薄い膜の世界
10月も下旬になるとヒンヤリとした空気を感じるようになり、中学校の校舎にもチラホラとブレザーの上にもう一枚着る生徒の姿が見え始めた。
それは職員室の中も例外では無く、寒がりの江口先生などはすでにデスクの下に小型のヒーターを入れていた。
涼子さんはそれを見て「私、あの人の隣なんですよ。今の時点で熱いのに、真冬になったらコッチがバテますって。教頭先生に席替え頼もうかな」と、二人で食事をした席で憮然とした顔を浮かべながらぼやいていた。
そして、今日も相変わらず江口先生はヒーターを入れていた。
今日は学年会議なので、3年担当の涼子さんが居ないのは彼女にとって幸いだろう。
私も暑がりだから涼子さんには悪いけど、席が離れてて良かった……
そう思いながら、毎週恒例の学年会議のレジュメに目を通す。
5時から始まるので、大体残業となることもあり正直気が重いけど仕方ない。
特に今夜は涼子さんも両親と食事とのことで、一人で過ごすことになりそうな事もテンションを下げる元となっていた。
そんな気分のまま、学年主任の話は行事計画から学習時間や内容の検討と確認に移っていき、続いての生徒指導関係の議題に移ったとき、突然「涌井先生」と声が掛かったので、驚いて学年主任の高田先生の顔を見た。
高田先生は隣の市原礼子教頭と顔を見合わせて言った。
「今回の生徒指導についてですが、涌井先生の指導について話したいと思っています」
「あ、私……ですか?」
私……なんだろう?
何かやっちゃったかな?
そんな不安を余所に高田先生は、咳払いをして話し出した。
「皆さんの耳にも入っていると思いますが、涌井先生が担当する1Aは非常に成績が良好です。2学期の中間テストの総合点が学年でトップとなっています。特に石丸有紀さんの成績が際立っている。1学期の期末テストの480点に続いて、今回の中間テストは470点と学年トップの成績となっています」
隣に座っていた市原教頭が続けた。
「石丸有紀さんはそれだけでなく、放課後も率先してクラスメイトに勉強を教えているとのこと。その成果もあって1Aの成績はめざましい成長が見られます。1学期は正直そこまで目立つ生徒では無かったので、何かあったのかと思い彼女に話しかけてみたら、石丸さんが言った言葉……」
市原教頭は、もったいぶるように言葉を切ると私に視線を移して言った。
「それは『涌井先生に色々教えて頂き、勉強が楽しくなりました。それだけでなく、クラスメイトと助け合うことの大切さも時間をかけて親身に話して頂いて。それで変わることが出来ました。全部涌井先生のおかげです』と」
すでに満面の笑顔になっている市原教頭に合わせるように、職員室の中に拍手が響いた。
それを聞きながら自分の背中にくすぐったいような、でも心地よい震えが走るのを感じる。 隣の高田主任は教頭に向かって特に大きな拍手をした後、私の方を向き同じく満面の笑みで言った。
「涌井先生がここまで生徒の心を掴む術に長けているとは、嬉しい発見です。生徒のやる気を高め、その子の能力を引き出す。まさに教職員のあるべき姿。今の1A、そして石丸さんの成長を導いた涌井先生の手法をぜひ近々この会議で共有して頂ければと思います」
「手法なんて……そんな。ただ、生徒が何を望むのかを考えてただけです」
そう言いながら、自分の身体がポカポカとお風呂に入っているような熱を帯びているのが分かる。
胸が心地よく高鳴る……
学年会議が終わり、フワフワした気分のまま帰りの準備をしていると、近くに居た江口先生が私に向かってつぶやいた。
「石丸さん、すっかり手懐けましたね」
そう言った後、なぜか意味ありげにニヤついていたので、先ほどの心地よさに泥水をかけられたように感じた。
「そんな事……それに、生徒を『手懐ける』なんて言い方どうかと思いますが」
「すいません。涌井先生ほどの手腕なら、今後も石丸さんと深い繋がりも持てるでしょう。ただ……大事にしすぎて壊してしまった。そんな事もあるので気をつけて」
その言葉が感情を妙に刺激したせいだろうか。
職員室を出た江口先生を追って、その背中に言った。
「何ですか……その言い方」
江口先生は振り向くと、苦笑いを浮かべていった。
「ああ、誤解させてすいません。深い意味は無いですよ。生徒の事を知るための努力の形も1つじゃ無いでしょ。そういう意味です」
私の背中に冷たい何かが走るのを感じた。
「何が言いたいんです? ハッキリ言ってください」
「そう突っかからないで下さいよ。僕も言葉足らずで相手の感情を逆なでしてしまうので、直さないと。今度ぜひ教えてください。日にちを決めて」
そう言うと、江口先生は歩いて行った。
何なんだろう……あの人は。
心を覆うモヤモヤに深くため息をついた時、背中から市原教頭の声がかかった。
「大丈夫ですか? 涌井先生」
「あ、教頭。先ほどは……有り難うございました」
振り返ってペコリと頭を下げる私に、市原教頭はニコニコと手を振った。
「いえいえ、こちらこそ。あれだけ将来性のある生徒を開花させてくださったんだから、むしろこちらが感謝です」
「いえ、そんな……」
「そうだ、涌井先生。明日の夜お時間あります? 私の良く行くお寿司屋さんがあるんですが、ぜひ。先行して先生の教育論を伺いたくなっちゃいました」
「はい……ぜひご一緒します!」
教頭先生と食事なんて……初めてだ。
教頭が目をかけた教師を個人的に食事に誘うことをみんな知っていた。
そしてそういう教師はかなりの確率で出世している……
私も……やっと。
そんな心地に鳥肌を立てていると、市原教頭は私の背中越しに「あら、先生の可愛い教え子じゃない」とニッコリと笑うと手を小さく振って言った
「石丸さん」
振り返ると、そこにはカバンを両手で持ち、深々と頭を下げる石丸さんの姿があった。
「教頭先生。この前はお忙しい中お時間頂き有り難うございました」
「あらあら、何言ってるのよ。私があなたに付き合ってもらったんじゃ無いの。涌井先生への熱意ある言葉は今日の会議で話させてもらったからね」
「熱意なんて……日頃感じたことをお伝えしただけです」
「ふふっ、あなたって本当に1年生なの? 礼儀正しくて明るくて。前の学校での事もあったのに……」
前の学校?
そんな事初めて聞いた。
石丸さんの顔を見たが、彼女は表情を変えず市原教頭を真っ直ぐ見ていた。
「すいません、その事は……」
「あ、そうだったわね。ご免なさい」
このやり取りだけをみても市原教頭が石丸さんをお気に入りなのが見て取れる。
そもそも教頭の職にある人が1生徒にここまで肩入れしているのが異例なのだ。
ただ、気持ちも分かる。
今の石丸さんならこの先に待つ全国模試でもかなりの位置に付けるだろう。
そして、名門校に受かろう物なら瀧中の評判も……
しかも品行方正で、クラスを引っ張る存在。
教頭としても可愛がりたくなる気持ちは分かる。
彼女の本性を知らない限りは。
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