思って黙ってました。でも……私、見たんです。エレベーターに乗り込むとき、走ってきた人影……佐村先生でしたよ」
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