空白の場所

「すいません、先生。こんな雨の日に。しかも父に会って欲しいなんて我が儘言っちゃって」


 本当にね。

 そんな意地の悪い言葉が浮かんだけれども、このくらい許されるでしょ。

 私は、石丸さんを助手席に乗せて彼女の家に向かっていた。

 彼女の父親には実は会ったことが無い。

 学期中の転校であれば、保護者に会って学校のことを話すのだが、石丸さんは小学校卒業と共にこのA県に引っ越して来たので、今度の3者面談までは顔を合わせることはない。

 

 とにもかくにも今の私の脳内を占めているのはただ1つ。

 いかにボロを出さないようにするか。

 石丸さんは自身への性的虐待を匂わせているが、話を聞く限りこの内容では弱い。

 そんな中で、話をする?

 それこそ一歩間違えれば「保護者を犯罪者呼ばわりするダメ担任」と学校にクレームが来かねない。

 始末書ものじゃない。

 なので、当たり障り無く会話を済ませて、石丸さんのガス抜きもしてやった後、帰る。

 そして、彼女のこういうお願いは二度と聞かない。

 

 そう考えながら、車を走らせていると彼女の家が見えた。

 これはこれは……


 まるで昭和初期に建てられたようなボロボロの一軒家。

 前情報が無かったら、廃屋と言われても違和感がない。

 石丸さんのイメージにあまりに異なるので、内心驚いたけどまあこんな事はよくある。


「何か、ごめんなさい。オンボロで」


 石丸さんは俯きながらポツリと言った。


「全然、いいお家じゃない」


「立派な」とは言わずに、彼女に言われるまま玄関横のカーポートに車を入れた。

 しかし……こんな大雨の日に担任がアポ無し訪問なんて……

 考えれば考えるほどあり得ない。

 

 この子、何考えて……

 

 石丸さんの、男性の握りこぶしくらい? と錯覚するくらいの小さな横顔を改めて見ながら、チャイムを押す。

 心臓の音が雨音と混じり、一緒になって身体にまとわりついてくるようで辛い。

 ああ、身体が重い。


 少しすると、ドアの向こうからロックを外しているのであろう荒っぽい金属音が聞こえ、少ししてドアが開いた。


 そこに立っていたのは、ベージュのワイシャツを着て紙を後ろになでつけた、紳士という言葉が似合いそうな男性だった。


「お帰り、有紀。どうしたんだ、そんなに濡れて。後……こちらの方は」


「あの、私は石丸さんのクラスで担任をしている涌井由香里と申します」


 石丸さんの話から受けていたイメージとの落差に戸惑いながらも、事務的な挨拶をして頭を下げた。

 紳士的で優しそうな人。

 この……人が?


「ただいま。ごめんね、遅くなって。先生に家まで送ってもらっちゃった」


 そう軽い口調で言うと、石丸さんは靴を脱いで玄関を上がった。

 

 え……

 ポカンとする私に向かって振り向くと、石丸さんは笑顔で言った。


「先生も上がって。お礼にお茶でも飲んでいってもらえませんか」


 事態が飲み込めず突っ立っている私に今度は、男性の方が声をかけた。


「そうですね。ぜひ。あ、私は石丸一樹と言います。いつも有紀がお世話になっています。良ければ、飲み物でも出しますので少し休んでいって下さい」


 私……からかわれた?

 形容しがたいイライラが高まってきたが、流石に保護者の前で怒るわけには行かない。

 ましてや、性的虐待うんぬんなんて口が裂けても。

 月曜日には彼女を呼び出して、キツく言ってやろう。

 とはいえ、今は素直に聞いとかないと、トラブルは嫌だ……


「じゃあ……少しだけ」


 ※


 絶望的な外見と裏腹に屋内は掃除が行き届いていた。

 ただ、最低限の家具以外はほとんど無くて、まるでモデルルームみたいな無味乾燥ぶりなのは気になったが、石丸さんのどこか浮世離れした雰囲気とそれはそれで合っているように感じた。


「どうぞ、粗末なものですが。シロップとミルクもあるので、お好みで」


 そう言って一樹さんが出してくれたのは、グラスに入ったアイスコーヒーだった。


「あ、有り難うございます」


 そう言って、少しだけシロップを入れて飲んだ。

 その時初めて自分が思っていた以上に喉が渇いていたのに気付いた。


「先生。いつも有紀がお世話になってます」


 そう言って丁寧に頭を下げる一樹さんに、私も居住まいを正して同じく頭を下げた。


「ね、言ったとおりでしょ。涌井先生すっごく優しい人なんだから。今日も私がずぶ濡れになってたの見て、お家に上げてくれて……お風呂まで」


 え! そ、それ言う!?

 ビックリして石丸さんを見た。


「それはそれは……本当にすいません。改めてお礼を出来ればと」


 そう言って頭を下げられたが、私は慌てて手を振った。


「いえいえ! ほんと、気にしないで下さい! 担任として当たり前の……」


 そう言いかけた時。

 私の耳にふと何かの音が聞こえて、思わず言葉が止まった。

 何……今の。


 何かが溢れるような……いや、違う。

 もっと、生々しい……

 それは奥の襖の向こうから聞こえて来ていた。

 

「どうしたの、先生? 何かあった?」


「ねえ、石丸さん? 今……何か聞こえなかった?」


「やだ、この家には私たち以外誰も居ませんよ。……もしかして幽霊かな?」


 そう言ってイタズラっぽく笑う石丸さんの顔を見ながら、さっきの音の事をずっと考えていた。

 あの音……どこかで聞いた。


「あ、あの……有り難う。私、そろそろ帰るね。じゃあ石丸さん、また月曜に」


「はい、先生。有り難うございました。また月曜に」


「重ね重ね、有紀の事すいませんでした。また今度ゆっくりお礼を」


 私は頭を下げると、車に乗ってアパートに帰った。

 激しい雨は止む気配も無く、道路の端は一部に雨水が溢れている所もあった。

 

 これ以上、増水しないといいけど……


 その時。

 私の頭の中に何かが浮かんで、鳥肌が立った。

 

 そうだ。

 あの音。

 石丸さんの家で聞いた、襖の奥の部屋から聞こえた音。

 あれは……


 そう。

 あの音は嘔吐したときの音。

 でも何で彼女の部屋の奥から……

 二人は自分たち以外はいないと言っていた。

 石丸さんとお父さん。

 じゃあ、あの音は……


 アパートに帰って、部屋に戻った私は身体に鉛が入っているかのような、疲労感を感じていた。

 明日は日曜日。ゆっくり休もう。

 でも……シャワーを浴びたい。


 フラフラしながら脱衣所に入り、何気なく洗濯カゴを見た私は驚いた。

 そこには石丸さんのショーツが入っていた。

 彼女、忘れていった?

 いや、こんなの忘れるわけがない。

 でも……じゃあ、どうして。


 私は、混乱する頭と共に、じっとショーツを見ていた。

 動揺と共に、別の気持ちも沸いている自分に酷い嫌悪感を感じながら。

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