まるで極彩色の闇
初夏の夜は遅い。
時刻は6時半だと言うのに、まだ闇はやってこない。
代わりに暴力的な赤に染まった空がアパートの中を照らす。
そんな真紅にも見える光に横顔を染めた石丸さんが、テーブルの前に正座してコーヒーを飲んでいる。
目を閉じてまるで儀式のようにカップに口を付けているその表情からは何の感情も伺えない。
でも彼女はそんな私の視線に気付いたのか、ニッコリと無邪気としか言いようの無い笑顔を向けた。
「ありがとうございます。コーヒー、とっても美味しいです」
「ただのインスタントだから気を使わなくていいわ。少しは気持ち、落ち着いた?」
(はい、もう大丈夫だからそろそろ帰ります。有難うございました)
そんな返答を期待しての言葉だったが、石丸さんは首を横に小さく振った。
「すいません。まだ怖くて……でも、先生のそばに居たら落ち着きます」
私は自分の内心をごまかしたくてわざと困ったようにため息をついた。
恥ずかしいくらいに稚拙なアリバイ作り。
そう。
私は目の前に石丸さんが座っている事を。
そして私に依存するような目で見上げてくる事を、喜んでいた。
そんな自分に戸惑いと不安を感じ、意識して作り笑顔で言う。
「なら良かった。でも、ずっとは居させてあげられないから、落ち着いたらいったん学校に戻りましょう。職員室で。無理に話さなくてもいいから」
そう。
なぜ学校に連れて行かなかったのか。
こんな判断、教育学部の実習生でも浮かぶ事だ。
その理由は分かっているけど、言語化したくない。
だから、自分が鈍いんだと考える。
動揺してこんな初歩的な事も浮かばなかった。
なんて判断力の無い自分だろう。
そう心の中で自分に話しかける。
そんな私の内心を知る事のないだろう石丸さんは、カップを両手で包み込むように持った後、部屋の中をぼんやりと見回していた。
「有難うございます。落ち着いたら言いますね。……ところでさっきカップを出して下さるときにチラッと見えたんですけど、素敵なグラスがありましたね。二匹の猫ちゃんの」
「友達からもらったの。誕生日祝いに」
「素敵……それって佐村先生からですか?」
え?
私は一瞬目を見開いて、思わず石丸さんを見返した。
なんで……それを。
「どうしたんですか? お友達から、って言ってたから真っ先に佐村先生のお顔が浮かんだだけです。この前映画行ってたし、ランチだって良く行ってらっしゃるから」
ああ、そう言う事か。
ビックリした……
でも佐村さんからもらったというのは、さすがに言うのがどうかと思うので嘘をついた。
「違うわ。大学の頃からの友達」
「男の人です?」
「いえ、女性。と、言うよりそんなところまで知ってどうするの?」
「何となく。私もこういう恋愛系の話って興味あるんですよ。先生こそそんなにムキになるなんて……何かあるんですか?」
「何も無いわ」
男の人と? ふざけないで……
さっきの佐村さんの事といい、石丸さんの言葉の一つ一つが私の心をかき乱す。
そもそもあなたのせいで佐村さんとの約束をキャンセルしたのに。
そう思うと急激にモヤモヤが沸きあがってきた。
あんな無駄口聞けるならもう元気なんだろう。
もう学校に連れて行こう。
最初からそうすればよかった。
「良かった、かなり元気になってきたみたいね。そろそろ学校に行きましょ。この時間は職員室にも人はいないはずだし、もし居たら相談室もあるから。それのみ終わったら……ね」
そういうと私はお手洗いに立った。
特にそのつもりは無かったけど、石丸さんの顔を見ながらだとどうもペースが分からなくなるようで嫌だったのだ。
個室に入ってため息をつきながら、ラインの画面を見る。
佐村さんから「全然オッケーです! 今度は罰として先輩おごって下さいね」と言う文面の後に、ニッコリと笑う子犬のスタンプがあったので思わず顔がほころぶ。
彼女に返事を返していると、突然ガラスの割れる音と石丸さんの小さな悲鳴が聞こえた。
え……
驚いてリビングに向かうと、そこにはキッチンの前でうずくまる石丸さんの姿があった。
そしてその前には割れて散らばっているグラスが……それは佐村さんからもらった物だった。
「……どうしたの! 大丈夫?」
駆け寄ってみると、彼女の左手から血が出ていた。
「ごめんなさい……素敵なグラスだったからつい手に取っちゃって。そしたら滑って。ビックリして拾おうとしたら……すいません」
「いいのよ、そんな事は。あなたの方が大事でしょ! 手、見せて!」
急いで確認すると、幸いな事に手のひらの皮を切っただけのようで、そこまで深くない。
ホッと安堵の息をつくと、ふと視線を感じたので目を上げた。
すると、石丸さんがまるで熱に浮かされたような目でじっと私を見ていた。
「どうしたの?」
すると……突然、彼女の目から涙があふれてきた。
え? え?
