汚泥と尊敬

 私は頭が真っ白になるのを感じた。 

 嘘……見られた?


「佐村先生も会議室でお仕事なんですね。お疲れ様です」


 そう言って丁寧にお辞儀をする石丸さんを、涼子さんは睨み付けながら言った。


「どういうことなの? 今の?」


「今のって、何のことです?」


 2人のやり取りを聞きながら、私は血の気が文字通り引くのを感じた。

 見られちゃった……キスを。

 どうしよう、どうしよう……


「なんであなた、涌井先生の膝の上に乗ってたの? あれってなに?」


 私はそれを聞いて、どっと安堵の汗が出るのを感じた。 

 キスじゃ……なかった。


「すいません。涌井先生が会議室に入るのが見えて、お手伝いしようと思ったんです。で、中に入って資料を重ねてたらこのお部屋の狭さと埃っぽさで気分悪くなっちゃって。で、先生にもたれかかっちゃいました」


「でも、今のは明らかにいちゃついてたように見えたけど。ニコニコと笑ってたでしょ」


「そんな……酷いです。わたし、涌井先生のお力になりたかっただけなのに。それにわたし、まだ13歳ですよ? そんなふしだらな事。ですよね、涌井先生?」


 傷ついたような表情を「作って」私を見る石丸さんから目を逸らして言った。


「すいません、佐村先生。石丸さんの言うとおりなんです。彼女が立っていられないくらいだったので、つい……抱えて保健室に連れて行けないかな、って思ったんですけど。せめてリラックスしてもらおうとして、つい冗談とか言っちゃって。まぎらわしい所をお見せしてすいません」


 私の言葉にどこか安堵したような表情を浮かべた涼子さんは、やがて小さく頷いた。


「分かりました。涌井先生がそう言うのであれば信じます。でも、石丸さん、涌井先生。今後はそのように誤解を招く行為は慎んで下さい。ここは中学校です。生徒はみんな多感な年齢です。涌井先生も、優れた教育者として教頭から期待されているので、それを裏切ることのないようお願いします。私も涌井先生のことは教育者として尊敬しているので」


「……分かりました。今後は気をつけます」


 ホッとしながら涼子さんに頭を下げたが、ふと横目で石丸さんを見ると彼女は一瞬だけど薄笑いを浮かべていた。

 次の瞬間、石丸さんは深々と頭を下げると言った。


「わたしも涌井先生の事は尊敬しています。でも、同じくらい佐村先生も尊敬してるんですよ」


「そうなの? 有り難う」


「でも……だからなのかな。佐村先生にも凄く目が向いちゃうんです。尊敬する方を見ちゃうのは無理ないことですよね? で、時々怖くなっちゃう。だって佐村先生、わたしの事になると、別人のようになっちゃうから」


 その瞬間、涼子さんの視線が泳ぎ、表情が僅かに強ばったのが分かった。

 

「そんな事はありません。教師として生徒はみんな平等に……」


「さっきもまるでヤキモチ焼かれてるみたいで怖かったです。生徒が体調不良で先生にもたれかかっていた。それだけで、なんであんなに睨まれちゃったのかな? わたしって何かいけない事したのかな? って心配になってしまいました」


「あれは、万一あなたに問題があったらと気になったただけです」


「わたし、そんな子だと思われてたんですか? 酷いです。前に3Bの女の子が倒れたとき、男の先生が抱きかかえてたときも、佐村先生心配そうに見てただけだったのに、なんでわたしだけ……あの時のショッピングモールの時もそうでしたもんね。ショーツの事を相談したときの佐村先生、怖かった」


 目を逸らして息を吐く佐村先生に、石丸さんは悲しそうな顔を向けて言った。


「もしかして佐村先生、わたしの事嫌いなんですか? 教師に個人的に嫌われるなんて、辛くて……


 それを聞いて、私も涼子さんも思わず顔が強ばった。

 生徒を登校拒否に追い込んでしまう。

 それが教師にとってどれほどの失点か。

 いや、失点どころか今の時代、教育界の評価としては犯罪行為に近い。

 まして教頭先生の1番のお気に入りである事は教師みんなの知る所となっている石丸さん……


「涌井先生は私の味方ですよね? 佐村先生が私の事をお嫌いでも」


「石丸さん、佐村先生はそんな人じゃ……」


「もし、私がこの事で悩んだ時、涌井先生は私の味方になって下さいますよね?」


 首を軽く横に傾けて私を見つめる石丸さんに私は、小さく頷くしか出来なかった。

 何なの……この子は。

 

 石丸さんはホッとしたような表情で言った。


「良かった。涌井先生さえ味方なら頑張れます。でも佐村先生に嫌われるのは……」


「石丸さん、さっきも言ったけど佐村先生はそんな人じゃないです。あなたの事を期待しているからこそ……」


「涌井先生、有り難うございます。もう大丈夫です」


 涼子さんは優しく微笑んで言った。


「ご免なさい、石丸さん。確かに私、あなたに過剰に気を回しすぎてたかも知れないわね。でもね、これはあくまでもあなたに期待してるからなの。あなたって飛び抜けた美人さんだし、学業も優秀。教頭先生も注目している」


 涼子さんは石丸さんに近づくと、そっと背中を撫でながら続けた。


「あなたは他の子とは違うの。分かるでしょ? あなただからこそ気に掛かっちゃう。あなたは私を尊敬していると言ってくれた。でも私も一緒。あなたを尊敬している。だからこそ、他の子は許せてもあなたはつい、ね。だからあなたのことは嫌いじゃ無いわ。誤解しないように。涌井先生も誤解される方では無いでしょうけど、念のため」


 そう言うと、涼子さんは「もうすぐお昼休みも終わりです。二人とも戻った方が良いですよ」と言って、会議室を出て行こうとしたが、その背中に石丸さんは言った。


「有り難うございます。誤解が解けて本当にホッとしちゃいました。これで安心して、涌井先生のお力になれます。


 その瞬間、涼子さんは一瞬足を止めたが、すぐに歩いて行った。

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