仮面

 落合公園へ訪れたあの日の翌日の夜。

 

 ぐずついた空模様の下、仕事の後で涼子さんと会い久々に食事をしたけど、私の気分は空のように曇っていた。

 石丸さんへの苛つきと共に。

 

 そう、食事の後毎回私たちはどちらかのマンションに行き、一緒にお風呂に入って朝まで過ごすのだが、今回はそれが出来なかったのだ。

 理由は1つ。

 前回、石丸さんに体中にキスマークや噛み痕を残されてしまったからだ。

 こんなの涼子さんに見せられるわけ無い。

 彼女にはこの後に及んでもなお、石丸さんとのことは話せずにいた。

 そのため、彼女には体調を理由に泊まることは出来ない、と伝えたのだ。


「全然それは大丈夫ですよ。……所で大丈夫ですか?」


「え? 大丈夫って……」


「石丸さんとの事ですよ。彼女、あれから人が変わったようになったじゃないですか。私……それが気になって」


 私はドキリとした。

 まさか、石丸さんとの事に……


「彼女、きっと何かたくらんでると思うんですよ。だって急に『涌井先生のおかげです』って張り切りだして。恩を売ってそれを使って懐に入り込もうとしてるんじゃ無いですか?」


 私はホッとした。

 涼子さんの言葉はかなり当たっているけど、核心には触れていない。

 そして、ホッとしている自分に悔しさも感じた。 

 まるで涼子さんとの間に壁が出来てしまっているようで。

 これも石丸さんの狙いなのかな……

 そう思うとますます怒りが湧いてくる。

 自分が悪いのに。


「うん、有り難う。気をつけるよ」


「あれから石丸さんには会ってないですよね?」


「え……うん、大丈夫。断ってる……よ」


 胃がギュッと不快に締めつけられる感じがした。


「それがいいですよ。もう彼女の誘いには絶対乗っちゃダメです。確信は無いけど……彼女、人間心理とか洗脳とか勉強してるのかな、って思うときがあるから。由香里さんの今までの話聞くと、感情で動いてる感じが無いんですよ。『あの人はこう言えばこう思うだろう。だから先手を打って……』って根拠に基づいて、着実に追い詰めてる気がする。そういうタイプと2人だけで会うのは危険ですから」


「う、うん……気をつける」


「気をつける、じゃなくて絶対です。一線越えたら戻れなくなりますから。彼女と会うときは私も同席しますよ」


 一線越えたら……って。


「……有り難う」


「これは言いにくいですけど……最悪、教師辞めてもいいですよ」


 私は驚きに目を見開いた。

 何を……言ってるの?


「すいません、変なことを。ただ、私がもし石丸さんだったら……と思ったとき、由香里さんを取り込もうとするなら『教師』と言う立場からだと思うんです。実際今の張り切りようもその一環だと。だからいよいよとなったら辞めても良いと思う」


 涼子さんはそう言うと真っ直ぐ私の目を見た。


「そうなったら……私が由香里さんを支えますから。一生」


 涼子さんの言葉に私は二重の意味で怖さを感じた。

 

 1つは石丸さん。

 彼女は……そんなに恐ろしい存在なの?

 

 2つめは、教師を失うこと。

 

 市原教頭とも食事した。

 実質出世が約束されている。

 今の状態が続いてくれるなら、遠からず私は学年主任、そしてその上も……


 学生時代から自らの存在を消すことを一番に考えてきた。

 後ろめたいことは何もしてないのに、どこかで顔を伏せて生きてきた。

 

 私の秘密……同性愛者である事がバレませんように。と。


 でも、上り詰めれば周囲は尊敬してくれる。豊かな生活も出来る。

 周りの人の目を真っ直ぐに見ることが出来る。

 社会的な力さえ持てば、望む愛だって力尽くで手に入れられる。


 涼子さんの言葉は嬉しい。 

 泣きたくなるくらい。

 だけど……それじゃ、涼子さんの影だ。

 涼子さんがいるから成り立つ私、だ。

 それはホッとする反面……怖かった。


 私は自分でも驚くほどスムーズに言った。


「有り難う。いよいよとなったらそれも……考える。ちょっと思ったんだけど、もしもだよ。もしも……石丸さんに取り込まれたとしたら……どうなるのかな?」


 涼子さんは何か苦い物でも噛んだかのように、歪んだ表情を浮かべた。


「どうでしょうね。彼女が何を望んでいるのか分からないから……ただ、嫌な予感はします。あの得体の知れなさは大人も含めて今まで会ったこと無いから。もっと彼女について情報が欲しいですけど……ちょっと調べてみようかな」


