ある親子の契約
色々と濃密だった石丸さんの家での夜。
その毒気に当てられたかのように朝から頭が重かったが、別の事を考え続けていたせいか思いのほか気にならなかった。
職員室での朝礼の後、1人で廊下を歩いていると、江口先生に声をかけられたのだ。
「涌井先生、昨夜は失礼しました」
その言葉に私は思わず表情をこわばらせてしまい、すぐに返事が出来なかった。
ばれてた……
「そんな顔しないで下さいよ。今からの会話は彼女……石丸さんに言うつもりはありません」
「え?」
「僕が彼女にビンタされたとき、視線をさまよわせてたらたまたま貴方を見つけたんです。石丸さんは気付いていないでしょう」
独り言のようにつぶやくと、江口先生は私をニヤリと笑いながら見た。
「今日の夜、お時間いただけませんか? 石丸さんのことについてお話したい事があるんです。……ああ、言っとくと下心はありませんよ。僕と貴方はいわば戦友のようなものですからね」
「戦友って……」
「なぜそうなのかも今夜、お話しします」
江口先生の提案に対し、私は驚くほどあっさりと了承した。
上手くいえないけど、彼の雰囲気からはいつもの飄々としたものは無く、どこか切実さを感じていたからだ。
このチャンスを決して逃してはいけない気がしたのだ。
「有難うございます。じゃあ念のため、これを……このメモに有るお店に夜の7時に来てください。一緒に行動したらまずい。すでにご存知でしょうが、彼女は信じられないほど勘が鋭い子だから……後、当然ながら誰にも言ってはダメですよ」
そう言って小さなメモを渡すと、江口先生は周囲を見回してそそくさと階段を上がっていった。
メモを確認すると、そこには小さな字で有名な居酒屋「翔福」の名前が書かれていた。
※
あまりに緊張していたせいか、約束の時間より30分も早く着いてしまったが、驚いた事に江口先生もすでに到着していた。
「ああ、先生もお早い到着で。お互い何事も無く会えて嬉しいですよ」
私は頷いてパーテーションで仕切られた簡易なスペースに入った。
石丸さんから声をかけられたらどうごまかそうかと冷や冷やしてたけど、彼女もクラスメイトとの話があったり、放課後も一緒に遊びに行く約束をしていたのか、珍しく私には関わってこなかった。
今日に関しては本当に良かった……
涼子さんには食事に誘われたけど、友達と約束があると断った。
後ろ髪引かれたし、涼子さんも珍しくわずかな間こちらを探るような目で見ていたけど、すぐにいつもの笑顔に戻って了承してくれた。
お互いに注文を済ませると、私は部屋を見回した。
学校から車で40分もかかる場所にあるその居酒屋は、中々に騒がしい所だったが、ある程度は仕方ないだろう。
しかし、さすがの石丸さんも学校からこんなに離れた個室居酒屋にまで来ないだろうに、ここまで警戒するほどの事が……
「こんな離れたお店まですいません。念には念を、と思い」
「あ、いえ……大丈夫です。これは石丸さんを……」
「も、ありますが他の人もです」
「え?」
「涌井先生。あまり他人を信用しないほうがいい。あなたは根が善人過ぎる。そういう人は周囲に踊らされてるうちに、自分がいつの間にかぬかるみに腰まで浸かってることに気付かない」
「それは、誰の事を言ってるんですか」
「さあ」
そう話す江口先生はさっきまでの緊張したような表情ではなく、いつもの人を食ったようなにやけ顔に戻っていた。
「……で、お話しと言うのは」
「そうですね。ゆっくりと話を楽しむ場ではないですね。あなたは石丸さん……いや、有紀ちゃんのお父さんの事を聞きましたね」
「え?」
私はポカンとした。
今、なんていったの?
有紀……ちゃん?
江口先生は私の反応を楽しむように、ニヤニヤと笑った。
「今『何でコイツは下の名前で呼んでるんだ?』って思ったでしょう? でも、呼べるんですよ。僕は」
視線を泳がせている私に江口先生は表情を引き締めると言った。
「中々に処理しきれない情報かもしれませんが聞いてください。あなたが聞いた有紀ちゃんのお父さんのこと。別の女性に肩入れして有紀ちゃんたちを捨てた、と言う話。その女性の名前は江口洋子と言います。僕の母親です」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます