手のひらの花火

京野 薫

針の先ほどの痛み

 ベリーの香りのリップクリームを塗っているせいだろうか。

 彼女、石丸有紀いしまるゆきの唇は信じられないほどに甘く柔らかく、暖かくて……そして怖かった。

 

 同じ女性。中学1年生。そして……教え子。

 あらゆる面で深い穴に落っこちた……後戻りができなくなった自分を自覚させる恐怖と、ほのかに感じる気持ちよさ。

 その気持ちよさがたまらなく怖い。

 

 焼き印のように心と唇に刻まれた、私の決して許されない罪……

 私は早鐘のように鳴る自分の心臓の音を聞きながら、自分が震えているのが分かった。

 その時、石丸さんが唇を離してささやく。

 彼女の甘い吐息混じりの声が私の身体に響き、溶けていく……


「怖くないです。私に任せて。何も心配しなくてもいい。全て上手くいきます……だって愛してるから……先生」


 私は子供のように小さく頷きながら石丸さんを見た。

 全く乱れの無い見とれるようなミディアムボブの黒髪。

 澄み切った深い輝きを放つ大きな瞳。

 それは4月に初めて出会った頃と同じ……ううん、それ以上に私を吸い寄せて離さない。

 手垢の付いた言い方をするなら「私はまるで光に群がる蛾のような」


 そう。7月のあの日。

 包み込まれるような静かな雨音に満ちた初夏の日は、私……涌井由香里わくいゆかりの目の前にどうやら暗く深い穴がポッカリと空いていたらしい。

 甘い蜜に満ちた深淵への穴がポッカリと。

 

 ※


「涌井先生。お疲れ様です」


 その声と共に私の左頬に、缶のヒンヤリとした冷たさが伝わってきた。

 全くの不意打ちだったので驚いて横を見ると、後輩の佐村涼子さむらりょうこがクスクス笑いながら缶コーヒーを持っていた。


「こんな時間までお互い浮かばれないですよね。少し休みません?」


「そうね」


 私は自分の好みだった無糖の缶コーヒーを受け取ると、笑顔を浮かべた。 

 瀧郷たきごう中学校。通称瀧中。 

 私の職場であるこの学校で共に教鞭をとる彼女は、現在3年生の担任をしてる。


「佐村さんには負けるって。3年だよ? 本当に大変じゃない」


 その途端、佐村さんは待っていたかのように隣の椅子に座って、機関銃の様にしゃべり出した。


「そうなんですよ! 高校との面談はあるし、3者面談はあるわ受験関係の書類作成はあるわ。生徒のメンタルケアもしなきゃだし、この前なんて受験の事で泣いてる女の子の話、1時間くらい聞いてたんですよ。さすがに『私の業務じゃない!』って心の奥で叫びました!」


「まあ、でもちゃんと聞いてあげてるのは凄いよね。私は無理」


「そりゃ迂闊な事したら、親に怒鳴り込まれますからね。生徒もだけど親御さんも下手したらもっとナーバスになってますし。私には向いてないですよ」


 そう言いながらも彼女が丁寧な口調や物腰。そして熱意によって生徒や親御さんからも評判の良い教師であることを知っている私は、笑顔でデスクの引き出しからクッキーの袋を出した。