「私……始めて言われました『あなたの方が大事』って」
「そんな……あなたくらい可愛かったら、いくらでも……」
「そんな意味じゃないんです」
そんな意味じゃない、って。
それよりも治療だ。
「早く消毒しないと。ちょっと救急セット持って……」
そこまで言いかけた所で突然石丸さんが、私に抱きついてきた。
その勢いが強くて思わずバランスを崩し、仰向けに倒れてしまう。
それは……まるで石丸さんが私を押し倒しているようだった。
「先生……暗闇ってなんだと思います?」
「え?」
私は呆然としながら答えた。
何を言っているのかさっぱり分からない。
「暗闇って嫌われてる。全ての色が消えてる世界と思われてる。でも、本当はすごく色鮮やか。本当の闇は鮮やかな黒なんですよ。極彩色みたいに。その中の光って……しびれるくらいに綺麗」
「ねえ、石……丸さん」
「先生に綺麗にして欲しいです」
石丸さんのいった言葉……それはまるで風の中の木の葉のようにふわふわと漂っているように思えた。
どうしよう……
石丸さんは私の前に血で濡れた手のひらを出した。
「だから消毒を……ね? 先生」
「取りに……行くから」
私は中学生の子のように震える口調で言った。
そして、石丸さんは大人びた妖しい笑みを浮かべる。
「私、消毒液ダメなんです……どうしましょう?」
ああ……
石丸さんの心臓の音も聞こえる。
息遣いも。
そして、目の前には手のひら……唇が触れそうな距離に。
仄かな血の匂い。
汗のにおい。
石鹸の香り。
色んな全てが私をおかしくする。
さらに彼女は私の耳元でささやく。
「先生は悪くないです。消毒がダメなのは私の体質のせい。バランスを崩して転んだのも私がドジだから。先生は、教師として生徒のために最善を尽くす。だから……全部この場限りの事」
そう……かも。
私は教師。
生徒を助けなきゃ。
そうだ。全部そのための事。
私は、手術から目覚めたばかりのような全ての境が分からない中で……目の前の手のひらに舌を伸ばした。
そして、ゆっくりと石丸さんの手のひらに舌を這わせる。
「今回だけ……だからね」
そういいながら彼女の手のひらにキスをする。
消毒液がダメなんだ。
だからしてるんだ。
「ふっ……くっ」
耳元で石丸さんのせつなそうな声が聞こえる。
それは身体のずっと奥をくすぐる様な声だった。
「先生……好きです」
わずかに残った理性で返事をしなかった。
でも……どうしよう……全然血が止まらない。
もっと……消毒しなきゃ。
石丸さんの声は聞こえなくなり、代わりに吐息が漏れている。
そして水をたっぷり含んだグミのような唇が目の前に来た。
「先生、綺麗……」
石丸さんの甘くて優しい声が聞こえる。
もう……
その時。
沈黙を引き裂くような携帯の着信音が聞こえた。
その電子音は一気に私を現実に引き戻した。
まずい!
私は慌てて石丸さんから離れて、荒い息で言った。
「もう……大丈夫でしょ。血も止まった……よね」
石丸さんは身体を起こすと、さっきまでの妖しさが完全に消え去った、13歳の笑顔で答えた。
「はい、すっかり良くなりました。有難うございます。先生の的確な対応で」
それから石丸さんを学校まで乗せようとしたが、急に「お陰で元気になりました。もう大丈夫です」と言って、ぺこりと頭を下げて歩き去っていった。
彼女を車から見送って、深く息を吐くと携帯を確認する。
それは佐村先生からのラインで、見に行きたいといっていた映画の内容を伝えるものだった。
その文章を読みながら……何故か泣きそうになった。
そしてたまらなく会いたくなって、今から会いたい、と返事をした。
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