 その言葉でふと脳裏に市原教頭が言っていた事……小学生時代の担任の先生からの凄惨なセクハラと信頼していた女性教師の自殺、を思い出した。

 言おうか迷ったが、口に出せなかった。

 なぜだろう。

 涼子さんの言葉を借りると……嫌な予感がしたのだ。

 

 ※


 涼子さんと別れた私は、先ほどの会話を思い返しながらすっかり暗闇に染まった繁華街を歩いていた。


 洗脳……か。

 話を聞いていると自分がとんでもない沼に浸かっているように感じて怖くなる。

 でも、今更どうすれば。


 ぼんやり考えながら歩いていると気が滅入ってくるので、周囲のお店の光を眺める。

 飲食店や電気店の突き刺さるような光が、沈んだ心を引き揚げてくれるように感じてホッとする。

 そのまま気がついたら私はタクシーに乗って、石丸さんの家に向かっていた。


 彼女にやっぱり文句を言ってやりたい。

 話を聞きたい。

 これ以上、私と涼子さんの邪魔は辞めて欲しい。

 そして、あなたは何が狙いなの?と。


 そんな感情のまま彼女の自宅近くまで来た私は目を見開いた。

 彼女の家の前にすでに車が止まっていたのだ。

 何だろう……

 私はなぜか目が離せず、タクシーに乗ったまま車の方をじっと見た。


 すると、車から降りてきたのは石丸さんだった。

 暗がりで表情までよく分からないけど、彼女であることはハッキリ分かる。 

 彼女は優雅に降りると、運転席に回って小さく手を振った。

 すると、車内から男性の手が出てきたが、彼女は……その手を両手で握って何度かコクコクと頷いていた。

 何を……話してるの?

 その男性は誰?


 私はたまらずタクシーを降りた。

 すると、ドアの音でこちらに気付いたのか石丸さんが弾かれたようにこっちを見て、彼女にしては珍しく慌てた様子で運転席に向かって顔を向けた。

 

 次の瞬間、車は急発進で走り去った。

 あの車……

 私は心臓が酷く鳴り響くのを感じた。

 

 あの車……江口先生?

 ああ、あの人の車のナンバー覚えとけば良かった。


 私は石丸さんに向かって駆け寄った。


「あ、先生。こんばんは。どうしたんです?」


 その表情はいつもの彼女だった。

 

「さっきの車……江口先生だよね」


「え? 違いますよ。親戚の家に行ってたから帰り送ってもらったんです」


「でも、車が彼のと同じだった」


「ナンバーも一緒でした?」


「それは……」


「あの車、とっても人気あるんですよね? だったら同じの乗ってる人なんて山ほど居ます」


 そう言って石丸さんは手を口に当ててクスクス笑った。


「それに江口先生に失礼ですよ。私みたいな子供、相手にしませんって」


「でも、あなた私を見たとき明らかに慌ててたよね? あの車だって親戚だったらあんなに急いで走り去る必要ある?」


「そう見えただけです。だっていきなりあんなおっきな音立てて背後でドアが閉まる音して……怖くなりますよ」


「あなた、江口先生に脅迫されてたじゃ無い? それがあるから心配になったの」


「わ、嬉しいな。心配して下さるんだ。てっきり嫌われてると思ったのに」


 その言い方にトゲが有るのを感じた。


「そうそう、今日佐村先生とデートでしたっけ。あれ? お泊まりされなかったんですね」


 その言葉で身体の痕の事を思いだし、怒りが湧き上がってきた。


「出来るわけ無いでしょ。あんなの着けられて。あなた……それを狙ってたんでしょ。私と彼女に壁を作らせようとして」


 その途端、石丸さんはキョトンとした様子で首を傾けた。


「え? 壁ってなんですか。って言うか私、子供なんでよく分からないんですけど、身体を重ねないと愛情を保てないんですか? それって愛してるって言えるんです?」


「愛情は……色々あるの。保つんじゃ無くて深めるの」


「だったら学生なんて愛を深められないですね」


「へりくつ言わないで! あなただって、あんな事したじゃない!」


「先生、夜も遅いですよ。ここ声も響くからおっきな声は近所迷惑です。私より先生の方が困るんじゃ無いです?」


 石丸さんはクスクス笑うと、どこか芝居がかったように家の方に手を振った。


「良かったらお家にどうです。狭くて汚い所だけどおもてなしさせてください」

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