雲をつかむ手のような
「涌井先生、遠慮なさらずに頼んでね」
「はい、じゃあ……アナゴとか」
「まあ、先生ったら通な頼み方をなさるのね。アナゴは職人の腕が問われるって知ってたの?」
「え!? い、いえ……そのような事は。回転寿司しか行った事ないので……」
私は慌てて答えながら、背中に冷や汗をかいていた。
「時価」って何だろ……
お客さんも雰囲気ある人ばかりだし……
内心オドオドしている私を市原教頭はにこやかな笑顔で見つめた。
「全然大丈夫よ。たまにはこう言う所も新鮮でいいものじゃない? じゃあ色々食べましょうか。すいません、お任せで5貫ほどお願いします」
教頭はそう言うと、お茶を飲んで私を興味深そうに見た。
「それにしても先生、どんな魔法を使ったの?」
「え?」
「まあ、やだわ。石丸さんの事に決まってるじゃないの。彼女、前の小学校で5年生の頃ちょっと事件に巻き込まれて、心に傷を負ってたの。それから1年半、先生やクラスの子にも完全に心を閉ざしちゃってね」
「事件……」
私は信じられない気持ちで言った。
「そう。彼女には気の毒な話だったわ。かなりデリケートな内容だし、新しい環境には影響が無い事だから言わなかったけど彼女、その頃担任の先生にひどいセクハラを受けてたのよ。しかもそれだけじゃなく、そのせいで彼女が心を許してた女性の先生が……自殺しちゃって」
私は自分が呼吸を忘れていた事に少したってから気付いた。
一体何の話を聞いてるんだろう……私は。
「朝早く、校舎の屋上から……しかもよりによって最初の目撃者が石丸さんだったの。神様もひどい事をするわね。その女性の先生は同僚の先生と婚約してたんだけど、その婚約者が石丸さんにセクハラをしていた人だったの……涌井先生、大丈夫? 顔色が悪いけど」
「だ、大丈夫……です。あの……続きを」
「その男性教師は石丸さんを脅迫して、半年以上もセクハラをしてたらしいの。内容を聞いたけど……気分が悪くなるわ。それ以上に許せないのは、その悪事がばれたのがその女性教師の遺書からだったんだけど、その男性教師は発覚した後も石丸さんへの恨み言を叫んでたらしいわ」
市原教頭は表情をゆがめると吐き捨てるように言った。
「ありえないでしょ? 自分の悪事をなぜ被害者の石丸さんに押し付けて……元、と付けても教師なんて言いたくないわ。気分が悪い。そのせいで石丸さんは……かわいそうにずっとショックで周囲に心を閉ざしてたの。だから、心配してたんだけど、本当に嬉しいわ。涌井先生のお陰であの子は立ち直った」
私は無言で笑顔を作ったけど、上手く出来ただろうか……
あの子は何に巻き込まれてたの……
自殺って……何があったの?
「その事を前の小学校の校長に話したら、言ってたわ『他の先生に聞いたら、以前の石丸さんに戻っているようです。本当に良かった』って」
「それは……よかったです」
「まあ、何よ。本当にあなたって謙虚ね。もっと喜ぶかと思ったのに。私、こう見えて最大級の賛辞を送ってるのよ? だから今後の流れ次第ではあるけど……私としては、遠くない将来あなたに能力にふさわしいものを、と思ってるわ」
その言葉でひんやりしていた顔に血が通うのを感じた。
どこかに流されそうだった意識が、急に覚醒するような気がする。
「それって……」
「ふふっ、先生のご想像にお任せします。なので、お願いね。今後も石丸さんを見捨てずに導いてあげてね。あの子の将来と……先生の将来のためにも」
「はい……全身全霊、彼女を支えていきます」
「ありがとう。信頼してるわ、涌井先生」
※
その二日後。
有給を取った私は、隣のG県まで来ていた。
特に観光名所でもない普通の公園なので探すのに苦労した。
車を降りた私は「落合公園」と書かれた石碑を見た。
そして、中に入っていく。
緑地公園ではあるが、規模の小さい公園のため10分も歩いていると隅々まで回れたけど、期待と不安を持ちながら訪れた私は正直拍子抜けだった。
特に変わったところの無い、本当に普通の小さな緑地公園だ。
不審者が出そう、とか迷いそうなくらい広大、とか何か事件があって閉鎖されてるとか、あると思ったんだけど……
なぜ、彼女は契約解消の言葉にわざわざここを……
小高い丘の先にある木製のベンチに座ってペットボトルの水を飲んだ私は、目の前の開けた景色を見ていた。
丘から見下ろす街の景色はら点在する家々や建物の小ささがこの山の高さを感じさせる。
夜景とか綺麗なんだろうな……
そして、頬を撫でる風は疲れを忘れさせるような冷たさだ。
なんて事もない所だけど、ここからの眺めだけはいい感じ。
思うところは同じようだ。
私の他に親子連れも来ており、二人で柵の近くで広い景色を見ては、楽しそうに話していた。
男の子は4歳くらいだろうか。
母親に手を繋がれて、目の前の景色に歓声を上げている。
しばらく座って石丸さんと、この公園の関係に思いを巡らせてたけど何も浮かばなかった。
帰るか……
よほど集中して考えてたんだろう。
気がつくと周囲は薄暗くなっていて、親子連れもすでに居ない。
目の前の景色も柵がなければ境も分からないくらいだ。
ここももっと電灯増やせばいいのに……危ないな。
私は、冷たい風から逃げるように車に戻った。
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