弾けるような心地よい泡
裸の背中を室内のエアコンからの冷たい風が撫でる。
本来は心地よいはずのそれは、自分の状況が夢ではないと思い知らされる辛いきっかけに感じられた。
そんな現実から目を背けるように畳にうつ伏せで丸まっている私の視界の端に、一糸まとわぬ姿でグラスに飲みものを入れて持ってくる石丸さんが見えた。
「先生、すっごく可愛かったです。なんかお互いの事、いっぱい知っちゃいましたね」
何がなんだか分からないうちに始まって、終わった。
底を絶えず漂うような、心を締め付けるような心地よさと共に。
そんな自分が悲しかった。
石丸さんの言う通り私は変態なのかもしれない。
石丸さんと一線を越えてしまって、それに対して心地よさを感じてしまっていた自分は。
「先生、サイダーで良かったです? 以前。ホームルームのときにサイダー好きっておっしゃってましたよね? それ以来、私も大好きになったんですよ」
そう言って彼女は横の薄汚れたテーブルにサイダーをおいたが、とても飲む気になれない。
「それ……ずっと前に1回言ったきりだったじゃない」
「先生の言葉は忘れません」
それに返事をせず、私はひどく不安になっている事を言った。
「写真……消して」
「先生と佐村さんのですよね。いいですよ。もう必要ないし」
「それもだけど……その……さっき撮ってた……」
「ああ、先生と私のです? お断りします。私の宝物ですから」
「脅迫罪に……なる」
「どうぞ。でも、多分ですけど先生がそれを警察に話して、すべてを失ってもいいと言う覚悟がおありな方だったら、ここまでにはなってなかったと思います」
痛いところを突かれ、思わず顔をそむけた。
まるで子供みたいだ。
思えば最初からずっとそうだった。
大人の石丸さんと子どもの私。
勝負になどならなかったのだ。
そう思うと情けなさと惨めさでたまらなく悲しくなり、嗚咽を漏らした。
「先生、泣かないでください」
石丸さんがの指が背筋をそっと撫ではじめ、私は体の芯に電流が走るような……気持ちよさを感じたが、構わずしゃくりあげながらつぶやいた。
「もう……おしまい。全部おしまい。佐村先生とも……学校も。やだ……」
「なんでですか」
石丸さんの言い方が酷く能天気に聞こえ、私は体を起こして石丸さんを見た。
あられもない格好だけど構うもんか。
「そうじゃないの……こんな事になって。これからずっと私を脅し続けるんでしょ。佐村先生とも別れろって……私を手下みたいにするんでしょ。あなたの思い通りになるように」
「え? そんな事しませんよ」
私は思わず目を見開いて彼女の顔を見つめ直した。
石丸さんは小首をかしげて言った。
「先生の生活は何も変わりません。佐村さんとは今までのお付き合いを続けてください。その時間は全然自由でいいんですよ。別れる必要はありません。佐村さんにも私達のことを言うつもりはありませんし。もちろん学校にも言いません。まして先生を手下って、そんな事……ふふっ、失礼ですけどサスペンスドラマ結構お好きなんですね。じゃあ私って崖から突き落とされる悪い人かな?」
石丸さんの言葉を私は信じられない気持ちで聞いていた。
脅したり……しない。
何も変わらない?
「じゃあ……あなたはどうしたいの?」
私は自分の言葉に驚くほどの熱を感じていた。
体が熱くて汗がじんわりと滲んでいる。
何も……変わらない。
「私を愛してください。佐村さんを愛するように……。そして私の生活に入ってきてほしいです。私も先生の生活に入りたいです」
「それってどういう……」
「それだけです。簡単でしょう? 愛する人が二人になるだけ。先生だって佐村さんと毎日ずっと一緒にいるわけじゃない。それ以外の時間を私にください。そして私といる間は私だけを見てください。そうしてくれたら見返りとして、先生にとって理想の生徒になります」
「どういう事?」
「明日から私は今まで以上に成績を良くします。自分で言うのもなんですけど、本気になったら学年でトップクラスになれますので。それも含めて、私のポイントになる事はすべて『涌井先生のお陰』になります。それって……先生のご出世に大きいんですよね?」
私は自分の心臓の音が早鐘のように鳴り響くのを感じた。
認めたくない。
だけど、石丸さんの言う通りだった。
それだけじゃない。
てっきりすべてを失うのだと思ってた。
でも、そうじゃない。
涼子さんとそのまま続く?
理想の……生徒?
私のお陰。
話がうますぎる。
心の隅でそんな言葉が浮かび、視線を泳がせた。
でも、その度に石丸さんの白磁のような肌が目に入って、胸の奥に怪しい疼きを感じる。
ああ……なんで、こんなに綺麗なんだろう。そして可愛いんだろう。
そんな都合の良いことがあるの?
でも、他に方法がない……
「悩んでます?」
石丸さんはそう言うと、私の頬に触れて優しく微笑んだ。
まるで出来の悪い子のワガママを許してくれる母親のように。
「何も心配しないでください。大丈夫ですよ。先生は何も失わない。そして私を味方にできる。変わるのはそれだけ。全ては元の日常です」
「それ、本当なの?」
「はい。約束します」
「……私、どうすればいいの?」
この瞬間、自分が弾ける泡の中にいるような心地よい安堵を感じたのが分かった。
石丸さんの真意は分からない。
でも、胃から何かがせり上がるような。
全身の血がどっか行っちゃうような。
そんな気持ち悪さから開放されたかった。
それがこんな理想的な条件で開放してくれる。
私は。テーブルの上のサイダーを手にとって飲んだ。
美味しい……
そうだ。
なんだかんだ言って石丸さんもまだ子供。
きっと脅迫、と言うものの程度が分かっていないのかも。
冷静になれ、彼女はまだ13歳じゃないか。
そんな私の内面を知ってか知らずか、石丸さんは無邪気な笑みで言った。
「う~ん、どうしよっかな……じゃあ『石丸さん、愛してる』と言ってください。私は『涌井先生、愛してます』と返す。それで契約成立です」
私は驚くほど素直に頷いた。
酷く疲れたな……お家に帰ってゆっくり考えよう。
「石丸さん……愛してる」
「涌井先生、愛してます」
そう言うと、石丸さんは何気ない手つきで携帯を触ると、再び横において言った。
「あと、もう一個わがままいいですか? 私がさっきの言葉を言ったら、先生も愛してる、って返してほしいな。この程度だったらいいですよね?」
「……その……くらいなら」
石丸さんはその直後、私をじっと見るとそっと肩を押した。
突然過ぎて抵抗もできず、私は畳に横たわった。
そして石丸さんは覆いかぶさると、薄笑いで私を見る。
また瞳が輝いてる。
でも、今度はなぜかきれいに見えた。
「どうしよう……先生見てたらまたドキドキしてきました」
そう言うと、私の胸に口づけをしてきた。
「涌井先生、愛してます……あれ? どういうんでしたっけ?」
ああ、そうだった。
「石丸さん、愛してる」
「うん、いい子」
それからしばらくの間、ずっと私の周りには薄く淡い桃色の霧が包んでいるように感じられたけど、それは涼子さんのときと同じで……もっと浸っていたいと思えた。
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