黒い絵

「どうされたんですか? そんな所に立ったままで。ビックリされました?」


 石丸さんの妖しげな笑みを私は見返したけど、自分が呼吸をするのを忘れていたことに気付いたのはもうちょっと後だった。


 彼女の部屋は何も無かった。

 いや、正しくは簡素な勉強机とベッド、後は壁に掛かった1枚の絵。

 それが全てだった。

 文字通り。


 勉強机は木製の至ってシンプルな物で、上には教科書や参考書が整然と並んでいた。

 部屋の端のベッドはスチール製で、まるで病院のベッドかと思うくらい真っ白なシーツが掛かっている。

 これだけ見ると、まるで病室……いや、今時病室の方がまだ人の匂いを感じる。

 そう。

 彼女の部屋からは人の体温を感じなかった。


 そんな氷のような部屋で、一際異彩を放っていたのは向かって正面の壁に飾られていた一枚の大きな絵だった。


 それは色鉛筆で描かれた物で、素人臭いラフなタッチで家族が多分3人並んでいる物だった。

 「多分3人」と言うのは、右側の母親と真ん中の女の子は顔があったが、左端の人物は黒い絵の具でベッタリと顔も含む全身が塗りつぶされていたのだ。

 全体に淡い色合いの色鉛筆で描かれていたが、左端の黒色の印象が強すぎて、全体に黒い絵のように見える。

 そして、黒く見えるのは色合いのせいだけでなく、女性と少女の不気味さもある。

 

 2人とも顔の下半分だけが笑っている。

 

 もちろん、素人が書いた絵なら表情豊かに書くことは難しい。

 でも、この表情は……技術の拙さでなく、意図的に書いている様に見えた。

 上手く言えないけど、そう見える。

 とても、普通の感性では無かった。


「この絵は……あなたが書いたの?」


「いいえ。ママが書いてくれた物です。大切なプレゼント」


 そう言いながら絵に歩み寄っているせいで彼女の表情は見えない。


「黒く塗りつぶしてるのは?」


「これもママです。この状態でプレゼントされました。私が小学校4年の時に」


 そんな……

 こんな狂気さえも感じる絵を4年生の子に。

 とても普通の発想では無い。

 お母さんはなぜこんな絵を?

 石丸さんの両親はどんな人なんだろう?

 それはこの酷く無味乾燥な部屋にも関係あるのだろうか。


「呆然とされてますね。そっか、私の部屋を見た人はそんな風に思うんですね。実はこの部屋に誰かをお誘いしたのは先生が初めてなんですよ。文字通りの意味です」


「え? でも、お父さんは……」


「お父さん? いませんよ、そんな人」


「あ……でも……言ったじゃ無い。お父さんにセクハラを受けているって。その後、お家に行ったとき、お父さんが出てこられたでしょ」


「すいません先生。もう嘘の必要ないので言っちゃいます。薄々気付いてると思ってたけど……先生ってホント、純粋無垢なお方ですね」


 そう言って石丸さんは両手を口に当ててクスクス笑っていた。


「ご免なさい、嘘ついてました。セクハラの件は先生と接点を増やしたくてデタラメを。あの時先生が会った人は、私の叔父です。でも、そこについては嘘ついてませんよ。思い出して下さい。あの場で私もおじさまも一言もだと言ってませんでしたよ」


 そう言われてあの場のやり取りを思い出した。

 そう……言えば……

 それもこれも全て、私を手に入れるため?

 馬鹿げてる……

 普通じゃ無い。

 

 そうだ。そもそもこの子は普通なのだろうか?

 今まで当たり前の様にこの子は「極めて頭脳明晰な優等生」と思っていた。

 でも、もしそうでなかったら?

 頭脳明晰な優等生が正常とは限らない。


 そう思うと、この部屋全体から耐えがたいくらいの圧迫感を感じ、頭がクラクラしてきた。


「どうしました、先生?」


「大丈夫……なんでもない」


「私の事、怖いですか?」


 突然、心の中をのぞき込まれたようで、私は思わず身を縮こまらせた。


「そ、そんな事……ない」


 その途端、石丸さんは弾けるように笑い出した。


「だから頑張っても無駄ですって、先生。嘘が丸わかりなんだから。本当に可愛い! 普通に怖いと思いますよ。いきなりこんな牢屋みたいな部屋を見せられて、こんな普通じゃ無い絵を見せられて『ママが書きました』なんて。精神科医が見たら私かママは措置入院でもおかしくないです」 


「異常なんて思ってないわ」


「有り難うございます。そうですね、自分で言う事じゃないけど、精神は正常だと思ってます」


「そう思うならなんで見せたの?」


「何でだろう? ご免なさい。私にも分かんないです。最初はこの部屋をお見せする予定は無かったんです。お話ししてて、ふっと見せたいと思って。特にこの絵を。なんでだろう……」


「黒く塗られた人はあなたのお父さん?」


 石丸さんは小首をかしげて言った。


「う~ん、分かんないです。ママは何も言ってくれなかったから。でも、多分そうだと思います」


「あなたのお父さんって、どんな人だったの?」


「言いません。先生が正式に私の家族になってくれたら教えますよ」


「家族って……日本では同性婚は……」


「わ、嬉しい。私、結婚なんて一言も言ってないですよ。それで結婚と連想してくれたなんて、頑張ってきた甲斐があります」


「だから……からかわないで! じゃあもう一つ聞くけど、前にお邪魔したときの嘔吐のような音はなに?」


「あ、やっぱり聞こえてたんですね。すいません、ご不快な思いをさせちゃって。でも、もうので大丈夫ですよ」


 え……


「それって……どういうこと?」


「どういう事って……そのままの意味です」


 そう言って石丸さんは笑顔を見せたけど……その笑顔は、まるで陶器で出来た人形のような、美しく品があるけど……感情が見えなかった。

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