「はい、コーヒーのお礼。これでエネルギー補給しなさい」


「あ! それって最近ネットで話題のクッキーじゃ無いですか!? エグいですね先輩。さすが分かってる。ってか、缶コーヒーとじゃ釣り合いませんって」


 生徒や保護者に対しての落ち着いた口調とは異なり、私に対してだけ使うかなり砕けた口調も意外性があり好感を持っていた。


「気にしないの。何かあったら言ってね」


「はい! やったあ。じゃあ遠慮無く……でも、涌井先輩こそ。1年生ってこの前までランドセル背負ってたんですからね。そんな集団を相手にするのはエグいですよ」


 その言葉に私は曖昧に頷くと、窓の外を見た。

 また雨か……

 6月だから仕方ないけど、今月はほとんど雨ばかりな気がする。

 雨は好きだからまだいいけど、お日様の下で干さないと乾燥機ばかりでは完全に乾いた気がしない。


「雨ばっかでうっとうしいですよね。日の光が不十分だと、メンタルにも良くないらしいですよ。だからうちのクラスもメンヘラが多くなってるんですよ」


「うん……」


「あ、大丈夫です? なにかありました?」


 流石に鋭い洞察力だ。


「あ、分かった! 彼氏と何かあった!」


「違うよ。そもそも彼氏いないし」


「え、そうなんです? 涌井先輩本気で可愛いから、居ると思ったのに……」


 その言葉に私は微かに顔がこわばるのを感じた。

 あ、顔に出ちゃった……

 でも、幸い佐村さんは気付かなかったらしく、クッキーの欠片を口に入れて続けた。


「と、言いつつ私もです。教員ってホント出会い無いですよね。あ! 今度、友達と合コンやるんですけどどうです? 涌井先輩来たら相手の男達、めっちゃテンション上がると思いますよ」


「ありがと……でも、やめとく」


「そうですか、残念。でも行きたくなったらいつでも言ってください」


 そう言ってニコニコとしながら話す彼女に罪悪感を感じながら、私はさりげなく半分に割ったクッキーをつまむと、佐村さんの口に入れる。

 その時、私は偶然を装いながら自分の指先が佐村さんの唇に触れるようにした。

 指先から伝わる柔らかい感触に心が浮き立つ。

 

「その気持ちだけで充分。ライバルが少ない方がいいでしょ?」


 胸の高鳴りと浮ついた心を悟られないように、わざと明るい口調で言った。


「ホント、先輩のそういうとこ惚れますよ。私が男だったらな」


 そこまで言ったとき、彼女の携帯が軽やかな音を立てた。

 

「あ、そろそろ帰らなきゃ! 今、実家の両親が来てるんですよ。まだご飯食べずに待ってるみたいで……子供じゃ無いんだから」


 そう言って不満げな様子で口を尖らせる佐村さんに、クッキーの袋をもう一袋出して渡した。


「これあげる。私はもうちょっとしたら帰るから。早く行ってあげて。あと、合コン上手くいくといいね」


「すいません、色々と。いいカフェ見つけたから今度、良かったらお茶しましょうね」


 そう言うと佐村さんはバッグを持って職員室を出て行った。

 彼女がいなくなり、職員室は急にヒンヤリとした空気に包まれたように思えた。


「彼氏……か」


 私は針の先ほどのチクリとした痛みを感じながらつぶやくと、先ほどまで佐村さんが座っていた椅子を見た。 

 周囲を見回し誰もいないことを確認すると、彼女の座っていた座面にそっと手を置く。

 佐村さんの温もりが右の手のひらから伝わってきて、心臓が心地よく高鳴る。

 こんな……思春期の男子みたいな。

 苦笑いしながら、デスクの上のスマホを手に取りフォルダの中の画像を見た。


 そこにはこっそりと撮った佐村さんの画像。

 生徒と中庭で話している姿。

 自然な笑顔が彼女の良さを引き出しててお気に入りなのだ。

 撮ってる最中はドキドキしたが、もし見つかったら「生徒との交流風景が微笑ましかった」と誤魔化すつもりだった。

 女子同士だから大丈夫だろうと言う浅ましい考えもあった。


 佐村さんの画像をひとしきり眺めた後、私の目は女子生徒達の輪の中に写っている1人の子に向かった。


 輪の端に座って薄く微笑んでいる子。

 石丸有紀。

 やはり彼女に目が行ってしまう。

 入学と共に他県から引っ越してきた彼女。

 クラスでも口数の少ない子、と言うのがクラスメイトの共通認識だったが、彼女は自己紹介の時から人目を引いていた。

 

 大人と少女が混じったような不思議な美貌。

 そして、陶器のような美しい肌。

 男子達がざわついていたのを良く覚えている。

 

 そして、私が彼女に目が行くのも同じ理由だった。

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